経験」がある。これは今、言葉の上だけで否定されただけでは、君にとっては思い直しようの無い事であろう。かつ、僕自身も亦君の言う「新劇では食えなかった経験」をして来たし、現在でも或る意味では、それを経験しつつある者の一人だ。
 しかし、敢えて僕は否定する。僕は言う。それは嘘だと。まあ聞きたまえ。
 それは僕が、言葉の上で否定するのでは無い。事実が、目に見える在りのままの事として否定しているのだ。まあ聞け。「食えない」と言うことを「食えなくなるであろうと想定する観念」や「食えなくなるかも知れぬ不安」や「カツカツに生きて行けるだけの貧乏」と解するのは、まちがいである。それはスコラだ。本当は「食えない」と言うことは「餓死する」ことなのだ。
 そして、昔から今に至るまで、新劇――と言って悪ければ、演劇を良心的にやっていて、そのために餓死した者が一人でも居るか? 僕は知らぬ。何かをしていて、また、よしんば何をやっていても貧乏する者はいるし、又、その貧乏の果てに病死する者はいる。人間は誰に限らず一度は死ぬのだから。しかし、良心的な演劇をやっていたために、その事だけのために餓死したと言える人は一人も居ないのである。事実としてだ。君の眼を蔽うている「不安」や「恐怖」や「伝説」の色眼鏡をはずして[#「はずして」は底本では「はづして」]事実そのものを見たまえ。遠くを見る必要は無い。君自身を見たまえ。それから僕を見たまえ。過去から現在に至るまで、どんなにわれわれが演劇のために打込んでいた時でも、餓死はおろか、君も僕も、二日位飯の食えない時は有ったが、七日間飯の食えない事は無かったではないか! また、家族や友人を餓えの果てにのたれ死にさせた事は一度も無かったではないか! また、病気になっても金が無くて医者にも見て貰えないし、薬も飲めなかった事はあっても、その病気のために君も僕も倒れてしまいはしなかったではないか! 事実を見るがよい。「ひどい貧乏」のことを、そのまま食えないと言うのは言い過ぎであるし、ただの感傷である。結局は、それは嘘なんだ。そんな感傷や嘘から出発して或る事を究明しようとしたり結論を下そうとするのは、まちがいである。「でも、芝居の仕事をやって居れぬ程まで貧乏すると言う事は、結局、演劇人にとって死である。僕の言っているのは、その事だ」
 と、君は言うかも知れぬ。正にそうである。そし
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