楽にやりはじめようとしている本職俳優なのだ。これを見れば本職演劇人は二重に怒る。僕が君達に対して抱く怒りは、その様な怒りである。それから又、僕が君達の前途に対して抱く心配も亦、その様な心配である。つまり、僕は君達――わが兄弟達に遠からずして血へどを吐いて引きさがらせるような事をさせたく無いのだ。
 君は「道楽だと言われてもよい」と言っている。馬鹿を言うな! 君達が「今日本に必要な高い」演劇のために役立ちたいと決心して本気で立ちあがったのが真実であるならば、それが道楽だと言われてよい事があるか! 絶対によく無い! ドロボウもしないのに人から「ドロボウ」と言われてもよいのか? 謙遜と卑屈とは違う。君達は、実は、その様に謙遜らしい卑屈な言辞を以て自分達のシミッタレな根性を蔽いかくし弁解しようとしているに過ぎないのではないか?
 今の日本が必要としている高い演劇を創り出し、それに役立とうと言う志は、現在の演劇人にとっては、最高にして至純なる目的である。それは、われわれが自己の持物の一切を放棄し、更に自己の心身の全部をあげて取りかかるのに値いする目的である。しかも、そうしても尚、果して達成する事の出来るか出来ぬか判らぬ位に困難な目的である。その様に光輝ある困難な目的に向って発心し発願しながら、君達は、それに向ってなにほどの代償を払おうとしているか? 全心身は勿論、払おうとはしていない。持物の全部を賭けようともしていない。ただ、君達の持物の一部分――その本業である映画その他の仕事で得た金の中から、自分の生活費を差し引いた残りの金の、そのまた一部分と、それから君達の「暇々」と、それから、君達を動かす動力としての善意では無くて君達の装飾品としての「良心」それだけだ。たったそれだけで君達は、この最高至純の目的を手に入れようとしているのだ。それは、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]愚かであり、そして、まちがっている。

      4

「しかし、そうしなければ、食えない。食えなければ、良い仕事を永続的にはやれない。そして永続しない仕事は、結局、良い仕事にはならない。だから、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]食う心配を無くしてから、とりかかるのだ」と君は言っている。
 一応もっともらしく聞こえる。それに、前にも書いたように、君には、君自身の体に叩き込んで来た、「新劇では食えなかった
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