ん、どうして? 喫茶店は、私、ただ驛の方を見張つているために、毎日來てるの」
「え? 見張る? すると……いや、だからさ、すると、家に歸つたんだね?」「家?」
「高圓寺の、その君の――」
「ううん、家へは、私、もう戻れないわ」
話が喰い合つて來ない。
はげしい音を立てて走つている、混み合つた省線の中で、細かい話はできなかつた。とにかく、どうしているかと思つていた當人が、身なりこそ急に變つてしまつたけれど、落ちついた樣子で現われたと言うことで、私は急に肩の荷がおりたようにホッとしていた。さしあたり、家出の事情を、にわかに追求する氣は無くしていた。
そんな事よりも、ルリを一目見た時から、この女が急に美しくなつているのに、私はびつくりしていたのだ。それは、ほとんど別人になつてしまつたような變りかたである。この前逢つてから、まだホンの數日にしかならないのに、どんな事がこの女の内で起きたのか?
もともと貴族の血筋の、顏形も身體つきも、ほとんど古めかしい位に典雅な線を持つた女だが、これまで、特に美しい女だとは思つていなかつた。それが、まるで花が一夜にして開いたようになつている。先ず、陶器の肌のようにスベスベした皮膚が、以前は白く乾いて、不透明だつたのが、シットリと濡れたようになり、内側から血が差して、それが微かにすけて見える。貴重な種のバラの花のクリーム色の花瓣でも見ているようだ。それに眼だ。どこがどうと説明はできないが、まるで、ちがつてしまつた。人を眞正面からヒタと見てたじろがない視線はそのままだが、黒目にツヤを帶びて直ぐにも泣き出しそうな、せつないような色を浮べて、強く光つている。あとは、どこがどうなつたのか、よくわからない。着ているのが、男の着るような紺がすりの防空服であるのが、かえつて效果的で、ゴツゴツ黒い布にすぐれた白磁の壺を包んだように、さえざえと目立つのである。先程から、わきに立つた佐々兼武もビックリしたように眼を据えてルリの顏ばかり見守つていた。
15[#「15」は縦中横]
「どうなすつて、センセ? 顏ばかりごらんなつて? なんか附いてる?」そう言つてルリは片手で自分の頬をツルリと撫でた。
「いや……君の姉さんの御主人だつて言う人、――小松さんか――こないだ僕んとこに來たよ」
「へえ? 義兄《にい》さんが? どうしてかしら?」
「どうしてつて、君が家出をして何處へ行つたかわからんから」
「ふーん。そう?」
「なんでもお母さんは苦に病んで寢こんでいられるそうだ。實は僕も、君を搜していた。……どんな事情だか僕にはわからんけど、一度家に歸つたらどうかな?」
「歸らないの家には、もう」
アッサリ言つて、窓の外を見た。ちようど電車はその高圓寺邊を走つていたが、彼女の顏には別に變つた表情は現われない。それを見ていて、今にわかに家に歸ることをすすめても、なんの效果も無いだろうと言う氣が私にした。
「どうしてだろう?」
「ううん、ただ家には居たくないの。お母さまが寢ついているんだつて――そうね。やつぱり心配はなすつているでしようけど、私のことでじや無いのよ。いえ、そりや私の事についてじやあるにはあつても、この私、つまり此處にこうしている私という人間――つまり、そのためじや無い。うまく言えないんだけど――それがお母さまや姉さまや義兄さんなのよ。先生にや、わかんないわ」
「しかし、とにかく心配なさつている事は事實だし、別に大したわけが無いんだつたら、一度歸つて、よく話してから又出るようにしたらどうだろう?」
「フフフ」明るく笑つて「ダメ! 先生にや、私の家の人たちのこと、わかんないの。先生だけで無く、誰にだつてわかるもんですか。あの人たちはみんなキチガイよ」
「……そいで今君はどこに住んでいる?」
「お友だちんとこ」
「R劇團の方は?」
「やめちやつた」
ケロケロした調子だ、私はしばらく默つていてから、すこし思い切つて、
「君が家に殘して行つた置手紙を、小松さんが持つて來て、僕にも讀ましてくれたよ」
と言つて、ルリの顏を見ていた。
「ふん」と低く言つて、眼は伏せないで默つている。
「……ぜんたい、どんな事があつたの、貴島君と――」
返事は無い。表情もほとんど變らない。ただ、耳の附根の邊からパーッと見る見るうちに血が走つて、顏がまつ赤になつた。まるで、夕立ちが近よつて來るようだ。目がさめるようだつた。私を見つめている兩眼が急に大きくなり、やがて、その兩眼から、まるで集つて來た血を濾過でもしたような調子に大粒の涙の玉が一つずつ、ポロリと出た。それでも怒つたように口を開かない。そのうちに、今度はスーッといつぺんに血が引いて、眞青になつた。腦貧血かなにか、そのまま倒れるのではないかという氣がした。私がめんくらつて、
「おい、ルリ――」と、肩に手をかけようとすると、その手を默つたまま拂いのけるようにして、いきなりクルリと身をひるがえすや、そこらの乘客を突きのけるように掻き分けて、ドアの方に突き進んだ。人が混んでいなければ、そのまま驅け出して、いきなり車外へ飛び出しでもしそうな勢いである。ビックリして私は後を追つた。やつとドアの前の所で、彼女をつかまえた。幸い電車はまだ走つていて、ドアはしまつている。しかし、開いた窓からでも飛び出しかねない樣子なので――いや、いかに綿貫ルリが無鐡砲でも走つている電車の窓から飛び降りたりする道理は無いのだが、その時の血相から私にはそんな氣がしたのだ――私は彼女の左の腕をしつかりと掴んだ。
附近の乘客たちが變な顏をしてジロジロ見ている。ルリはそれらの視線を平然と見返しながら立つている。しかし、彼女の身内が細かくブルブルとふるえているのが、掴んでいる腕から傳わつて來た。何か遠くの、底の方から電氣の嵐のようなものが、近づいて來るような感じだつた。全體どうしたのだ? もしかすると、氣がヘンなのではないか、こいつは?……衆人環視の中で、若い女の腕を掴んで立つていなければならないテレくささ、それに何だか譯もわからない、いや、わかつたとしても、どうせ大した譯でも無さそうな事で、こんな大げさな眞似をする小娘のうるささ、それをしかし勝手にしろと打ち捨てて立ち去つてしまうわけにも行かない――私はすこし腹が立つて來ていた。ルリは一言も言わない。ありがたい事に、間も無く電車はS驛に停つた。ルリはサッサと降りながら、青い顏のままチラリと私を見たが、足は停めず、胸を張つてスッスッとプラットフォームを行く。別に逃げ出そうという氣配も無い。やれやれと思いながら並んで歩いた。
「三好さん、そいじや、僕、ここで失敬します」
うしろで聲がするので振返ると佐々兼武だ。實は、彼のことを私は胴忘れしていた。
「そう、そいじやまあ――」
「近いうちに、お伺いするかも知れません」と佐々は不遠慮な眼つきでルリの方を見ながら、「いずれ貴島と連絡がつきましたら」
「え、貴島さん?」ルリが立停つて佐々を正面から見すえた。「………貴島さん、どこに居るんですの?」
「いやあ……」佐々は、ルリと私を見くらべながらニヤニヤしている。
私は、かんたんに二人を紹介した。佐々はルリに對して強い興味を持ちはじめたらしい。ルリの方は、貴島といつしよに暮している友人だと言われて、急に早口で言い出した。
「……貴島さん、どこに居るんです? 住居が荻窪だとだけで、荻窪のどこだかわからないし、しかたが無いので、驛の所で待つていれば、いつか必らず通る筈だと思つたので毎日驛の前の喫茶店から見張つていたんです。今日もそうなの。そこへ先生たちが來たんだわ。どこに居るんです。あの人は? 私はあの人に會わなければならないんです。いつしよに連れて行つて下さい!」
「……でも、貴島君は、今、家には居ないよ。實はそこから僕等は出て來たんだから。ねえ佐々君」
「ええ。……當分歸つて來ませんね」
「どこに居るんですの、だから?」
いつの間にか三人は驛の構外に出ていた。とにかく、そこらでお茶でもと言う事にして、私は二人をつれてSのゴミゴミした裏町の顏見知りのカフエへ行つた。
腰をおろしてからも、ルリは私の方など振り向きもしないで、佐々に詰め寄るようにして貴島のことを追求した。わがままな子供が物ねだりをするように、ただ、むやみとイチズで、左右のことを顧慮しない。さすがの佐々が受けかねてシドロモドロになつていた。
「ですから、僕もハッキリ知らないんですよ」
「ウソ! だつて、さつき貴島さんと連絡すると言つてたじや、ありませんの!」
チャンと聞いているのだ。
「いや、それは、連絡がとれたら、知らせると言つたんです」
「どつちせ、あなた御存じだわ。そうでしよう? どうして、それをかくそうとなさるの?」
「かくそうとなんかしていませんよ。横濱だつてことは知つているけど、僕も今のところ、それ以上の事は知らないんだ」
「横濱?」
「そうですよ。僕が知らんだけでなく、誰も知らんですよ。人に知られるとヤバイから、あちこち轉々として隱れているらしいから――」
「ヤバイ? ……じや、なんかしたんですの、惡いこと?」
「ううん、いや、そんなわけじや無いけど、その、仲間のチョットしたゴタゴタで、とにかく、當分出て來ない方がいいから――」
「一體、どんな仕事しているんですの?」
「知りません僕あ。……でも、あなたは、どうしてそんなに貴島に會いたがるんです?」
「あなたに關係の有ることじや無いわよ! それよりも、どうしてあなたは、あの人に私を會わせまいとなさるの?」
「ヘヘ、誰も會わせまいとなんかしていないじやありませんか? 第一、待つていれば、そのうち彼奴は戻つて來るんだ」
「早く會わなきやならないワケが有るのよ! バカねえ、あなたは! そんな事、あなたなんぞの御存じなくたつて、いい事だわ!」
「そうですか、ヘヘ!」と佐々があざ笑つて「んなら、そいでいいじやありませんか。ヘヘ! だから、僕は知らんと言つてるんだ」
ルリは佐々を睨んで、つかみかからんばかりの樣子をしている。なにか滑稽であつた。
「まあ、いいじやないか、そりや」と私は言つた。「どうしても[#「「どうしても」は底本では「どうしても」]會わなければならないのなら、僕からも頼んで、會わしてもらうさ。ねえ佐々君、ハッキリ貴島の所がわかれば、そう出來ない事は無いだろう?」
「ええ、まあ、そりや――」
「だから……いや、それよりも、どうしてそんなに貴島の事――つまり、貴島が君に、全體、どんな事をしたの? それを話してくれないと、僕等にはわからないんだ」
今度はすこし開き直つてそれを言つた。こんな小娘の相手からいつまでも引きずり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]されていても仕方が無いという氣持が動いていた。すると、ルリは、急にピタリと默つてしまつた。こちらの語氣を察したせいか、目の前のコーヒー茶碗に目を落したまま、何か考えているふうで、いつまでも口を開かない。相變らず怒つたような顏だが、電車の中とはだいぶ樣子がちがつていて、底に急にショゲてしおれたような表情があつた。伏目になつたマブタの、すこし青味を帶びてフックリとした線が、情を含んで、何かの彫刻のようだ。その横顏を、さすがに佐々も笑いを引つこめて見ていた。
「……どうだろう、それはそれとして、いちおう、家に歸つたらどうかね? ……どうだい? そうしたまえな」
それでもルリは顏を上げようともしない。よし、小松敏喬に電話をして、とにかく一度引き渡そうと言う氣になつた。佐々に眼くばせをしてから一人席を立ち、店の奧へ入つて行き、そこに居る顏見知りの女給に低い聲で近くに電話はないだろうかと聞くと、四五軒先きの食料品問屋を教えてくれた。私はカフエの裏口からソッと拔け出して、その問屋へ行き、頼んで電話を借りると、かねて手帳に控えて置いた小松敏喬の役所を呼び出しにかかつたが、なかなか、かからない。空襲のために殆んど全滅した電話が、やつといくらかずつ復舊しつつあつた時分で、どうにかした拍子で運
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