が良いと直ぐに通じるが、通じないとなると、いくら待つても駄目なことが珍らしく無かつた。その日がそれで、何度ダイヤルを※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しても、受話器の底でブーブーガアガア言うだけ。見かねてその店の店員が代つて呼び出そうとしてくれたが、遂に駄目。あきらめる他に無かつた。それで二三十分も費したろうか、カフエに歸つて行き、表口から入つて隅の方に眼をやると、ルリも佐々も居なくなつている。店の中央の植木のそばに來て立つていた女給が
「通じまして、電話?」
「いや、通じなかつた、ええと、連れは、どうしたろう?」
「あの、もうさつき、お歸りんなりましたけど」
「え? そんな筈は無いんだが。なんか、そいで、言つてなかつた?」
「男の方が、あの、急いで女の方を追いかけるようにして出て行きながら、いずれ、二三日中にお訪ねするからと言つてくれ。そうおつしやつて。……いえ、あなたが電話をかけにおでかけんなつた直ぐ後、二人で何か押し問答をなすつているようでした。そのうち、まるで口喧嘩みたいになつて、それからチョット、シーンとしたと思うと、ガタガタッと音がするもんですから、びつくりして私ここへ出てみると、驅け出して女の方が出て行く姿がガラス越しに見えましてね、それから、男の方が急いで私にそう言つてから、後を追つかけて飛び出して、見えなくなつたんです」
「そうか……」私は窓ガラス越しに、その方を見た。盛り場のマーケット裏の晝さがりの露路のゴタゴタした風景に、事も無く薄日がさしているだけだつた。
「……どうなすつたんですの?」
「いや」
「でも」と女給はなんと思つたか眼だけで笑つて「綺麗な人ですわねえ。どういう方?」
受け答えをする氣も起きなかつた。思うにルリは、私が小松敏喬の方へ電話をかけに行つたのをそれと察して、逃げ出したのらしい。さしあたり、どうしようもありはしなかつた。わたしはスゴスゴと飮物の金を拂つて、家へ歸つた。
16[#「16」は縦中横]
「實にすばらしい肉體をしているんですよ。僕あ、たまげたなあ! タフでねえ、どんな恰好でも出來るんだ。アクロバット同然です。股の間から顏を出せと言えば、なんの苦も無く、スラリと出す。それでいてグニャグニャはしてません。ピシッとして、恐ろしくねばりのある筋肉を持つています。身體中の軟骨部が恐ろしく軟かで強いんですよ。唯單に、造形的な均整と言うだけから言つても、ほとんど理想に近いんです。千人に一人と言いたいが、日本人の間では一萬人に一人も居るか居ないか、あぶない。そう言うんですよ、Nが。Nと言うのは、繪描きになりそこなつて寫眞屋になつた男でインチキ野郎だけど、女の事はわかるんだ。ひでえ助平でね。殘念ながら、これだけの身體の女あ、平民の血筋にや、チョッと現われて來ないと言うんですねえ。シャクだけど、この代々の大ブルジョアだとか、古くから續いている貴族共が、世の中の美しい女を選り取りにして、子を生ませる。その子が又、美しい男や美しい女を選り取りにしてと言つたふうに――つまり一種の自然淘汰だなあ。それを永い間續けて來た血筋にや、かなわねえと言うんですね。實際、シャクだな。ロシヤだとかフランスの革命の時に、貴族の娘なんかを掴まえて、やつつけちやつたりしたのは、そう言つた事に對する復讐心が、たしかに有るんだな。僕だつて、ルリ君の裸を見た時に、たしかに、そんな風なものを感じたもん。そうだ、復讐心とは言えないけれど、つまりです、何代か前の僕の祖先の何人かの男たちが、自分たちの惚れた美しい女を、貴族やブルジョアに横取りされて來た、そのウラミ――その男たちのウラミみたいな氣持が、僕の中にムラムラッとね。コンチキショウ! と言う氣がしたなあ。Nの野郎なんぞ、初めてじやないのに、齒を食いしばつて、ヨダレを垂らしているんだ。それほど美しいんですよ。手も足も胴もスラリッとして、まるで、ギリシャ建築の白い圓柱のように、伸びているんです。その割に胴は短かくつて、何ともかんとも言えない丸味を持つているんだ。痩せているように見えるが、痩せてはいないんですよ。スーッと、うねつているんです」
三四日たつて、私を訪ねて來た佐々兼武が、室に通つて坐つたかと思うと、例の人をいくらか嘲弄するような調子と人に取り入るような愛嬌のある調子とを突きまぜた話し方で、時々舌なめずりをしながら、ペラペラとやり出した。話しながら彼がポケットから出して見せてくれたキャビネ版の寫眞が、私の膝の前にあつた。全裸體の女が長椅子に横になつて、おかしな姿勢をしている寫眞で、一種の猥畫の類だが、女は一人だし、引きしまつた均整のとれた身體をしているために、それほど猥せつな感じはしない。よくあつた兵隊慰問用の寫眞を上等にしたような物だつた。女は横顏を見せているが、綿貫ルリとは似もつかない、知らない顏である。佐々は、それをルリの寫眞だと言うのだ。――
「顏だけは、ほかの女をモンタージュするんですよ。どう見てもそんな細工がしてあるようには見えないでしよう? そうなんですよ。うまいんだ。Nと言う野郎はインチキ野郎だけど、そういう技術だけは、東京で一二かも知れません。以前に僕の方の雜誌の寫眞部で三四囘この男を使つたことがあるんでね、知つてるんです。頭の禿げた四十過ぎの獨身の男です。氣は良いんです。氣の弱い、善人だな。この男は、このような寫眞を自分の道樂と金もうけの二道かけて作つては賣つているんですが、一方で――いや、裸體寫眞を寫すには身體の良いモデルが必要なので、そのモデル搜しのためもあつて、方々のレヴュ團やアチャラカ劇團なんかに出入りして、舞臺寫眞や女優の寫眞などを非常に安く、場合によつてタダで撮つてやつたりしていましてね、そんな事で、R劇團にも出入りしていてかなり前からルリには目を附けていたらしいんです。モデルになつてくれるように一二度頼んだような事も言つていました。物やさしいし、それにネバリ強いんですよ、女の子には工合が良いんだね。そこへちようどルリがR劇團を出たいという事をチョットしやべつたらしい。
「行く所が無ければ、いつでもいいから自分の所においでなさいと言われて、ツイ行つたんですね。下にも置かないように、もてなしたらしい。トタンに、どう説きつけたか、――Nに言わせると、自分は決して無理に頼んだわけじや無い、ルリさんはほとんど自分から望むようにしてモデルになつたんだと言いますがね、もつとも顏だけは自分であることがわからないようにしてくれなければイヤだという約束なんだそうです。――とにかく、原版一枚あたり百圓拂つていると言うんです。燒増しをするたんびに一枚あたり三十圓、これはルリが要求するそうです。「さすがにアプレゲールじやね。舊華族のお孃さんだと言つたつて、金の事となると、おれたちよりやチャッカリしとるんだぜと言つていました。それでも、良い身體だし、それに、注文通り、どんな恰好でもしてくれる、場合によつてはこちらで思いもかけないようなポーズを自分からしてくれると言うんで、これ以上のモデルは他に居ないんだそうです。どうも樣子が、こんなような、僕に見せてくれたような一人だけの裸體寫眞だけで無く、男と二人の本式の「人間寫眞」――Nはその手の寫眞のことを「人間寫眞」と言つているんですよ――も撮つているんじやないかと思います。もちろん、二人を組ませて寫すんではなく、男と女をそれぞれ別々にいろんなポーズをさせて寫しといてモンタージュするらしいんです。この方はルリには秘密らしいですがね。或いはこの方が本職じやないかなと思われるフシがあります。なにしろ非常に賣れるらしいんですよ。當分良い物が撮れると言うので、奴さんホクホクしていました。それに、自分が寫すだけで無く、終戰後ひどくふえたと言うシロウト寫眞家の「藝術寫眞」ですね、あれのモデルとして盜み寫しをさせて高い料金を取ることもしているらしい。結局はテイの良い「覗き」です。
「ルリの身體のすばらしさは、この寫眞だけでは、わかりません。そりや形の良さはこれでもわかるし、これだけでも大したものでしよう? そうでしよう? ヘヘそうなんですよ。先生だつて人間でしよう? 男でしよう? そんなら正直に感心して下さつてもいいじやありませんか。氣取つたつてはじまらんですよ。ね! 形だけでも、こんだけの物です。ところがホントの良さは、肌を見ないじや、わかりません。皮膚ですよ。色とキメとツヤと、それから何と言つたらいいかなあ、ネットリしたようなサラリとしたような、全體がツヤ消しになつているようでいて、薄く光つているんです。色は案外に眞白ではありません。小麥色――いや、小麥色ほど濃くは無い、つまりクリーム色に非常に薄くしたオークルを混ぜた、Nは「こんな色は上等のパステル繪具で出せるだけだ」と言つていました。ただし、パステルだと、粉つぽくなつてしまつて、あのシットリとして、光という光をすべて吸收して底の方に沈ましたようなツヤは出ないと言うのです。チエッ、どうも、うまく言えない。どだい、こいつを口の先で言おうとするのが、まちがつているんですよ。自分の目で見る以外にありません。Nの奴は、「まだ男を知らない肌だ」と言うんです。「バカ言うなよ」つて私が笑うと、「いや、まちがい無い。今迄こんだけこの道で苦勞して來た俺の眼に狂いは無い。いや、眼は或いは狂うことがあるかも知れんが、俺がカメラのファインダアから覗いた眼に絶對に狂いは無いよ」と言うんです。奴に言わせると、男でも女でも、たとえば昨夜セキジュアルな營みが有つたか無かつたかと言う所まで、ピタリとわかると言うんです。「俺は俺のファインダアから覗いた眼を疑う位なら、その前に太陽が東から昇ることを疑うよ」と言やあがる。處女か非處女かぐらいがわからなくつて、誰が永年苦勞しているんだ。わしは斯道の大家だとね。「實は俺も、こんだけ美事に成熟した女が、しかも今どき、あんなR劇團なんぞに居た女が、男を知らないなんて、實は俺自身が[#「俺自身が」は底本では「俺自信が」]信じきれなかつた。しかし、俺あファインダアから覗いた眼を信じないわけに行かない」奴さんによると、若い女が成熟し切つて、完全に花が開いて、蜜蜂の來るのを待つている時期にです、戀愛を、非常に強烈純粹な戀愛を感じる。しかも、何かの事情か、障碍があつて、その相手の男に相會うことが出來ないと言う期間――それもたいがい極く短かい期間だそうですがね――その期間に、稀れにこんなふうな皮膚になることがあると言うんです。なんだか、ロマンティックな、あやしげな話だと僕は思いますけどね。
「……え? どうしてそれを僕が見たか? Nが見せてくれたんですよ。彼奴がルリの寫眞を撮る時には、ルリだけを寫場に入れて一人で勝手なポーズをとらせながら、自分は寫場のわきの暗室みたいな所に居ましてね、その壁に覗き穴みたいな小窓が切つてある、そこにカメラのレンズを突つ込んで寫すんです。寫場に男が入つて來るのはイヤだつてルリが言うそうでね。その覗き穴のわきの隙間から僕あ見たんですよ。
「そうですよ、僕は共産主義者です。しかし人間だもんなあ。男ですからね。オスです。女を好くなあ、別に惡かあ無いじやありませんか。僕にとつちや、むしろ、それを否定しながら、一方でこの男女間のことを夢みたいに理想化して戀愛なんて言うものをむやみにありがたがつている連中こそヘンだと思いますよ。もちろん戀愛もけつこうです。そんな事もあるね。しかし世の中には戀愛以上のものが、いくらでも有るんだ。たかだか性慾の昇華した心理をそれほど貴重なものだと思う必要は無いですよ。ハハ、いいじやないですか、それで。……見たのは、あの次ぎの日です。
「あの日は、カフエであなたが電話をかけに出て行つた後、あの女は、しきりと貴島の所に連れて行つてくれと言つて聞かないのです。貴島の居る所を自分も知らないと、いくら言つても聞かない。第一、黒田の藥の一件や、それから、もう一つ、僕もよくは知りませんが東京の何とか言うギャング
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