ていた。そして、あと半年か一年すれば、この日本に革命政府が樹立されるという事を彼が完全に信じ切つているという事を私が知つた時には、その信念の純粹さと美しさと、同時に空虚さと子供らしさに、闇の中で私の目から涙が出そうになつた。
久保正三のことは、既に書いた。それ以上のことをいくら書きたしてみても、既に書いた以上のことは彼についてわからないであろう。言葉を代えて言えば、だから、はじめから此の男はそのありのままがわかつているとも言えるわけだ。いくら正體を掴もうと思つて追求して見ても掴まれない、奧底の知れないような人柄だという氣がするのは、こちら側の思いすごしであつて、久保自身は、自分のありのままの姿をいつでもさらけ出しているらしいのである。その點は貴島勉に似ている。がしかし、貴島のように薄氣味の惡いような所が此の男には無い。もつと平凡だ。明るくポカンとした感じである。そして、ほとんど絶對に昂奮しない。佐々との議論で彼の方は割に無口で、佐々が三ことを言うのに彼は一ことぐらいしか口を開かないし、言葉の内容も佐々が攻撃的であればあるほど彼は防禦的であるが、その攻撃的な佐々の言葉でどんなに激しく刺されても叩かれても昂奮しない。だから議論の内容としては彼の方が負け、教えられているのにかかわらず、はたから聞いていると、やつつけられ教えられているのは佐々の方であるかのようである。それと、もう一つ、彼の言葉の中からだんだん私にわかつて來たことは、彼の出征中、それも終戰前後の戰場生活の中で、なにか非常にひどい目に會つて――そして、その時貴島といつしよに居て、貴島と同じような目に會つたらしい。そしてその時に、彼と貴島の仲は切つても切れないような深い所でつながれたらしい。それは、どんな目だつたのか、その時には彼は具體的には言わなかつたが、その言い方から察すると、ほとんど人間の頭ではそのような事が起り得るとは考えられない位に手ひどい經驗だつたらしい――その時を境い目にして、彼と言う人間は變つてしまつたと言うのである。その事を彼は「人間はケダモンだ。畜生と、ちつとも變つとらん。もう俺あ人を信用するのは、やめちやつた。人の言う事なんぞ信用せんよ。俺のせいじや無えや」と言つた。そして、ありのままの事實だけ――それも自分の眼で見、耳で聞いた事實だけしか信用しないと言うのである。自分が現に目で見、耳で聞いた事だけで世の中についての「ミトメ」――(これは久保の言葉。結論だとか答えだとか認識とか社會觀とか言つたような意味の全部をふくめて言うのらしい)――が自然に出來あがつて行くのを待つ。だから世の中に流行しているいろいろの思想や宗教などの、どんなものも、それだけでは信用しない。その中のどれかが、もし正しいものならば、それが正しいという事が、そのうちに必らず、自分が目で見たり聞いたりすることの出來るような實際の事實として現われて來ると言うのである。それまでは右翼も左翼も信用しない。彼の言葉で言うと「神も佛も信用せんよ。戀も愛も金も信用できねえ。資本家も共産主義も信用しない。一切合切、俺にとつちや、無えのと同じ」である。「信用できると手前が知つてから信用しても、おそくは無え」と言うのである。その素朴な――と言うよりも未開人のような頑迷さが、あわれな位である。あの手帳も、これに關係が有るようだつた。「あんなつまらん手帳を何百册書いたつて、なにがわかるもんか!」と佐々が言つても「わからなくつてもいいよ」と答えた。その調子が、はたで聞いている私にさえ、やりきれない位に低級で常識的にひびいた。「そいつは豚の實證主義だ。そうじやないか、豚は食物をやらないで置くと、世界中に食物がまるで無くなつたと思つてギイギイ騷ぐ。鼻先に一つかみの食物をほうつてやると、世界中に食物が滿ちあふれていると思つて有頂天になるんだ」と佐々にののしられても、彼はケロリとしている。自分の工場に於ける爭議にも參加していて、經營管理への動きの中でも組合員としてサボつたりはしない。しかしカッカとなつて積極的になることも無い。冷然として皆の動くように動いているが、ヒヨイと自分が家にでも歸りたくなると誰にも言わないでノコノコ歸つてしまう。それで、もうそれきり爭議團の方へ行かないかと思うと、又平然として戻つて行つている。そんな調子らしい。今もその事を佐々が言い立てて、イライラといきり立つて詰め寄つて行くのだつた。すると、しばらく眞面目に議論の相手になつているが、論爭のピッチがあがつて來て、決定的な所へ來たトタンに、變なトボケた聲を出すので何だと思うと、なんとかなんとかで「カヌシャマヨウ!」と、オキナワかどこかでおばえて來た歌を低く鼻歌でやつていたりする。すると佐々が怒り出してベラベラと罵倒する…………果てしが無かつた。
貴島勉が、この二人との生活の中で、どのような位置を占めているのか、ハッキリとは、わからなかつた。しかし二人の話の中にチラチラ出て來る貴島についての言葉を綜合すると、貴島という人間が、一個の人格としてはほとんど捕捉することの出來ない位にシリメツレツに混亂し切つており、兇暴で異樣なものになつていながら、一面何か頑是の無い子供のようにひ弱で單純な所も有る人間であることがわかつて來た。佐々も久保も、その貴島の兇暴さのようなものを憎みながら、その子供らしい所を憐れみハラハラして見ているようである。一言に言つて、佐々と久保が、その全く違つた性格と生き方の、それぞれのやり方でもつて非常に強く貴島にむすばれているらしい事が、だんだん私にわかつて來たのである。
それは實に妙な一夜であつた。
暗い穴の底に横たわりながら、二時間も三時間もぶつつづけて、今の時代と社會について、ほとんど齒をむき出さんばかりの毒々しい言葉でもつて論爭している二人の青年。それを眠つたふりをして聞いている自分。あああ、これが一體夢でもなんでも無い、現代の正《しよう》の事であろうか?………ヒョット、これが戰線に於ける塹壕の中で、ドロドロになつた兵士同志が話し合つている光景だと思つて見た。そう言えば、佐々と久保、それから貴島も實際の上で戰友だつたと言う。何かハッとした。「そうだ!」と思つた。何がそうなのか、私にもわからなかつた。胸の底がシーンとなつて、何かが、そこから吹き上げて來るのを感じた。
氣が附いて見ると、入口の階段の所が薄明るくなつて來ていた。やがて夜が明けるのだろう。二人の議論はまだ續いていた。
14[#「14」は縦中横]
その次ぎの日に、私は綿貫ルリに逢つた。
それもアッケない事に、防空壕での一夜の歸り途に、しかも彼女自身の方からノコノコと私の前に姿を現わしたのである――
次ぎの朝――と言つても、はげしい議論の後で、久保も佐々も、それに私も、さすがに疲れてわずかの間トロトロとしただけだと思つたのが、實は數時間眠つたらしく、今度三人が前後して目をさました時は、すでに陽が高く昇つていた。ムックリ起きだした佐々が、いきなり壕舍の天窓と入口の戸を開け放ち、私と久保を外に追い出して、掃除をはじめる。それをすましてしまうと、自分も外に出て來て、サルマタひとつの素裸かになつて、號令をかけながら體操をする。その間に、久保は炊事の水を汲みに附近の井戸へでも行くのか、バケツをさげてノソノソと姿を消す。すべてが、軍隊の野營地に於ける生活の延長のような感じである。薄曇りの五月の晝前の、あたり一面荒れ果てた燒跡の中で、それが又ピッタリと至極あたりまえの感じだつた。佐々の體操も明らかに軍隊でおぼえて來たもので、毎朝これをやるらしい。カラリと痩せた裸體だが、四肢の筋肉がよく發達していて、兩腕をふりまわしたり脚をひろげたり飛びあがつたりするたびに、すこし青白い皮膚の下で筋肉が面白いようにグリグリ動く。それをしばらく眺めていてから、私は歸る氣になつてそう言うと、いつしよに朝飯を食つて行けと言う。べつに心にも無いお世辭を言つている風は無い。
「だけど、ごつつおはありませんよ。おい久保お!」と體操の手はやめないままで、バケツをさげて戻つて來た久保に呼びかけ「おかずは無えんだろ? ひとつ走りなんか買つて來いよ。ゼニは俺のポケットにある。その間にメシはたいとく」「そうかあ」「早くしろよ」「おう!」それで久保が使いに行き、佐々が體操をやめて七輪に火を燃しつける。そうしながらも、私に話しかける。佐々の私に對する態度は、すこし馴々しすぎる位に親しみと敬意のこもつたものである。それでいて、昨夜私が眠つていると思つて「くだらねえ文士だ」と吐き捨てるように言つた調子も續いていて、その二つが面從腹背と言つたふうの矛盾した態度にはならない。どこかしらで私のことを「罪の無いオッサン」と言つたふうに輕蔑している事は事實だし、それを隱そうともしないが、敬意もなくさない。そこの處が私にはおもしろかつた。とにかく腹は立たないのである。久保の手帳のことを聞くと、その手帳を出して見せてくれる。貴島のことをたずねても、こだわり無く答える。しかし細かい事は何も知らない。貴島の性格や心理などについても知つていないし、知ろうともしていない。そんな事は全く問題にならないらしい。お互いに、あたりまえの、唯の友だちだと思つているようだ。……そうだ、そうかも知れないと私は思つた。それが普通かも知れないのだ。人間は昔から今に至るまで、大して變つてはいないし、又、今居るたくさんの人間の一人々々にしたつて他の人間とそれほど變つていないのかも知れない。一人々々の人間を特に他の人間とは違つた、わかりにくいもののように眺めるのは私のような作家の惡習慣のようなものかもわからないのだ。――そんな氣がしながら佐々のおしやべりを聞いていたが、一方でこの三人の青年が互いに「偶然に吹き寄せられたから當分いつしよに居るだけだ」と言つたふうに、こうしてサバサバといつしよに暮していながら、自分たちでも氣が附かない所でむすばれている姿が、なにか私にうらやましいような氣がした。私にも私の周圍にも、青春のそのような空氣が、かつて有つた。今はもう無い。あれは一體、いつ頃、どこへ行つてしまつたろう?……
飯がたけ、久保が歸つて來て、かんたんな食事がはじまつた。久保は、ほとんど口をきかないで食う。佐々と私の二人分よりもよけいに食つたろう。私は二人に向つて、貴島に會つたら、とにかく一度私の所に來るように言つてくれるように頼んだ。「ええ。一兩日中に僕が會いますから、そう言つときます。でも、ここ四五日は奴さん、出歩けないかもしれませんよ」と佐々が言つた。「どうして? その藥の件で?」「それもあるでしようが、ほかにも何かあるようでしたね」
食事がすみ、私が辭し去ろうとすると、佐々も出かけるので途中までいつしよに行くと言う。久保は今日一日寢るらしく、すぐにもう横になつていて、佐々が身仕度しながら、工場のことや爭議のことを言つて、「ひと寢入りしたら、直ぐに行かなきやダメだよ!」とブツクサ言つても、「うん、うん」と答えるだけで、もう半分眠りかけて、くつつきそうなマブタをしていた。
私と佐々は驛まで歩き、電車に乘つた。
その電車が發車して間も無く、うしろから私の背をこずく者があるので、なんの氣も無しにその方を見て、おおと言つてしまつた。綿貫ルリだつた。紺ガスリの筒袖にモンペを着て、ニコニコして立つている。まるで何のことも無かつたような顏色だつた。
「どちらへ、先生?」
「どちらへつて、君……君は、どうしたの?」
「まるきり、氣がつかないのね。ズーッと私、うしろから附けて來たのに、フフ!」
「つけて來た? 僕をかね?」
「うん。驛の前から」
「……そいで、君は、ズッと、どこに居たんだ?」
「驛の前よ、だから」
「そうじや無いんだ。全體こないだから――」
「驛のすぐ前に小さい喫茶店があるでしよ。あすこで見ていたのよ。そしたら先生いらしたから、追いかけて來たんだわ」
「すると、なにかね、君あ喫茶店に勤めるようになつたのか?」
「うう
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