の見聞した物や人の記述だけである。記述と言つても文章にはなつていない。味もソッケも無い單語と數字が羅列してあるだけで、稀れに簡單な見取圖のようなものが描いてある。そのすべてに、何の解説も附けて無いので、第三者が讀んでも、何の事やらわからない個所の方が多い。もつとも、書いてあることが全部わかつたとしても、格別變つた事は書いてないらしい。平凡な一勞働者の日常の見聞についてのラクガキ程度のものであるようだ。むしろ退屈な手帳である。變つているのは、丹念さだけである。なんのために、こんなものを飽きずに書くのか、佐々にもわからないと言う。「子供がビイ玉やボタンなどをむやみと集める――あれと同じじやないですか」と言つた。その一番新らしく書かれた個所に、
「三好十郎。近眼鏡。五尺三寸。肩はば廣すぎる。ヒタイ廣すぎる。採點八十五。キジマの事を、しつこく聞く。神經衰弱。ホクロに毛が生えてる」とあるのには笑つてしまつた。……それは後の話。
さしあたり私は非常に疲れていた。以前から私の身體には、ずいぶん變つた事が失つぎ早やに起ることは珍らしく無い。しかもそれらが、普通の文士や劇作家などの身邊に起る事がらとしては、すこし――毛色が變つていることが多い。だから今度の事を左までに異樣なことには感じていない。しかしそれでいながら、二三日前のルリの失踪(?)に續いて今日半日の私の見聞の中に、何か妙に私のどこかをおびやかすようなものがある。しかも私の眼に見、耳に聞き得るのは、事件や人物の極く僅かの露頭だけであつて、事件や人物の全貌は、氷山に於けるがように、水面下にかくされている。いやもちろん世の中の事一切が或る程度まで、そうであるには違い無い。しかし今の場合は、これがすこし甚だし過ぎる。私が疲れたのも、そのためらしい。しかもそれらの全貌をいくらか明らかにし得たとしても、そこから別に何の得る所も無いだろう。ルリの事にしたつて、彼女も既に子供では無し、私との間に特殊の關係が在るわけでも無いのだ。私などが何をガチャガチャと騷ぐことがあろう。……そう思いながら、しかし完全にはそう思いきれないモヤモヤした氣持で、あおむけに寢て、毛布をアゴの所まで引き上げて、ボンヤリとしたロウソクの光に照らされた壕の天井のコンクリートの面の雨じみを見ていた。その間に、私はグッスリと眠りこんでしまつたらしい。
何か激しい人聲で眼をさました。私は一瞬、自分がどこに居るのか、わからなかつた。暗い中で息がつまりかけているような氣がした。鋭い恐怖が來て、次ぎにホントに眼がさめて、ああそうだつたと思つた。同時に、
「そうだよ、貴島は幽靈だよ! しかし君は幽靈よりや惡い。豚だ!」
と言う聲が、天井のへんから聞えた。私には、はじめての聲だつた。暗いからよく見えないが、寢床の上段に寢た男が、寢たままで言つているようだ。後でわかつたが、それが佐々兼武だつた。私が眠つている間に歸つて來たらしい。氣配で貴島は、歸つて來ていない事がすぐわかつた。語氣から推すと、もうかなり前から言い合つているようだつた。私の眠りをさまさせないためらしい、押し殺した低い聲である。しかし、四邊が靜かなのと、壕の中であるため、ガンガンとひびく。
「豚だろうと、ケエロだろうと、いいさ。俺あ、てめえがわからねえから、わからねえと言つてるまでだ」
ユックリした聲で、やつぱり暗くて見えない下の段から久保が言つた。
「ケエロ? ケエロたあ、なんだ」
「ケエロさあ」
「蛙か。…………フフ」
それまで怒つていた佐々の聲が、短かく笑つた。しかし久保はそれに乘つて行こうとはしない。
「そうだなあ、こうやつて、土ん中の穴あ掘つて、そん中に又こうして棚をこさえてガッカリして寢ているところは、ケエロだな。フフ、しよう無えな」そこまで笑いをふくんだ聲で言つて、しばらく言葉を切つていたが、今度は更にムラムラと腹が立つて來たと見え、とがつた聲で「……そんな事じや無いんだ俺の言つているのは! なぜ君あ貴島んとこから十條へ引き返さねえんだ? 全體、今どんなにキワどい所に差しかかつているか、わからん筈は無いだろう?」
「だつて、腹あ、へつて、しようが無えから――」
「腹あ、へるよ! なんだよ、それが?」
「だつてさ、あすこにや食う物あ、もう、なんにも無えんだぜ?」
「あたりまえじやないか。遊山に行つてるんじやないんだぜ! 工場管理がうまく行くかどうか、つまり終戰後はじめての、この、新らしいやり方の鬪爭をはじめているんだよ。イクサだよ! だのに當の君たちがノコノコ歸つちまつたりしてたら、せつかく會社の連中をしめ出しているのが、又、取りもどされてしまうじやないか」
「君あ、腹がへつて無えから、そんな事が言えるんだよ」
「バカな事を言うな! そんな君、そんな――」
「バカな事じや無えよ。腹がへつちや、イクサはできねえもん」
久保は皮肉やシャレを言う氣など全く無しに言つている。佐々はサジを投げるように舌打ちをして
「そいで、なんで三好なんて人を連れて來たりしたんだ?」
「貴島がいつしよに連れて歸つてくれと言つたから――」
「なんか用があるのかい?」
「知らん、俺あ」
それから、二人はしばらく默つていたが、佐々の聲が、私が眠つているかどうかを試すように低い聲で此方へ向つて、
「三好さん…………」と呼びかけた。私はだまつていた。トッサに返事が出なかつたせいもあるが、眠つたふりをしていてやろうと言う氣になつていた。佐々はもう一度私の名を呼んだ。今度も私は返事をしなかつた。それで佐々も久保も私がグッスリ眠つているものと思いこんだようである。
「知つているのか君あ、この人を?」久保の聲が言つた。
「名前は知つている。書いたものも讀んだことがある。つまらねえ文士だ」吐き捨てるように佐々が言つた。
私は暗い中で苦笑した。
そのくせ、翌朝になつて三人が起き出して顏を合せると、久保の紹介も待たずに佐々は私に話しかけて來たが、それは並々ならぬ敬意と親しみのこもつた態度であつた。相變らずノッソリしている久保にくらべて、その手の平を返したような調子にキビキビした一種の愛嬌が有つて、私には不快では無かつた。…………
それから二人は、安心しきつた調子で、しばらく貴島のことを話した。話の内容は私によくわからない所が多かつたが、でも前後を綜合して判斷すると、貴島と佐々の今夜の冐險はうまく行かなかつたらしかつた。發動機船でいつたん横濱の港外まで出るには出たが、指定の時間の直前になつて、先方の船が來る予定の方向とは違つた港内の方角から、舷燈を消しエンジンの音を止めた小さな船が、近づいて來るのを發見して、怪しいと見て急いで引返して來てしまつたらしい。貴島は、いつしよに行つていた黒田の配下の者たちと共に、横濱の黒田の本據の方へまわり、佐々は貴島たちに別れて歸つて來たらしい。近づいて來た小船が、もし警備艇であつたとすれば、偶然の事とは言えず、或る程度まで目星をつけられていると思わなければならぬ、そうなれば貴島たちが相當の追求を受ける危險が有る。いずれにしろ、この三四日は貴島は戻つて來ないだろう…………。
「バカだな。そんな事、よせばいいんだ」久保が言つた。それに對して佐々が、
「そうだよ、よせばいい」とアッサリ相槌を打つたのは、意外だつた。
「どうして貴島は黒田なんて男の所で、あんな事してるんだろう? ゼニが欲しいからかね?」
「ゼニもゼニだろうが、それよりも、なんか彼奴はムシャクシャしてたまらんのじやないかね。實際、あいつはオキナワで死んでいりやよかつたんだ。死んでた方がラクだつたよ。彼奴を見ているとそんな氣がする。全くシンから氣の毒になるよ!」佐々の聲が、うめくようにシミジミとしていた。しかし、たちまち又、刺すような語調になつて「いや、ホントは彼奴はオキナワで死んでいるんだ! カラダだけが死にきれないで、いまだにウロウロしている」
「そいじや、アベコベじやないか?」
「そうさ。近頃じや、すべてアベコベだ。カラダが死にきれないんだ。だから幽靈さ」
「フ、貴島が幽靈で、俺が豚か」
「そうだよ、お前は豚だよ。そいつはハッキリしていらあ」
「そいでお前は共産黨か?」
「そうだよ、とにかく、人間だ」
それから、二人の長々とした議論がはじまつた。それは久保がその職場での爭議に對して冷淡すぎる事を佐々が鋭くとがめることから始まつて、話は次第にもつと一般的な事にわたり、二人の青年がこの現代に處して生きて行く行き方の根本的な違いから來る論爭になつて行つた。とは言つても、それは、ひと昔以前のインテリたちの間に流行した一般論や抽象論では無かつた。そんなものとは、まるで違つた質のものであつた。この樣に混亂している現代の中で今すぐに、ジカに自分たちが明日からどうして生きて行くか、あの事やこの事をどんなふうに處理して行けばよいか、どうするのが一番正しいか――と言つたような事である。學問的な言葉は二人とも使わない。使おうと思つてもそんなものは、あまり知らないらしい。正規な高級な社會學的な教養は二人とも持つていないのである。それでいて、二人がそれぞれ自分勝手な不正確な、血の出るような生々しいジカな言葉で言い合つている事が、今の時代の一番重要な問題であつた。それが私にだんだんわかつて來た。私の眼は、いつの間にかハッキリと醒めてしまい、強い興味でもつて二人の議論に聞き入りはじめたのである。
その議論を私はそのままに此處に書き寫すことが出來る。實はそうする氣でいた。しかし、それをしていると三四十枚かかる。長過ぎるであろう。私は前途に書くべき事を多く持ち過ぎている。たとえば、その後の綿貫ルリの事、國友大助のこと、それから、かんじんの貴島勉の事にしても、まだ僅かしか語つていないのだ。今ごろから寄り道をしていたりすると、全體が無際限に長くなつてしまう上に、自分が最初語ろうと思つた事がらを指の間からすべり落してしまうかもわからない。だから、これはさしあたり割愛する。
ただ簡單に二人の立場を説明して置く。佐々兼武は共産主義者だ。その事に自信を持つているようである。彼が共産主義者になつたのは、長いこと人生社會について考えたり、社會科學の勉強をした結果では無いようだ。出征前は大學生だつたらしいから、その頃既に職工であつた久保などに比較すれば學問的な思想にもなじんでいたわけであろうが、それも例の戰前から戰爭中の軍部專制で塗りつぶされていた空氣の中での學生々活である。せいぜい、二三の社會科學に關する本などを讀んだと言うのにとどまつていたらしい。だから彼が左傾したのは、戰爭末期の戰場と復員して來てからの短期間中であつて主として、戰場と復員後の生活の中で身をもつて、その虚僞や矛盾にぶち當ることから來たもののようだ。マルクシズムを體系立てて學んだ事も無いらしい。つまり現在非常にたくさん居る二十代の、言わば「電撃的」に共産主義者になつた新らしいタイプにぞくする一人である。だから、主義を信ずることは非常に強い。ドンドシ實行に移して行く。彈壓の中で鬱屈した經驗が無いから、明るい。しかし又それだけに、ほとんど私などには理解できない位に單純な所があるようだ。抱いている共産主義理論そのものも、あちこちとスキだらけで、自分では共産主義的にものを言つたり行動したりしていると信じてやつている事が、實は全く封建的な專制的な事であることがあつたりする。彼自身はそれに全く氣が附いていない。そこいらが、「特攻隊」に非常に似ている。眞劍で正直で命がけな所も特攻隊にソックリである。だから、往々にして、ハタから見ていると滑稽なことがある。しかし、そういう場合も、當人が正直に全身的にやつている事がわかるし、又、机の上の空論から出發しているのでは無いから、惡い感じはしない。その輕佻さに苦笑することは出來ても、輕蔑することは出來ないのである。特にこの佐々兼武はそれらの中でも優秀な男らしい。私は、うれしいような悲しいような氣持で、彼の素朴きわまる、しかし熱情的な議論を聞い
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