あいつの言うことは、あんまり當てにはなりませんね」
「今夜、佐々君と言うのと横濱へ行く用事と言うのは、よつぽど大事な用かな?」
「なあに、大事と言うわけでも無いだろうけど、横濱の港外の、海の上で向うの船と出會うんですからね、決めた時間にキッチリ行かないといけないんじやないですかね」
「どう言うんだろう、それ――?」
「向うの船が、藥の入つた箱を海ん中へほうり込むんだそうです。それを發動機船で行つて受取る。貴島の親分の黒田の仕事なんでしよう。受渡しの現場を見せに、いつしよに連れて行け連れて行けと、ずいぶん前から佐々が攻めるように貴島に頼んでいましたから。なんだか、G雜誌にそのことをスッパ拔いてやるんだつて佐々が言つてた」
「だけど、貴島君がよくそれを連れて行くねえ? 黒田と言うつまり自分の親分の仕事を雜誌にスッパ拔くための人間をいつしよに連れて行くなんて、妙じやないかな?」
「なに、あいつは黒田なんて男を別に好いちやいませんよ。それに貴島にとつちや黒田の仕事なんて、ホントはどうだつていいんですよ。佐々がスッパ拔こうが拔くまいが、どうだつていいんじやないですかね。どつちせ、そんな事みんな、どうだつていいらしいんだ貴島には。そんな男ですよ」
「……貴島君が女好きだつて、さつき、君言つてたね?」
「そうですよ。女の尻ばつかり追つかけてる」
「……最近、なにか、そう言つた話はしてなかつたかなあ?」
「なんですか?」
「ルリと言う――本名は芙佐子と言うんだけどね?」
「聞きませんねえ。大體、あいつはそんな話はメッタにしません。ただね、いつしよに歩いたり、電車に乘つたりしていて若い女に出會うと、時々その女とすれちがつたトタンに、僕なんぞ、うつちやつといて一人でドンドンその女の後をつけて行つてしまう事があるんです。フフ。どう言うんですかねえ。そつから先きは、僕にやわからん」
 對話がそこまで運んだ時に、私たちは、荻窪の驛から八九丁も歩いたろう、土地がすこしダラダラと窪地になつたふうの燒跡に出ていた。暗くてよくわからないけれど、所々に白く見える石塀の殘りや草の間の敷石などから推して、かなり立派だつた屋敷跡のようだ。
「ここです」と言つて久保が立ちどまつたので、そのへんを見まわしたが、近くに建物らしい物は無い。變に思つて彼の顏をすかして見ると、久保はその一廓の隅の方へ眼をやりながら鼻をクンクン鳴らして、
「ああ、染子が又、來てる」
 と言つて、その方へスタスタ歩き出した。
 窪地に降りて來た時から、私はそれに氣がついていた。今どきこんな燒跡などで誰が焚くのか、明らかに薫香の匂いである。ジャコウの勝つた、かなり上等のものだ。ほのかに、なまめかしく匂つて來る。……妙な氣がしながら、私は久保のあとについて行つた。

        12[#「12」は縦中横]

 貴島と久保は防空壕に住んでいたのである。當時、まだ壕舍に住んでいる人がたくさん居て、さまで珍らしい事では無かつたが、不意にそれを知つたのと、香の匂いで私はすこしびつくりしていた。
 一廓の片隅に、二坪ばかりの廣さに土が二尺ばかり盛りあがつており、そのこちら側の端にポカリと穴が開いていて、五六段の階段がきざんである。そこへ下からボッとローソクの光がさしていた。階段へ足をかけると、なまぬるい香の匂いが、さかさに顏を撫でた。
「染子さん、來てんの?」
 久保が聲をかけると、人の氣配がして、
「ああ、お歸んなさい。おそいのねえ」と、くぐもつた若い女の聲がした。
 久保は無造作に私を招じ入れた。内部は一間に一間半ぐらいの廣さで、高さも頭がつかえる程では無い。四壁はコンクリートでたたんであり、床は板の上にウスベリが敷いてある。燒けた邸宅の穴倉だつたものを戰爭中に防空室に改造したものらしい。一方の壁が二段に押入れみたいに凹んでいて、毛布が敷いてあるのを見ると二人はそこで寢るのだろう。室内は割に清潔にしてある。と言うよりも片隅に机がわりに使われているらしい石油箱と、入口に近く二三の炊事道具が置いてあるきりで、他に何一つ無いので、そう見えるのかも知れない。石油箱の上に灯のともつたローソクが立つていて、そのそばに膝を突きながら、その染子という女が私の方を見上げて、
「あら!」と言つて久保の方へ眼をやつた。「貴島さんは?」
「うん?」
 久保はユックリと上衣をぬぎながら、私の方を見てから「貴島は、ほかへ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた」
「そう?……今夜歸つて來る?」
「さあ、どうだか」
 女は明らかにガッカリしたようだつた。二十五六才になつたろう。キンシャらしい大がらの模樣の和服に、頭髮を思い切つたアップにして、パラリとした目鼻立ちに入念に化粧している。全體の樣子がただのしろうとにしてはハデすぎるし、かと言つて、くろうととも取れない。後になつてわかつたが、果して、以前藝者の下地つ子を一二年やつて、終戰後、ダンスホールに入つてダンサアをしている女だつた。久保は食事をする氣らしく、ポケットから紙包みのパンを取り出したり、隅の箱の中から乾物の魚ののつた皿を出して來てウスベリの上に並べながら、女をジャマにする風も無いかわりに、歡迎する色も無い。
「ホントにどうしたんだろう? これで三度目よ、ここへ來るの。今夜なんか一時間の上も待つていたのに。チッ!」ブツブツと一人ごとのように言つて染子は、乳房の上を兩腕でグッとしめつけて、芝居じみたしぐさで、つらそうな吐息をついて見せた。それが大げさで芝居じみているだけ、しかしかえつて變に實感をはみ出させた。「しどいわあ!」
「貴島に、なんか用かね?」
「用? フフ。そんな――いえ、そうね、用だわよ。もうあんた、このひと月ぐらいホールにも顏を見せないんだもの」
「忙しいんだろ」
「どうだか。……よその又、女の人とでも仲良くしてるんじやない? 久保さん、あんた知らない」
「知らんなあ俺あ」
 久保はモグモグと口を動かしてパンを食つている。その無心な樣子を見てクスリと笑つた染子は、それまで指先でいじつていた線香の燃え殘りを鼻先に持つて行きながら、私の方へ流し眼をくれた。
「んだけど、染子さんは、ここへ來るたんびに、どうしてそんなもの燃すんだい?」
「だつて、良い匂いじやなくつて?」
「そりやそうだけど、でも、今どき、そんなもん高えんだろ?」
「フフ。貴島さんね、いろんな匂いが、とても氣になるのよ」
「そうかなあ」
「氣が附かないのあんた、いつしよに住んでいて?」
「……すると、貴島のために燃すんだね? そうかあ」
「そいじや、あたし、歸ろうつと!」言いながら手を使わないでスラリと立ちあがつた。狹い場所なので、立ちあがつた女の着物のスソがめくれてフクラハギのへんまでが、鼻の先に見えてしまう。變だと思つたら、この女は下着を一切つけないで、キンシャの着物を素肌にじかに着ているようだ。
「せつかく來たんだから、もうすこし待つて見りやいいのに」
「だつて、どうせ今夜も歸つて來ないんでしよ。いいわ、又來る。こいからホールへ行つて見る」
「お茶でも入れようと思つてたのに」
「久保さんが? ハハハ、そりやこつちで願いさげだ。何を飮まされるか知れたもんじや無い」
「フフ、そんな君、いつでもきたなくしとくとはきまつて無いさ」
「いいわよ。そいぢや、貴島さんにそう言つといてね。このままにしてうつちやりつぱなしじや、あんまりひどい。宙ぶらりんで私どうしていいかわかんないから、とにかく一度逢つてちようだいつて。よくそう言つといてね。こいでもあんた、ただのチンピラの娘つ子とは違うんですからね。ホホ!」と不意に花が開くように笑つて、私の方へ色つぽい目禮をしてから、踊りの手のような身のこなしで階段に足をかけてヒラリと消えたかと思うと、
「あのね!」と今度は、暗い中から顏だけを、さかさまにのぞけ、白いアゴで室の隅にぶらさがつているカーキ色のズボンを指して「久保さん、それあんたんでしよ? ホコロビ縫つといたげたわよ」
 言うなり、顏はスッと消えて、たちまち燒跡を踏むゾウリの音と、それに合わせて低い鼻歌のブルースが遠ざかつて行つた。
「ありがとう」それを追つて言つた言葉がわれながら間が拔けておかしくなつたのか、久保はまだパンを頬張つている顏でニヤニヤ笑つた。
「いいのかね、女一人で今じぶん?」
「いいですよ。それ位のことでビクビクするような女じや無い」
「貴島君と、どんな關係の人?」
「さあ。別に大して立ち入つたなん[#「なん」に傍点]じや無いんでしよう。ほかにもまだ居るようですよ、あんなふうに貴島を追いかけてる女が」

        13[#「13」は縦中横]

 それから久保正三は火をおこして、茶を入れてくれた。
 室の入口のところにコンロが置いてあつて、細かく割つたタキ木や、水の入つたヤカンなども、そろえてある。男だけの暮しとしては意外な位にすべてがキチンと整備されていることが、だんだんわかつて來た。それが、全部この久保の仕事らしい。手順よく、ユックリ手足を動かして茶を入れおわつた時には、それに使つた道具がチャンと元の通りに片づいているという風である。
 特に私を歡待するためにしているのでは無い。食事をしながらも、私に食えとも言わなかつたし、そんな事は思いつきもしないらしい。茶も自分が飮みたいから入れたが、そばに人が居たから一杯ついであげると言つた調子だ。無禮なことや、傲慢そうな表情など一つもしないが、何か氣が遠くなるほど無關心である。默つて相對していると次第に、こちらが無限の距離に押し離され輕蔑され切つているような氣がして來るのである。以前私が勞働組合運動に出入りしていた頃に附き合つた自由勞働者などの中に、ややこれに似た男が時々居たが、それともすこし違うようである。後でわかつた事だが、これは貴島に對しても佐々に對しても、その他のどんな人間に對しても同じだつた。茶を呑み、タバコをふかしながら、ズングリムックリとアグラを組んで坐つて、すましている。
 私は貴島や佐々や、貴島の生活や仕事や、久保自身のことを、ボツボツたずね、それにはチャンと返事をするが、深い事はなんにもわからない。岩を撫でているようなものである。何かをすこし突込んで聞くと「さあ、俺あ知りませんねえ」と言う。「いやさ、君の考えでは、そこんとこは、どんなふうになつていると思うだろうか?」といつた風に追いかけると、「わからんなあ」「いや、君が想像して見てさ」「想像なんか、できんなあ」
 私もアグネてしまつた。夜も更けて來たし、貴島の歸つて來るらしい氣配は無い。今夜は此處に泊る以外に無いらしい。
「貴島君が、人を搜したりする事の上手な人といつしよに暮していると言つていたが、君のことかな?」と私がたずねると、
「さあ。そいつは、佐々のことを言つたんじやないかなあ」と言つてやがてビックリする位の大あくびをした。
 取りつく島は無い。あきらめて私は室の隅に横になつた。それを見ると久保は、ノソリと立ちあがつて、自分の寢床に敷いてある毛布の一枚を取つて私に貸してくれた。そして彼自身も、その二段に押入れのようになつた下の段にもぐりこみ、腹ばいになつて、ポケットから出した手帳に又なにか書きこみはじめた。同じような黒つぽい、よごれた手帳が、ロウソクの立ててある石油箱の中に二三十册ギッシリとそろえて入れてあるのに私は、ズット前から目をつけていた。
「君はそうやつて、何を書いているの?」と試みにたずねて見たが、「やあ」と薄笑いを浮べただけで相手にならなかつた。
 それがやつぱり一種の日記のようなものであることを私が知つたのは、その次ぎの日の朝になつてからだ。水汲みと朝食のオカズを買いに彼が出て行つたあと、「久保君は手帳に何を書いているんですか?」と私が質問したのに、佐々兼武がニヤニヤ笑いながら默つて久保の上衣のポケットからその手帳を拔いて見せてくれたのである。普通の日記とはすこし違つている。自身のその日の生活やそれに伴う感想などはほとんど書いて無い。自分
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