つて來た事も事實なんです。僕には、そのポカンとして無邪氣なタミ子の姿が、あわれでやりきれない。いや、あわれだなどと言うのでは無く、何と言えばよいか、とにかく人ごとでは無いような、こちらの胸がしめつけられるような、それでいて、なつかしいような――そしてヒョッと氣が附くと、なにかトテツも無く美しい姿に見えたりするんです。僕は我れながら、全體この女をどうする氣なのか、自分で自分の量見がわからなくなつて來ました。この女と一緒に、心中みたいに死んでしまおうかと思つたり、かと思うと、この女の何か腐つたような體臭が鼻先にプンと來ると、ムカムカと吐きたくなる。
 古賀幸尾さんの所へ寄ると、
「あのままで置いとけば、半年もすれば完全にダメになるね。何か處置をするにしても、なんしろ、病氣が深いようだから、どの程度まで治るかだ。まあ、むずかしいわね。それに、治療するにや、相當金がかかるだろう。かわいそうだが、しようが無いね。結核と性病――こりや、社會病で社會に責任がある。社會をもうチットどうにか作り變えないじや、個人の力ではどうにもならんね」
 と噛んで捨てるように言います。そのくせ、古賀さんは、一週に一囘ぐらい、タミ子のアパートへ行つて、無料で注射をしてくれているんでした。
 立川景子さんの所へも報告かたがた行きました。景子さんは非常に喜こんでくれ、その場から僕と一緒にタミ子のアパートに來たんですが、タミ子の樣子を見ると、言うに言えない暗い顏をして默つてしまいました。
「春子の家」には、その後も一二度寄つて、春子さんに向つてタミ子の事を話し、どうしたらよいか相談して見たのですが、春子さんは涙ぐんだ眼をするだけで、ハッキリどうしろとは言つてくれません。なんとも言えないらしいのです。
 山梨の久子さんの事も考えましたけれど、あそこにはルリが居ます。行く氣にはなれないのでした。
 又、僕はあなたの事も考えたのですけれど、しかし、又々こんな話を持ちこんで御迷惑をかけるのは、あまりにすまない氣がして、どうしても足が向きませんでした。それに、こんな話を持ちこんで、しかもそれについての自分の腹が決らないでいるのをあなたに見せると、今度こそ、あなたからホントに嫌われ、輕蔑されると思つたのです。
 僕は迷いました。それに金も全く無くなりかけています。ええい、しかたが無い、又、横濱の黒田の所へでもたよつて行つてゴロツキに舞いもどつて金を掴み、とにかく、このタミ子を食わせ養つて行くだけでもしようかとも思いました。
 その時久保正三の事を思い出したのです。久保とはその後會つていないのですが、前に偶然に一本杉に會つた時に、久保が荻窪の防空壕を引きはらつて、赤羽にあるイモノ工場の工員寮に住んでいる事を聞かされていたのです。(佐々兼武は、トックの昔、久保とは別れて、やつぱり共産黨關係で働いているらしい事も一本杉は話しました)思い切つて僕は久保に會つて見る氣になり、訪ねて行くと直ぐに會えました。例の通りボコンとしたような久保で、久しぶりで會つたのに、昨日別れたばかりのような顏でニコニコ笑つています。僕はタミ子の事を話し、「どうしたらいいか、わからない。養つてやつて、出來たら病氣も治してやりたいけど、よけいな事のようにも思うし――」と、僕の現在の状態や氣持のあらましを説明した。すると久保は、それについて質問もなにもしないで、
「そらあ、治してやつたが、いいなあ」と言います。
「しかし金がかかる。僕にや金は無い。第一、僕自身今後どうして食つて行くか、まだ見當も附かないんだから――」
「働らきや、いい」
「働くと言つたつて、口が無い」
「なに、その氣になりや、いくらでも有るぜ。どんな仕事でもよければだよ」
 そして、自分のイモノ工場なら、庶務の方に頼んでやろうと言うのです。ただし、仕事の選り好みはできない。「と言つても、君にやイモノの仕事は、出來んだろうから、事務の方か設計だとか、どうせ、月給は安いぞ」と言つてニヤニヤしているのです。三千そこそこで食つて行くのがヤッとらしい。バカバカしいような氣がしました。僕の腹は決らず、又來ると言つて久保の室を出ました。

 それから四五日間、僕は迷いました。迷うと言つても、ほかにどうしようも無し、時計を賣つたりして、その間も、毎日のようにその頃泊つていた上野のテント旅館を出ては、タミ子の所に通つていたのです。僕が行かないとタミ子はなんにも食わないでいるのです。それに、そんなふうになつた彼女に、すこしばかり金をやつて好き勝手にオモチャにする男たちも居るらしいのです。イヤでも僕は毎日行かないわけに行きません。
 僕が行くとタミ子は喜びます。そして時によると、なさけ無い事に、僕に向つてその衰弱して痩せたカラダを開いて見せたり、ワイセツな恰好をすることがあるのです。商賣で癖になつた媚態らしいですが、しかし、そういう商賣をして來た女の、變な慾望――カラダだけの感ずる慾望もあるのではないかと思います。僕はそれを見て二度ばかり泣き出してしまいました。ホントにナサケ無かつたのです。
 Mさんの手紙の事をたずねても、なんにも憶えていないようです。いつ誰からもらつたのと聞いても思い出せないらしい。書いてある意味もわからない。ただその紙だけを非常に大切にしているのです。戰爭中、特に終戰近くの事など完全に忘れていて、どこで何をしていたと聞いても、その時々で言うことが違います。
 その日は、僕が買つて行つたイモやコッペパンなどを、うまそうに食べてしまうと、タミ子が外に出ようと言うので、しかたなく僕も一緒に出かけました。たいがい、そういう時には公園の中をアチコチうろついたり、時によつて驛の構内へ行つて立つていたりするんですが、ウッカリすると例の横穴の方へ行くんです。アサマしい氣がして、一人で出すわけには行きません。僕はナサケ無い氣持で、スタスタ歩いて行く女の四五歩あとから、公園の坂道を登つて行きました。良い天氣で、カッと日の光です。動物園にでも行くのか、子供づれの夫婦者の姿などもチラホラ見かけました。
 不意に僕は泣きたくなりました。そして、口の中で「お父さん、僕はどうしたらいいんです?」と繰返し繰返し言つていました。そういう癖が最近に僕に出來たのです。ナサケ無く、やりきれなくなると、ひとりでにそれが出て來るのです。その時もそれを言いながら、僕はチョッと下を向いて歩いていたらしい。タミ子がフッと立ち停つたので、なんの氣も無く、前の方へ眼をやると、タミ子から三四歩、僕から六七歩の坂の上に、こちらを向いてルリが立つていたのです。例の山梨での身なりと同じで、顏色は、附近の樹の葉の色の反射のせいだけで無く、まつさおで、眼は射るようです。大型の袋のようになつたハンドバッグを握りしめた右手がブルブルとふるえているのが眼につきました。

        44[#「44」は縦中横]

 僕はドキッとしましたが、しかし不思議な事に、ルリの出現そのものは、それほど意外な感じはしませんでした。動てんしてしまつたために、そんな事を考えている餘裕も無かつたとも言えるかもしれません。ルリが、僕の後を追つて東京へ出て來て、(僕が女を搜している事は、久子さんがスッカリ話してしまつたそうです)、あちこちした末に、久保正三の所へ行つて、僕の現在のありかと、タミ子との事を聞いて、その足で此處にやつて來たと言う事は、後になつてルリ自身から聞いたことです。その時はただ、ドキッとし、まるで、射すくめられたように動けなくなつただけです。ルリは、ほとんど毒々しい位の憎惡のこもつた眼で、僕とタミ子を見つめているだけで、なんにも言いません。その眼の中には、今までの彼女には無かつたすくなくとも、それほど明瞭に現われた事の無かつた嫉妬……なんと言いますか、初めて一人前の女としての嫉妬の色がギラギラと光つています。それが、僕とタミ子の前に立ちはだかるようにしているのです。互いの位置も惡かつたのです。そこは狹い坂道で、ルリは、上の方からのしかかるように突つ立つて、睨みおろしているんです。互いに身のかわしようが無いのです。
 タミ子は、これをどんなふうに受取つているか、僕にはわかりません。ただ、ボンヤリと立つて、ルリの方を見上げています。そのうしろ姿と、それに半分ダブッてこちらを向いたルリの姿が、僕の眼には、一つの畫面になつて、燒きついて來ました。地球の運行が不意に停止してしまつたような感じ。……時間と言うものが無くなつてしまつた。一種の絶滅感。……どう言えばいいか、そうです、映つていたトーキーの映畫が、何かの故障のためにピタッと停つてしまつて、その畫面だけを殘して動かなくなり、音も停止してしまつた――ちようど、そう言つた感じでした。どれ位の時間が經つたのか、おぼえがありません。僕は、なんにも考えないでボンヤリと女二人を見ていただけです。もしかすると、時間なんか一分間も經たなかつたのかも知れません。
 そのうちに、ルリが二歩ばかり此方へおりて來ました。タミ子の方へ輕蔑をこめた流し目をくれながら、僕へ近づいて來るのです。その眼つきと、身のこなしが、ギリリと音を立てるように、僕に迫つて來て、何かもう、絶對絶命の所に追いつめられた氣が僕はしたのです。叫び出しそうになりました。トコトンまで、いじめ拔かれて、いじめ殺されかけているような感じ。カエルが蛇にねらわれて、呑みこまれる瞬間に、あんなふうになるのではあるまいか?……とにかく、あの時、一時僕は氣が變になつていたと思います。ワッと叫び出しそうになり――いや、その聲が事實すこしは外に出たかも知れません――同時に、實に妙な事が起きました。いや、僕の中でです。ブリッ! と何かが破けたのです。たしかに音を聞いた氣がします。同時に、カーッと血が頭に驅けのぼつて來て、一度に猛烈に腹が立つて來たのです。ルリに對してです。いや、それはルリに對してではありません。もつと別の――そう、なんだかハッキリわからないものへ對してです。しかし、やつぱりルリに對してだと言えない事は無い。なぜなら、そうして近づいて來たルリに、いきなり、おどりかかつて、なぐりつけはじめていたのです。狂つたようになつていた。いや、ホントに狂つていたにちがい無い。猛烈な勢いでルリの顏と言わず肩先と言わず、なぐりつけた。ルリのツルリとキメの細かい青味がかつた頬が、僕の平手打ちの下でビシッ、ビシッと濡れたような音を立てたのを、僕はおぼえています。あとはどれだけ、なぐつたのか。「ちきしよう! ちきしよう!」と口の中で唸るようにして、しまいには、ルリの襟髮を左手で掴んで、右手でなぐりつけていました。ルリは、はじめチョット抵抗しましたが、直ぐにグタッとなつてしまい、なぐられるままにしています。そのまつ青な、死んだような、眼がつりあがつてしまつたような表情を、僕はおぼえています。僕はあの表情を忘れない。………氣が附くと、立つているのに耐えきれなくなつたか、ルリは坂道の端にしやがんでしまつている。それを、僕はまだ叩きつけていました。タミ子は、びつくりしてしまつて、口をポカンと開けて立つたまま見ていました。
 そして、そうして、ルリをなぐりつけている最中に、僕は、自分がルリを愛していることを知つたのです。愛していると言うよりも、惚れていると言うのがピッタリする。自分が惚れているのは、ホントはルリである。それはズット前からそうだつたのだ。それが、今まで自分にもわからなかつた。
 俺が愛しているのはルリであつて、タミ子なんかでは無いのだ。バカ! バカ! バカ!
 ……僕は手が痛くなり、なぐるのをやめました。ルリは、氣が拔けてしまつたようにグタリとしやがんで、僕の足元を見ています。タミ子は、ちぎれ飛んだルリの服のボタンを地面から拾つているのです。僕はなんにも考えられませんでした。ただ、そのタミ子と、ルリの顏に眼をさらしているきり。ルリの顏は、僕からなぐられた頬あたりは見る見るうちにクッキリと手の平の形に紅く血がさし、僕の手の當らなかつたアゴや額など
前へ 次へ
全39ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング