、深い鋭どい眼でジッと僕の眼の奧を覗きこむようにした。……僕は不意に身の引きしまるような氣持におそわれ、そして、どう言うわけか古賀さんを急に好きになり、尊敬しはじめていた。古賀さんは僕の眼の中に何を認めたのか、急にホッとしたような、前と同じ明るい調子にもどつて、
「オー・ケイ! と、まあ、おどかしといてさ。ハハハ、とにかく、そのタミさんが、いつだつたか、お腹が大きくなつちまつてね、そいつを私が處置してあげた事があるんだ。フッフフ、なあに、あんな商賣していたつて、お腹が大きくなる事だつてあるのよ」
 輕く言うのです。僕にはズキリとこたえました。いつぺんに、何もかもわかつた氣がする。
 古賀さんは、逆に今度は僕の方を見ないようにしてズンズン坂道を登つて行きながら、
「それに、タミさん、今、病氣でね」
 と、はねとばすように言う。僕はビシビシと、何か、ムチでなぐられるような氣がして、自分が今どこを歩いているのか、なんにも目にはいらない。そのうちに「ここだわよ!」と古賀さんに言われて見ると、そこは小さな崖の下の凹地にゴタゴタと立ち並んだバラックの、簡易旅館ともアパートとも附かない、ガタガタの平屋の建物の横で。外からイキナリ、はき物のままで入つて行ける廊下を入つて、四五間歩いた左側の、それでもドア式になつた戸を開けると、三疊――いや二疊位の部屋――あれが部屋と言えるか。なにか動物の巣。動物と言つても大きな、物恐ろしいやつでは無く、たより無く小さい。そうだ、蜜蜂か何かの巣穴。そんな感じです。二尺四方位の窓が一つ、疊のかわりにウスベリが敷いてあつて、片隅に粗末な小机が一つ。あと何も無い。こんな室が、この建物の中に二十ぐらい有るらしい。後でわかつたのですが、ルリの住んでいるアパートと言うのが、やつぱり此の式のもので、しかも、此の家から、いくらも離れていないうぐいす谷に有つたのには驚ろきました。
「タミさん、居る?」と言つて古賀さんが戸を開けた時には、病氣だと聞かされていたのだし、いきなりその人が、そこに寢ているのを鼻の先きに見さされるのかと想像して、僕はオビエたような氣持になつたが、想像ははずれて、部屋は空つぽで誰も居ない。「なんだ、又行つてる」と言つて古賀さんはズカズカあがつて、小机の引き出しから、手アカでよごれた一枚の原稿紙(半ペラ)を取り出して、サッと目を通して、默つて僕に渡してくれる。見ると、いきなり

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キジマツトムハ、キミヲシリマセン、
エイエンニ、キミヲキミダト、シラナイ
ソシテ、カレハ、ジンセイヲシリ
カミトナツテ、ショウテンスル、
キミニ、シュクフクアレ、
ココロカラ、アリガトウ
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[#ここで字下げ終わり]
「そのGと言うのが、Mさんと言う人じやない?」古賀さんがポツンと言います。
 言われるまでも無く、それはMさんの字でした。Gと言うはMさんの名を音で讀んだ頭文字です。カタカナの文句の書き方にも特色があります。Mさんには時々、親しい人々に、こんなふうな文句を書いて、速達でくれたり、又は電報でくれたりする癖が有りました。僕のうちで何かが音を立ててパラリとめくれて、そして、氣が遠くなるような氣がしたのです。あの晩の一切のことが――その時のこまかい部分部分が全部、あの女の肌の手ざわりまでが僕の上によみがえつて來たのです。すると、僕は不意に、その部屋の空氣の中に、あの時のあの女の肌の匂いをハッキリとかぎつけたような氣がしました。
「タミさんは、その紙を、とても大事にしているのよ。何も言わないので、細かい事は私にもわからない。ただ妙な事が書いてあると思つてね、いいえ、ズッと先に私は見さされたの。そん時は何の事やらわからなかつたけど、あんたの話を立川さんに聞いてから――いえ、その後でも、まさか、これとそれとを結びつけて考えはしなかつたけど、こないだ、又此處へ見舞いに來て、それを見てね、キジマとあつたので、ハッとしたのよ。……タミさんは戰爭中、銀座へんでバアかなんかの女給さんしていたそうだね、Mさんとも何か懇意だつたんじやない? そいでまあ、どういう氣持からか、わからんけれど、Mさんに頼まれて、あんたとそういう事があつた。そいで、その後で、Mさんが、そんな物を書いてよこした。……ウッフフ、私の想像さ。大したもんだろう? まるで小説家か探偵みたいだけどさ、しかしそう思えば、思えない事は無いんじやない?」
 僕は古賀さんの言うことなどロクに耳に入れていませんでした。
「――だけど、病氣だと言うじやありませんか?」
「うん、病氣だ」
「……だのに、どこへ行つたんです?」
「すぐそこよ。……言つて見る?」
 二人は外へ出る。古賀さんは先きに立つて公園の方へスタスタ歩いて行くので、僕は公園を突つ切つて、どこかの病院にでも連れて行かれるのだろうと思つた。
「ちかごろ、變な映畫を」と古賀さんは歩きながら言う「會員制かなんかで見せるのが方々に有るそうね?……あんた、見たことある?」
「ええ、一二度」
 古賀さんはニヤリとして僕を振り返つて、
「あれだとかね……そいから、トロイカ。……ハルピンから來たんだつて言うわね、見せ物。フフ! そいつた映畫に寫されちやつたり、そのトロイカ式に使われちやつたり、いろんな目に會つたらしいんだ。ハッキリした事はわからんけどさ。もともと以前から、どうも話の樣子が、戀愛問題でひどい目に會つた結果、ヤケクソになつてしまつたとかで、まるでもう無軌道な事をやりちらして來たらしい。あんたとの事にしたつてそうだろう? いくらなんでも、バアの女給さんと言つたつて、普通の人が、そんな事をオイソレとしやしない。メチャメチャだつたね。それが終戰後、尚ひどくなつて、今度は商賣。そして今言つたような、……いえ、頭がハッキリしていれば、まさかそんな事にもなるまいけど、ボーッとなつちやつてるもんだから、惡い奴等の好き自由になつたんだな。それとも、そんな事するようになつたから、ボンヤリしちやつたか……とにかく――も有るには有るから、いずれは、なんだけどね」
 と、その最後の文句の中で、ペラペラとドイツ語で醫學の言葉をはさんで言う。性病の名らしい。
「すると――?」と言う僕に、うなづいて見せてから、古賀さんは、左手の人差指で、自分のコメカミの所でグルリと丸を描いて「……まだホンモノにはなつていない。でも、話は出來ないから、默つていてね。……失語症とでも言うかな」
 一歩々々、僕は地獄におりて行く氣持。頭から血が引いて、足がガタガタして、どこを歩いているかわからず。
「それとも、會うの、よして、このまま歸る?」僕の顏が死人のようになつているのだろう、古賀さんは氣の毒そうに言う。「だから、あたしが最初言つたろ?……歸る、このまま?」
「……いえ、會います」
 齒を食いしばつているのが自分でもわかる。それをジッと見定めてから、古賀さんは、今度は口をつぐんで、サッサと歩き出した。それきり、その横穴に着くまで一言も言わず。
 前にも書いた、僕はどこかの病院に連れて行かれると思つていたので、古賀さんが、間も無く、公園の――あれはどのへんと言えばよいか、とにかく驛からあまり遠く無い、あちこち樹立ちのある所をグルリ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ると、土地がいつたんグッとさがつて、その片側が、急な傾斜の、まあ小さな崖になつている――その崖に、正面からは下生えやカン木が邪魔してよく見えないが、そばへ行くと、小さい入口が二つ並んでいる。その一つに、古賀さんが身をこごめて入りこんだのには、ビックリした。しかた無く自分も入つて行くと、戰爭中の仕事だろう、内部は割に廣い横穴。と言つても、もともと大急ぎで一時しのぎに掘られたもので、その後くづれ、こわれて、高さ五尺たらず、横はばは四尺ぐらい、奧行も二間そこそこ。暗い。と言つても、奧が淺いので眼が馴れると、奧まで一眼で見えるし、地面にはワラやボロボロになつたムシロなど、ちらかつて、紙クズやあきカンなど捨ててあり、陰慘な感じはあまり無く、どこかのゴミ捨ての穴と言つたところ。
 そこに、和服を着た小柄な女がションボリ、向う向きに立つていたのが、僕等二人が入つて來たのに氣づき、フラリと此方へ振り向く。
 その顏を見ると、僕はウッと息をのんだ。いや、その女の顏が異樣であつたとか言うためでは無い。永く風呂に入らぬらしく、よごれて生ま白い皮膚の、むしろ平凡すぎるような中高かの顏。髮も普通の洋髮にまとめている。もちろん、僕には見おぼえは無かつた。……それでいて「ああ、この人だ」と思つたのだ。どう言うわけだろう? 古賀さんの話や、Mさんの書き物から受けた暗示が僕に作用したのか? それとも、匂い?……いやいや、匂いと言えば、その穴の中のゴミ捨て場のような臭いだけで、それ以外には無い。わきに立つている古賀さんからは、中年女のヒナタくさいみたいな匂いと、徴かなクレゾールの匂いがするだけ。だから匂いのためなんかでは無い。だのに、なぜその瞬間に、あんな強い確信みたいなものが僕の中に生れたのか? わからぬ。そして今となつては、その確信もあやしくなつて來ている。
「またこんな所に來てんのね?……どう言うの? さ、歸ろう歸ろう」
 言われて、その女は逆光のために眼をすこししわめて此方を見ていたが、直ぐに古賀さんを認め
「ああ、古賀先生……」と言つて、すこし恥かしそうにニッと笑つて、頭をさげた。その動作がグナリとして、身體全體がひどく軟かい――と言うより、骨が無いような感じ。あるいは、衰弱しているセイかとも思う。それ以外に別に異状は無い。ただ、それ以上口をきく氣は無いようで、ションボリ立つているだけ。その拍子拔けしたような所が變と言えば變と言える。
「さあ、歸ろうよ」と古賀さんは女に向つてチョッと片手を差し出すようにし、「いえね、どう言うわけだか、時々此處に來るのよ」と、僕を見おろして笑う。
 僕は女を見た瞬間に、兩足から力が拔けて、立つておれなくなり、そこにシャガンでしまつていたのです。
「フフ、もしかすると、こんなふうな所で男を相手に商賣してたかも知れんね、おおきに。ひところ、こんな場所がずいぶん有つたからなあ。……それを、なんとなくヒョッと思い出すんだろうか? 頭がクシャクシャすると一人手に此處へ來る」
 平然としてそう言つている古賀さんの言葉が、なにか遠くの方に聞える。
 僕は、そうしてシャガンで、その立つている女を見上げたまま、實に長いこと口もきけず、何も考えられず、立ちあがれないでいたのです。……

        43[#「43」は縦中横]

 ………………
 それから僕は、ほとんど毎日のようにタミ子のアパートへ行つて見ました。タミ子は、きげんよく僕を迎えてくれますが、ほとんど話はしません。人が目の前にいる間だけは、カンタンな言葉で受け答えはしますが、僕が居なくなれば僕の事などは直ぐに忘れてしまうようで、小机の前にポカンとして何時間でも坐つているらしいのです。そして、時々フラッと外に出て、例の横穴の所へ行つて立つているんです。白痴の子供みたいに無心な樣子でした。別に暗い、陰慘な感じはありません。むしろ、明るすぎる。生活のことなど何も考えていないのです。僕が持つて行つてやる食べ物などをうまそうに靜かに食べて、落ちついているのです。Mさんの事を聞いても、戰爭中のことを聞いても、その時々で言うことが違つていて、トリトメがありません。
 出征前夜のあの女が此のタミ子であつたかどうか、それをホントに確かめる手段は遂にありませんでした。あの晩のことを、いろんな言い方でタミ子に問いかけて見るのですが、ケロリとして手ごたえ無し。いろんな點から推して、どうもこれは唯の普通の淫賣らしいと言う氣がする。だのに、横穴の中で最初に見た瞬間に、どうして「これだ」と思つたのか――今となつては、あやしいものだつたような氣がします。それに、三度四度五度とタミ子の所に通つて來ているうちに、そんな事はどうでもよくな
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