は雪のように白い。それがクッキリと對照をなして、目もさめるようにアザヤカに見える、痛そうな顏はしていない。なにかボーッとして、氣拔がして、そして上氣したような虚ろな表情。……人が變つてしまつたように、おだやかな、とても、とても、やさしい眼つきになつている。……何が起きたのか? わからない。わからないクセに、僕はそれをすこしも不思議に思つていない。ぼくはボンヤリとルリを見おろしていた。何か、出しぬけにルリは女になつている。僕の女に。……なんだつたのだろう、あれは? わからない。なにか、男と女の營み――つまり性交みたいな事が、ルリと僕との間に起きた。妙な話だが、たしかに、それ以外のものでは無い。やさしい、ウットリしたようなルリの顏も、そういう顏だつたように思う。
 言つてしまいます。その時僕は、エキスタシイに入つていたのです。……どういうのでしよう? これは、僕がゲスなためでしようか。又は、變態なんでしようか? ほかの人にはこんな事は無いのでしようか?
 そうかもわからないと思います。僕は、たしかにゲスで變態なのかもわかりません。そうだとすると、恥かしいのですけど、でも、あの時は、まるで恥かしい氣持などおきませんでした。滿足――異性に接しての、生れてはじめて滿足を味わつたような、はじめて、一人前の男になつたような――シッカリと腹ごたえの有るような、それでいて、何かトテツも無く自由に解放されたような感じがしたのです。僕はゲスだと輕蔑されても變態だと笑われても、かまいません。
 ルリも、もしかすると、あの時、僕と同じような感覺を味わつたのかも知れないと思います。
 僕はタミ子に眼をやり、フッと出征前夜の闇の中での感覺が、よみがえつて來ました。あれは、この女だつたのか? この女では無かつたのか? わからない。どうでもよい、そんな事は。いいよ、いいよ。……そんな氣がした。
 その時、強い匂いが來ました。ムッとする木の葉や草いきれに混つて、しびれるように、僕は不意に、あの晩の女の肌の匂いをクッキリと思い出したような氣がしました。頭がボンヤリして來たのです。……しかし、實は、その匂いは、ルリの身體の匂いだつたのです。そこにウットリとしやがみこんでいるルリの身體からたちのぼつて來る匂いでした。

        45[#「45」は縦中横]

 ……………
 それから、僕ら三人は、この千葉縣の海岸に來たのです。
 あれから二三日して、タミ子が、どういうわけからか、「海へ行く、海へ行く」と言つてきかないのです。理由も原因も全くわかりません。たずねても答えないのです。
「どこの海へ行くの?」と聞くと、
「九十九里」と言います。以前に來た事があるか何かで、その時の記憶で言つているのらしい。しかたが無いので、三人で出かけました。必要な金はルリが出してくれました。
 しかし、こうして此處に來てみると、來てよかつたと言う氣がしました。土地はただ何のヘンテツも無い、一直線の濱邊に、土用波が、むやみと大きな音を立てて打ち寄せ打ち寄せしているだけ。小さなさびれ果てた村の汚い宿屋に泊つて今日で二日ですが、あたりのすべての思い切つた單調さと、一分間も休みなくゴーゴーと濱邊をゆすつて鳴りわたる波の姿などが、變なふうに、僕ら三人にピッタリするんです。この波の力強い音と動搖から、のがれる事は絶對にできない。一瞬だつて、そこから逃げ出すことはできない。しかも、何か細かい事を小さい聲で言つたりしても、波の音にかき消されてしまつて、聞こえはしない。人が叫んでも波の音は、それごと呑みこんでしまう。人間の心理の細かいヒダなど、まるで無用なもののように叩きつぶされてしまう。……最初は息がつまりそうになりました。逃げ出しようが無いのです。しかし、いつたん逃げられないと思つてしまうと、これでいいんだと言う氣になつて、妙に落ち着けるのです。細々したことを考えたり、感じたり、言つたりする必要が無くなり、どうでもいいやと言う氣になるのです。
 おもしろい事に、此處に來たらタミ子が、上野にいる頃よりも非常に落ち着き、頭も良くなつたようで、夜もよく眠るし、ほとんど普通の人と變らなくなつた事です。タミ子とルリは、たいへん氣が合うようで、まるで姉妹のようにむつみ合つています。年はタミ子の方がズット上なのですが、姉さんらしいのはルリの方で、すべてタミ子のめんどうを見るし、又、タミ子の方ではルリの言う事だと何でも機嫌よく聞きます。見ていると、それは、ほとんどイジらしい位です。

 今後どうするか、まだ僕の氣持はハッキリきまつていません。しかし、東京へ戻つたら、一度ルリと二人で山梨の久子さんの所へ行き、それから高圓寺のルリの家へ行つて親や兄弟たちに話した上で、ルリと僕は結婚して家を持とうと思つています。タミ子は、治るか治らないかわかりませんが、古賀さんに頼んで、どこかの病院にでも入れて、手當てをしてやりたいと思うのです。とにかく、僕の手でめんどうを見る氣です。ルリもその氣でいます。
 生活の方はどうするか? それが一番重大な問題です。タミ子のめんどうを見て行くとなれば、相當金もかかるでしよう。久保の工場に入つて働いてもよいとも思いますが、それではいくらの金も取れないので迷います。或る程度のまとまつた金を掴むまで、横濱の黒田の所へ行くか、又はそう言つたような筋でもたよつて、すこし手荒い仕事をしてもよいとも思いますが、しかし、どういうのか、いくらそう思つても、そんな事をもう一度やつて見る氣にはなれないのです。惡いと思つたりするからではありません。善い惡いはまるで考えません。ただ、そんな事をして金を掴んで見ても、つまらない氣がするのです。それだけです。ですから、結局は久保の工場に入れてもらう事になるかも知れません。ルリも、結婚してからも、何か働らくんだと言つています。
 ルリは美しく、そして完全に一人前の女になりました。第一、とてもやさしい女になりました。僕はルリを見ていて、僕の知らない母親のことを思い出したりします。
 いや、こんな事を書くと笑われるでしようが、しかし事實そうなんですから、ほかに書きようが無いのです。
 ルリとタミ子は今、隣りの室で抱き合うようにして眠つています。波の音は、地の底からのように、ゴゴーッ、ゴゴーッと突きあげ、ゆすぶつて、僕ら三人を包んでいるのです。僕はホントにルリを愛します。

 實に變な氣がします。
 僕はウロウロ、ウロウロと二年近くを、なにをしていたのでしよう? それから、あの女を搜しはじめ、あちこちして、そしてタミ子を見つけました。タミ子があの女であるか無いか、わからず、そして今となつては、わからなくともよくなつている。僕がホントに見つけ出したのは、ルリでした。そして、氣が附いて見たら、あのゴロツキだつた自分が、いつの間にか一人の平凡な男に變つて來ており、ルリと結婚して、タミ子を養い、そして何かして働こうという氣になつているんです。どう言うのでしよう? あるいは、僕という人間が、ヤット立ち直つたのだと言えるかも知れませんが、しかし僕には改まつて、そんなような氣はチットもしません。ただズルズルとこんなふうになつて來てしまつたのです。
 ただ、死んだ父のことは考えます。
 なつかしいのです。そして、スナオに、父の前に出ても、なんだか以前ほど、うしろめたい氣はしないように感じます。父は、僕を、どこからか眺めて、靜かに笑つてくれているような感じがするのです。
 僕はアヤフヤな人間ですから、今後も動搖したりヘンテコになつてしまつたり、いろいろになるだろうと思います。それは、しかたが無いと思うんです。しかし、たとえどんなふうになつても、今後は、自分のカンジンの心持だけは、ゴロツキだつた時分のようにはならないだろうと言う氣がします。
 結婚をすませ、タミ子の入院などの事を一應かたづけましたら、久しぶりにルリと一緒にお訪ねしたいと思つています。



底本:「肌の匂い」早川書房
   1950(昭和25)年11月10日初版発行
   1951(昭和26)年11月10日4版発行
初出:「婦人公論」
   1949(昭和24)年8月〜1950(昭和25)年7月号
入力:伊藤時也
校正:伊藤時也・及川 雅
2009年5月23日作成
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