ケイだと思います。しかし僕は不滿は感じていません。

        40[#「40」は縦中横]

 貴島勉の手紙(――この前のものから、この手紙に至る間の五通省略)
          ○
 ――
 三好さん
 またまた、永くごぶさたしました。
 いろんな事がありまして、あちこち走りまわつていましたので、やつと、すこし落ちつきました。いや、もしかすると、これでホントに落ちつくことになるかも知れません。いやいや、僕みたいな[#「僕みたいな」は底本では「僕みたい」]者は、又、いつ、どんなキッカケでウロウロと迷い出すかわからない。そうは思つています。その時はその時で、しかたが無い。そうは思つています。しかし、それにしても、現在は、なんだか、ブカブカと流れただようていた舟の上から、ドブンと水の中にイカリを投げおろした――そんな氣持なんです。知らぬ間に舟は一箇所に浮ぶようになるかもしれない……
 舟と言えば、僕は今これを、妙な所で書いています。千葉縣の海ぞいの宿屋です。猛烈な波の音で家がブルブルふるえます。べつに暴風では無いのです。ここの海岸に打ち寄せる波は、今頃(土用波と言うそうですが)の季節では、いつもこうだそうです。普通の概念での「波の音」なんて言うものではありません。ガーッと地の底からゆりうごかして來るのです。耳で聞くことの出來るようなものでは無い。聞こうとしようものなら、トタンに頭が變になつてしまいます。ただ、その音と震動の中に身をまかせているより仕方の無いものです。
 その中で、人は眠るのです。土地の人はもちろんですが、よそから來た人でも、しばらくすると、その中でグッスリと眠るのです。現に、僕等三人も、ここへ來てから二日にしかならないのに、實によく眠れます。

 三好さん
 僕は、あの女を搜し出したのです。
 あの女――すくなくとも、僕には、あの女としか思えない女を、やつと見つけ出しました。そうです。考えて見ると、これが果してあの女であるかどうか、あやしくなります。證據はなんにもありません。あの女も、なんにも言わないのです。では、僕に、これがあの女であることが、なんでわかつたのだろう? 身體の匂い?
 そうです、そうだとも言えます。しかし、待てよ、ホントに匂いで、それがわかつたのか?
 いや、そうでは無い。だつて、あの女を上野で見つけて、最初にあの女のそばに近寄つた時に、俺の鼻を襲つた匂いは、しめつてスッパイような、鯨のゾウモツが腐つて醗酵したような惡臭だつた。それが、あの女が身じろぎするたびに、身體の隅の方からあおられて來てムーッと俺を包んで、俺は吐きそうになつた。生きながら腐つて行きつつある人間のカラダから立ち昇るガスのような臭い。その中には、思い出のなつかしさや、まして情慾そそるようなものは、まるで無い。……いやいや、しかし、もしかすると、人間の情慾だとか、思い出なんかも、實は匂いにすれば、そんなものなのか? すると、やつぱり、この惡臭が、あの晩の女の匂いだつたのか?……いやいや、ちがう! 俺の鋭どい嗅覺が、いくらなんでも、そんなに大きなまちがいを犯すことは無い。あの肌の匂いは、良かつた。美しかつた。この女の體臭は、ムカムカする。腐りかけている。……そうなんです。
 それでいて、「この女だ」と僕は思つたのです。確信に近いものが僕に生れたのです。それが、どういう事なのだか、僕には全くわかりませんでした。そして、今となつては、そんな事など、どうでもよいと思つています。……
 そうです、僕は、あの女をヤッと見つけました。そしたら、それと同時に、僕はルリをそこに見つけ出したのです。ルリがそこに居たのです。綿貫ルリです。その女と同時に、見つけたのです。びつくりしました。うまく言えません。しかし、そうなんです。
 いえいえ、僕は、神秘主義者になつたのでは無いのです。これは事實ありのままの話です。僕は哲學をしようとは思つていません。現に、今僕がこれを書いている隣りの室では、あの女とルリの二人がほとんど抱き合うようにして眠つているんです。
 あの女の方は、あれから毎日、無理やりにつかまえてフロに入れて洗つてやつているので、最初のような、ひどい惡臭は立てません。しかし、やつぱり、どうにかすると、腐つた臭いがします。ルリは、良い匂いを出します。シットリとしたスモモの花のような匂いです。その二人が、抱き合つて寢ているのです。實に妙な氣がします。
 ――こんな事いくら書いていても、しかたが無いので、僕があの女を見つけ出すまでの事を、かいつまんで書きます。

 あれからズッと僕は山梨の久子さんの家に厄介になつていました。いろんな百姓仕事にも馴れて來ていました。久子さんの、變に動物的な荒々しい性質は好きにはなれませんでしたけれど、前ほど氣にならなくなりました。それは此の女のイヤな所だけど、しかしそういう手きびしい所が有るからこそ、亭主の歸國を待つて、村人たちの迫害に耐えながら女手一つで一家を守つて行くことが出來るのではないか。つまり、それが彼女をシャンと支えている柱になつているのではないか。それが僕にわかつて來たのです。それに、この人は正直です。人間、だれしもホントに自分自身に正直である場合は、多かれ少かれ、他人が見たら粗野にならないではいられないのではないか。それでいいのではないだろうか。久子さんを見ていると、そんな氣がしました。「人間は、半分は動物だ」と言う感じが久子さんを見ている時ほどピッタリすることはありません。僕は、ほかに、こんな感じのする女を、あまり知りません。いや、同じ感じがルリに有ります。これにはビックリしました。後になつて、ルリが現われて、久子さんと並んで僕の前に立つた時に、ルリもそう言う感じを持つており、ですから久子さんとルリがその點でひどく似通つている事を知つた時に、僕は非常におどろきました。――とにかく、それは時によつて英語でディスガスティングと言う言葉が有るようですが、あれです、つまりゲスで、やりきれない感じなのです。それでいて、氣が附いて見ると、客觀的に言つて、ほかのどんなお上品な女よりも久子さんのしている事は倫理的にも上等なのです。ホンの一例ですけれど、男に對する貞潔さ。僕は終戰後の世間で、夫や許婚が歸つて來ないうちに、他に男をこしらえたりして、そのために後になつてゴタゴタが起きている例をたくさん知つていますが、そんなのを見るたびに「夫や許婚が歸るまで、とにかく待てばいいじやないか。それからの事にすればいいじやないか。男はみんなひどい目に逢つて歸つて來るんだ。それさえも待てないか!」と思い、それを通して、そう言つた日本の若い女たちに對してヘドの出るようなケイベツを感じ通して來ているのですが、その點で、久子さんを見ていると、なにか男としてホッと安心できるような氣がします。人の事ですけど、たのもしいような、お禮が言いたいような氣持がするんです。そのほか、生きることの一切を通じて、責任感が強く、獨立していて、堂々と確信をもつて正しい事をやつているのです。
 僕は久子さんからガミガミ叱られながら百姓仕事をしたり、カツギ屋をしたりする生活が、氣もちよくなつて來ました。そうしていれば、僕の働らきが、久子さん一家のためにも、かなりの役に立つことが僕にわかります。久子さんも時々「貴島さんが來てくれてから、とんだ助からあ」と言つて笑うことがあるのです。僕は愉快でした。とにかく、主人がまだ歸らない留守家族の一つを、こんな俺の力でも、すこしは支えるタシになつているのだ、と思つたのです。それに、久子さんは僕にとつては、まるで女のような氣がしないので、夫の留守の家に、その若い妻といつしよに暮している、と言つたような氣持の負擔がほとんど僕に無いことも、ありがたいのでした。その點ではおもしろい事に、他から見てもそう見えるのか、最初のうち、多少は妙な眼で見ていた村の人たちも、いつの間にか、僕のことを久子さんの實の弟か又は親類の青年でも手傳いに來て働らいていると見るようになつたらしいのです。お婆さんも、それから敏雄という幼兒も僕になじんで、僕を好いてくれました。
 農事の暇を見ては、豆やイモや米や麥などをかついで上京します。途中でその筋の手につかまつた事や、列車から飛びおりて逃げたりした事が數囘あります。しかし、それも久子さんの言う通り「法律をぐぐつてしているのだから、しかたが無い」とあきらめてスナオにしているので、大した苦にはなりません。當局でもあの頃は、或る程度まで「やむを得ない事」と見ていたようで、一見して惡質の者以外は、それほどキビシい取扱いはしなかつたようです。僕の運ぶ物は、それほど量が多く無いし、ほとんどS裏の「春子の家」で買つてもらいました。はじめの頃、夕飯を食いかたがた、そこに寄り、春子さんにいろいろ聞かれるままに、これこれだと話すと、それなら、どうせ内でも買わなければならんから、よかつたら、ほかへ行かないで此處へ來てくれと言うので、それ以來、ほかよりも、いくらかずつ安く買つてもらうことにしたのです。どうせ、今どきの小料理のことで材料は闇で買い入れなければ立ち行かない状態なので、春子さんの方でも、よろこんでくれました。僕が行くと、まるでお客のように酒をつけて御馳走をしてくれ、おそくなると奧の小部屋に泊らせてくれます。上京のたびに、僕はあちこちと歩きます。そして疲れ切つて山梨へ戻つて行くのです。あの女の事を除いては、僕の生活は、ほとんど何の不滿も無く、復員以來、はじめて落着いたらしく見えました。氣が附いて見ると、ゴロツキの兄きかぶでいた僕が、みすぼらしい姿で百姓兼カツギ屋になつているのです。笑いたくなりました。しかしミジメな氣持はまるでしません。ただあの女の事だけは、まだサッパリしません。上京のたびに方々搜しまわり、リストの中の東京と東京近くの人たちは一つ殘らず當つて見ましたが、それらしい人にもぶつかりませんでした。立川景子さんの所へはその間にも二三度行つて見ましたが、手がかり無し。仙臺と、靜岡と、それから福岡へも一度行つて見ましたが、皆ちがいます。やつぱり、はじめから無理な搜し物だつたのだ。もう諦らめよう。……そう思うようになり、でも既に以前のようにイライラはしなくなつた。それでいいんだと思い、忘れかけていたのです。
 そこへ、ヒョッコリ、綿貫ルリが現われました。久子さんの山畑には、麥が生えている頃から、そのウネの間にイモが植えつけてあつて、麥のトリイレをすませると、畑はたちまちイモ畑に早變りするのですが、傾斜の強い山畑なので乾燥がひどいため、時々下からオケで汲みあげて水をやらなくてはなりません。ちようどそれを僕はやつていました。肩にかついだオケから、水をムダにしないように、一株一株の根元へ順々に注ぎながら無心に歩いていると、下の方から登つて來た路の、畑の角の所に人聲がするので、ヒョイと見ると、胸から上だけの女が二人立つて僕の方を見ている。何か言つているのは久子さんで、並んで立つているのが、――はじめチョット誰だかわからなかつたが、ルリでした。白いカンタンなワンピースを着て、こちらを睨みつけるように見ています。後で聞くと、いきなり訪ねて來たのを、僕が今畑に出ていると言うので、ちようど家にいた久子さんが案内して來たのだそうですが、なにしろ、あまり出しぬけなので、僕はアッケにとられました。僕はポカンと口を開けていたかも知れません。……久子さんがゲラゲラ笑い出しました。すると釣られてルリも笑い出しました。この方は、青い顏色のままの、引きつるような笑い方でした。
 フト氣がつくと、僕のかついだオケから水が、ダアダア流れつぱなしになつていました。

        41[#「41」は縦中横]

 ルリは以前よりも又美しくなつていました。
 會わないでいた半年ばかりの間に、全體に痩せてしまい、顏など、ほとんどヤツレたと言える位になつているのですが、それでいて、女として完全になつた――變な言い方ですけれど、そんなふうに美しくなつ
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