め近縣で飜譯などをして暮しているが、それでは到底生活が立たぬため、こうして働きはじめたが、働らいて見ると、この方が結局氣樂なため、近ごろでは自分一人東京に出つきりになり、此の家に住み込んでやつていて、夫や子供の所へは月に一二囘もどるだけと言う。
「時々これでも又芝居がやりたくなる事があるの。妙じやありませんか、夜寢ていてね、舞臺に出る前になつてセリフを胴忘れちまつた夢などを見て、うなされて、汗びつしよりになつたりする事が、いまだにあるんだから。ホホ、芝居と言うものは、まるで麻藥みたいなもんね。いつたん、取つつかれると、まるで骨がらみになつてしまうの。だけど、もうダメね私なんか。世間がこんなふうになつて來ると、もう良い芝居なんか第一經濟的に成り立たないと言うしね、こうなれば、なんでもいいから食いつないで、食い拔けて行くだけで精一杯だわね。それに、何てつたつて、人間が生きて、――チャンと生きて行つた上での藝術じや無くつて? 自分が食えなくたつて、妻子が飢えたつて演劇のためなら、なんて熱は無くなつちやつた。また、そんな熱は、今こんな有樣の最中では、まちがつていると思うのよ」
 そんな事を言う。すこしも暗い所は無い。サバサバとして、健康だ。立川景子との違い。……どちらが良いとも自分には言えない。ただ、この方が、見ていて氣樂である。それにガラガラと吐き捨てるように語りながら、春子がその病弱の夫と子供を心から愛していることが、こちらにわかる。それが單純で力強い感じだ。こんな女も居る。立川景子みたいな女も居る。徳富稻子みたいな女も居る。志村小夜子みたいなのも居る。山内久子も居る。……人間も實にいろいろだと思つた。このリストの中だけでも、一人として他と同じような人は居ないのだ。――
 そのうちに、客が立てこんで來て、春子もチョイチョイ席を立つて忙しそうだし、自分の方からは別に話は無いので、いいのよ、いいのよとシキリと春子が言うのを押して、飮んだビールの金を拂い又來ますからと言つて、店を出る。

        39[#「39」は縦中横]

 探索は、ついに望みは無い。
 リストにのつている女たちの大部分は既に訪ね歩いてしまつた。殘つているのは、居所も、いや、生死の程も知れない三四人の名前にすぎない。その三四人を無理に搜して會つて見ても、その中にも、あの女は居ないような氣がする。いや、大體、このリストの女たちの中に、あの夜の女が居るかも知れないなどと思つた自分が、最初からどうにかしていたのだ。夢だ。それに、大體、あの晩のこと自體が夢ではないのか。あんな事はホントは無かつたのかも知れない。それは全部自分の幻想だつたかも知れない。復員直後、自分の頭の調子がおかしく、黒田組の中で酒びたしになつたり、阿片をやつた事もある――そういう状態でいた自分の頭の中にフッと浮びあがつた幻想を、いつの間にかホントにあつた事のように思いこんでいたのではあるまいか。……とにかく、こんな當ての無い搜しものなど、いいかげんに、やめた方がよい――
 その晩、行きあたりバッタリに泊つた旅館の寢床の上にあおむけに寢て、僕はツクヅクそう思つたのです。搜し歩くことに疲れたとも言えます。たしかに、よいかげん疲れました。夢みたいな事だとは最初からわかつていたが、とにかく初めのころは、その夢に一所懸命になれましたが、今はそれほど夢中になれなくなつています。その上に、實は、身をかくす時に黒田策太郎から渡された金も、ほとんど使い果してしまつて、もう僅かしか殘つていないのです。なんとかしなければ、探索して歩くことは愚か、間も無く食つて行くことさえ出來なくなることが目に見えています。
 イッソの事、強盜にでもなつて、早いとこ、パッパッと我が身の勝負をつけてしまうか。何が善い事で、何が惡いか、どうせ今の世の中で、そんな事がわかるもんか。よしんばそれが惡い事であつたにしろ、自分のカラダを張つて、つかまれば自分も縛られるか殺されるのを承知でやるんだから、それでいいじやないか。――そう言う氣がまだ僕に殘つているんです。
 しかし、そんな事をしても、つまらん。やつて見たところで同じ事の繰返しで、つまらない。メンドくさい。よせよせ、つまらん。……すると、俺はこれから、どうしたらいいんだ? 何をすればよいのだろう?
 しかたが無いから、又、黒田組へ舞いもどるか? そうしようと思えば、出來るのです。
 あなたへの手紙には書きませんでしたが、しばらく前に僕は、女を搜して、東京近在をあちこちしている最中に、偶然に品川驛のプラットフォームで、黒田組の杉田――あなたも御存じの一本杉です――にバッタリ逢つたのです。その時は僕は急いでいましたし、今さらあんな世界の話を聞いても、しかたが無いとも思つたし、一本杉の方でも、シンからなつかしそうにして、その後の話をユックリしたいらしかつたのですが、とにかく身をかくしている事になつている私をつかまえて人目の多い場所で、あまり長話しをしてはならない事は、さすがにその世界の常識で承知していますので、ホンの四五分間の立ち話で別れたんですが、その短かい話から推測すると、あの後、私が消えたので黒田組と國友たちの連中との間の紛爭は割に平穩になつていたが、それとは別に當局の暴力團體取りしまりが嚴しくなつて、現に黒田策太郎は檢擧されて今裁判中、國友大助は危險を感じたか、あの世界から全く姿をくらまして行方わからず。黒田組は、組の名を解消して、子分の連中は目下おとなしく土建屋になつたり荷役の仕事をしているが、しかし裏では相變らず昔と同じ。「あたしも、まあ、その方で働らいています。兄きも、もうホトボリはさめちまつたんだから、又戻つて來ちや、どうですかねえ。親父さんにや、あたしから言つときます」と杉田は言いました。僕は、ただウンウンと話を聞くだけで別れたのです。……そんなわけで、組へ戻ろうと思えば、なんの苦もなく戻れる。戻ろうか?……考えたんですが、どうしてもそんな氣にはなれないのです。
 そうすると、僕はどうすればいいのだ?
 フッと、一本杉が、その時の別れぎわに言つた「いつか、兄きを追つかけていた、ルリさんとか言つた綺麗な女ね、あれが、その後、二度も三度も、兄きのことをたずねに組の方へ來ましたぜ。一度は、例のホラ、丸まつちい身體の久保さんねえ、あの人と一緒だつたつけ」と言つたのです。その時は唯聞き流していたんですが、今こうして、前途の目標を失つてしまつて、ボンヤリ寢ころがりながら、それを思い出すと、不意にクラクラッとする位に、逢いたくなつたのです。久保とルリ。あの丸い、土佐犬のように默々とした久保。それから白く匂うルリ。なつかしい。逢いたい。……僕は無意識に寢どこの上に起き直りました。
 ……しかし逢つてどうしようと言うのだろう? 久保は僕とは違う。僕は久保と同じようには歩いて行けない。そしてルリは――ルリの事は、まだ何かしら僕には怖いのです。それに、今度ルリに逢うと、トタンに、ルリと僕との間に、何か非常によくない事が起きそうに思われるんです。いけない! 逢つてはいけない!
 そうして僕は再び寢ころがつたのです。その瞬間に山梨の山内久子のことをフッと思い浮べました。そして急に、もう一度そこへ行つて見たくなつたのです。ワケはありません。なんとなく、久子の所へ行けば、イキがつけそうな氣がしたのです。久子の生活は、なにかしら下卑ていて、言わば動物的ですが、とにかく、ホントに根の生えた生活のような氣がしたのです。ホントの人間のような氣がするのです。徳富稻子などの生活や思想に較べれば、まるで下等なものかも知れないが、あの方がホントだ。そんな氣がしました。山内久子は、自分の生活を踏んまえてガッシリと立つています。老母と幼兒を守り、亭主の歸國を待ちながら、誰から何と言われてもスラリと立つて、百姓をしています。だから僕が行つても、僕の中へ踏み込んで來たりはしません。僕なぞには、かけかまい無く、やつて行くでしよう。その點が今の僕には良いのです。ホッと息がつけそうな氣がするんです。よし、あそこへ行こう!

 その次ぎの日に又此處へ來たのです。
 そんなワケです今僕がこんな所に居るのは。そして、來てよかつたと思つています。
 久子一家は僕が又現われても、大して意外そうな顏はしませんでした。もちろん、歡迎するようなこともありません。ちようど犬たちの群が、他から來た犬を迎えたようなものでした。「ホート汁」を又食べさせて、なにしに來たとも、いつ歸るかとも言わないのです。僕も自分のいろんな氣持や心理など説明なんかしません。ただ、「百姓の手傳いをするから、しばらく居させてください」と言うと、久子は「そうかね」と答えただけです。よろこんだのは、かえつて老婆のようでした。夏のタンボ仕事が、久子の女手一つでは、いくらか手に餘ることを、このお婆さんは知つていて、そこへ男手が來てくれたので、よろこんだらしいのです。それに、このお婆さんは、最初、自分の息子の嫁に僕という若い男が近附くのを、あれほど嫉妬したくせに、どういう理由からか、今は、そんな事をまるで考えもしないらしいのです。働き手がふえたから、それを忍んで外に出さないでいると言つたふうの功利的なものではありません。まるきり僕を信用しているらしいのです。それは僕に理由があるのかも知れません。僕には久子さんが女のような氣がしないのです。女だと知つていながら、そういう氣がしない。もし女として眺めるのだつたら、イヤな、ヤリきれない所のある女だと思います。つまり、久子さんの中には、僕の嫌いな所が有るのです。現在でもそうなんです。それがお婆さんの心の眼に見えるために、變な不安が生れる餘地が無いのかも知れません。
 とにかく僕は、その翌日から、割に落ちついて、久子さんに言い附けられるままに、いろんな百姓仕事をしました。はじめは、身體が痛くて、かなりつらかつたのですが、次第に馴れて來て、今ではたいがいの事は半人前ぐらいは、やれます。
 僕は重農主義者でも無ければ、農民や農村を愛したりしている人間ではありません。ですから、百姓の生活や仕事を理想化したり美化して考えたりはしません。ただの仕事だと思つています。それをやるのだつて、別に惡い氣持でも無いが、特に良い氣持でもありません。ただ、働くという事は惡くないな――そんなふうに思つてやつています。
「貴島さん、あんた、金、ある?」と、或る時久子が聞くので「無い」と言いますと、
「金、かせぎたくない? かせぎたければ、どうだね、カツギ屋やつて見ないかね? 實はね、あたしんちでも、こうして、まあまあ食うだけは食つて行けるけど、現金はまるで無いからね。これから冬になつて、お婆さんや坊に着せるもの一つ買えない。そいで、豆だとか何かを、すこしカツイで行つて町で賣ろうと思うが、今まで私一人で、出來なかつた。あんた、やる氣があつたら、やつて見ない? もうけは半分あんたにあげるわ」
「やつてもいいけど、下手をすると、つかまるんだろう?」
「そりや、そうさ。それは仕方が無い。法律をくぐつてやるんだから。そんな時はスナオに、取り上げてもらうなり、罰は受けるさ。それが法律だもの。しかし、別に人の物をぬすむと言うんじやなし、大金もうけをしようと言うんじや無しさ、ただそうしないじや、わしら、生きて行けないんだから、まあ、大目に見てもらうんですよ。引つかかつたから、惡いなあ此方だから、スナオに罰してもらうさ、しかたが無いもの」
 いかにも久子さんらしい考え方で、聞いていて僕は笑い出しましたが、笑いながら、急に目が開いたような氣がしたのです。
 それで僕は今、農事の手傳いの暇々にカツギ屋を始めました。品物は久子さんの内で出來たものです。三日に一囘位の割で東京まで通います。あまり大してもうかりはしません。たまには、つかまります。つかまれば久子の言う通り、スナオに取りあげられます。そして又、かついで來るんです。
 知らない間に、半年前のゴロツキが、カツギ屋になつているんです。コッ
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