と不安だつたが、案外に直ぐに信じてくれ、それに意外なことに、僕がMさんの事を話しているうちに、それまで何も言わなかつた老婆が急にあたたかい聲で、「ああ、廣島でなくなられたと言う人の、お弟子さんでやしたかい!」と言つてくれた事だ。僕が變な顏をしていると、イロリの火の光の中で、はじめてニッコリした久子が、默つて、火のついた枝を鍋の下から取り、壁のそばへ僕をつれて行き、よごれた佛壇を見せてくれた。
 そこに並んだイハイの間に、Mさんの寫眞――それも映畫雜誌からでも切り拔いたらしい小さな寫眞が、かざつてある。
「……あたしの昔の先生だと言つたら、あれからズーッとおつ母さんも朝晩に水をそなえてくれたり、花をあげてくれているんですよ」
 僕は一種なんとも言えない清冽なものを感じ、しばらくそのMさんの寫眞を見つめていた。
 それから後は非常に調子が良くなつた。と言つても、かくべつの話は無い。Mさんの事を話したり、立川景子について話したり(想像の通り、久子は景子には戰爭以來逢つていないと言う)この山内家の事情を聞かされたりした。かくべつ僕を歡迎すると言う風は無し、その方法も無いような貧しい家で、久子の氣質は前記の通り、ほとんどバサバサしたようなもので、それだけに、すこし馴れると氣が置けない。
 その晩は泊めてもらい、翌日になつて僕は東京へもどつて來たのです。それから、東京であちこちと二カ月ばかり過して、又思い立つて、ここへ來たわけです。その間の、搜索の件は、實は僕自身あまり興味が無いので、ザッとしか書きません。

        38[#「38」は縦中横]

 二カ月の間にリスト中の女で、自分のたずね當てた人は四人。――と言うべきか、三人と言うべきか。なぜなら、その中の一人は既に死亡していた。終戰まぎわの空襲で燒死。野々宮キミ、二十六歳。その事を自分に語つてくれたのは、四人中の一人の椎名安子。
 その椎名さんの事から書きます。
 東京の近くのT市の場末の、アパートとも旅館ともつかぬ、室數ばかりムヤミと多いだけで、おそろしく汚いバラックの一室(三疊ぐらい)に一人で住み、目下、病氣で寢こんでいる。病氣は肺結核。その他にも病氣があるらしい。病氣は、かなり以前からのようで、相當の重態らしいが、自分で自分の病氣を、ほとんど氣にかけず、積極的に養生しようという氣は無いらしい。生きていたいという氣が無いようである。そうかと言つて、早く死のうとも思わぬらしく、そのへん、自分にはわからぬ。當人もそんな事に關する事は一言も言わない。大體、病状のために呼吸が苦しいか、あまり口をきかぬ。低い聲で靜かに二言か三言かを言つて默り、又、しばらくたつて、ポツンと一言か二言か言うといつた調子。あらゆる事がらに、興味を示さず。Mさんの事を自分が言い出しても、
「そう、お氣の毒だつたわね……」と言つて、天井を向いて寢ている顏の筋一つ動かさない。それでいて、冷酷と言うのでは無い。ただ、そういう事に氣持を動かすような心境から、はるかに遠い所に行つてしまつているとでも言うか。だから、自分がこうして彼女を訪ねて來た理由なども聞こうとはしないし、又、自分が彼女をたずね當てた徑路をクドクドと説明しても、興味が無いか、ほとんど聞いていない。野々宮キミが燒死した現場に居たらしいが、それを語るにも淡々として、短い言葉で、「……顏の皮が、アゴの所まで綺麗にむけてしまつていたわ。ベロッと」そんなふうに言うが、感情はこもらない。それで顏は、すき通つたような、案外に痩せては居ず、やさしい、美しい表情だ。見ていて、なんだか恐ろしいような氣がして來る。
 室には、病氣特有のスッパイような匂いと、クレゾール液の匂いの入れまじつた空氣が重くよどんでいる。室に入つて來るや、自分の搜す女では無いと思つたが、それきり、安子と相對している間中、あの女のことなど思い出しもしなかつた。それほど、この室の空氣の匂いと、椎名安子の人柄は、もうどうしようも無い、決定的なものであつた。自分などが何か言つても、そんなことは全部はじき飛ばされてしまうだろう。……この人は、どうして暮しているのだろう? 家族は居ないのだろうか? 親戚は無いのだろうか? 看病する人は? 醫者にはかかつているのか?――そんな事考えたが、口に出しては言い出せなかつた。言い出しても仕方が無い氣がした。そんな事を言う自分がセンエツなような輕薄なように思われる。第一、安子がチャンと答えてはくれまいと言う氣がした。しかたが無いので歸る氣になつて、カンタンに失禮を詫び、「お大事に」と言い、金を千圓ばかり、安子には氣づかれないように枕元の盆の下にはさんで立ちかけた。そこへ、案内も乞わずに室に入つて來た男がある。自分よりも少し年の行つた、ハデな洋服を着た男で、その身なりやからだのコナシ、それからアゴの所の刀キズらしいものの有る下品な、ソソケ立つたような顏などで、一目見て、バクチ打ちかゴロツキのような事をしている男だと自分にはわかつた。それも、大した格の男では無い。グレン隊あがりの自分免許の兄き分と言つた所か。永らく黒田組に居たせいで、自分のそういう目は鋭くなつている。……そして室に入つて來た態度から、默つてジロリと自分を見上げた目つき、それから安子の方へ
「どうした――?」
 と言つた言葉の調子などから、これが現在の安子の男であることが、わかる。
 ああそうか。……自分は男に默禮して室を出て行きながら、それならば、さしあたり、別に心配することは無いと、妙な安心みたいなものを感じた。同時に、おそろしくミジメな氣持になつている自分に氣附く。
 外に出て、Tの場末のゴミゴミした通りを驛の方へ歩いて行きながら、どうしたのか急に悲しくなり、胸がせきあげて來て、涙がとまらない。こんな事は自分にはメッタに無い事だ。通る人が見るので、涙がとまるまで電柱のかげに立つていた。そして、椎名安子を、又しばらくしたら見舞いに來ようと思つた。

 志村小夜子。
 東京の郊外のSに住んでいる。
 椎名安子からこの女の現住所を聞いて訪ねて行つたが、その番地へ行つても、家がしばらくわからなかつたが、そのうち氣が附くと、なんの事だ、自分が何度もその家の前を通り過ぎた。今どきでは豪壯と言つてもよいような立派な邸宅が、それだつた。志村某々と、小夜子の夫のだろう表札が出ていて、明らかに終戰後に新築したものである。なんのわけも無いのに自分はそんな立派な家に住んでいる人だとは思つていなかつた。なにか意外なような氣がしてしかたが無かつた。どうもこれは、今迄自分が訪ねて行つた女たちが全部と言つてよい位に貧しくつつましい生活をしていたのが、いつの間にか、あとも全部似たような人たちだろうと思うようになつていたためか。
 訪れると小夜子は内にいて、快く會つてくれた。家の内部も豪華なもので、小夜子も金のかかつたナリをしている。家の樣子を見たばかりで、どうせ今どきこんな立派な邸宅に住んでいるのは、新興成金かなにかだろうと自分は思つていたが、それにしては、そこいらの好みがアカぬけしていて下卑たケバケバしい所が無い。これも少し意外だつた。もつとも、後で聞いたところによると、小夜子の夫は、やつぱり土建業の新興事業家だつた。ただ他の成金とちがうのは、戰爭以前から――財閥に深い關係を持つていた實業家、言わば名家の次男であつて、戰後財閥解體のアホリを食つて、ほとんど無一物になつたが、――財閥關係の人的關係のつながりは依然として殘つていて、金融方面ではそれがなかなか物を言う。そのような關係をうまく利用して土建會社を起して成功し、今ではその會社の會長で、他にも二三の會社に關係している。戰爭中、まだ小夜子が女優をやつていた時に、そのパトロンだつたが、終戰直後、妻を失い、間も無く、正式に小夜子を後妻として迎えた。先妻の子が二人いるが、二人とも既に大きく、別棟の家に別居の形。小夜子には、まだ子供無し。生活は豐かで、小型の自家用車を乘りまわし、月に二三度は外國人などを招いてダンス・パーティを開く由。立派なブルジョアの生活。しかし、すべてに夫妻の趣味の良さが行き渡つていて、成金式のゲスな所は無く、小夜子は非常に滿足しており、幸福に見える。顏も姿もサエザエと美しい。
 ――一時間ばかり會つて話している間に、自分が總合したのは以上のような事であつた。Mさんの事を言うと、「ホントにねえ、なんと申したらいいんですか……どうして又、いくら芝居をするためとは言いながら、原子爆彈の落ちる十日ばかり前なんかに、選りに選つて廣島なぞにいらしつたんですかねえ。あの方の事を思うと、今でも泣けて來るんですの」と言いながらサメザメと涙を流す。
 その言葉つきや涙の顏などが實に綺麗で、まるで芝居でも見ているよう。全體がどうも美しすぎる。言葉も動作も。自分はそれを見ながら、これまでに訪ねて行つた數人の女たちがMさんの事を語る語り方が、それぞれに違つていたのを思い出していた。特に前の椎名安子のそれと、山内久子のイハイの事、それから立川景子の悲しみ方などを、この志村小夜子の涙と心の中で較べていた。椎名安子は、自分には少し怖い。近よりにくい。立川景子は、なにか誇張して、別に惡い意味では無く行き過ぎているような氣がする。山内久子はイハイを見ていても、泣いたりはしなかつた。ただ默つて、深い強い目色をしていただけ。……そんなふうに思つていたら、どういうわけか急に、もう一度、山梨縣の久子の家に行つて見たいような氣がした。……ところで、この志村小夜子のこの美しい涙は、すると、どう言えばよいのだろう? たしかにそれは悲しみの涙で、そこに嘘は無い。正直にMさんのために泣いている。それはそうだ。しかし、もしかすると、今こうして幸福な生活の中で、自己に全く滿足している人間が、かつて知つていた故人のために涙を流すことに依つて、彼女自身が良い氣持になつているだけではないだろうか? いくら泣いても彼女は何も失わない、それを彼女自身知つている、そこに惡意は無い。しかし彼女には彼女自身だけしか存在しないのではないのか? 彼女の涙の中にMさんは居ないのではないのか?
 自分の思い過ごしかも知れぬ。しかしそんな氣がした。すると、急にそこに居たくなくなつた。
 もちろん、この女は自分のあの夜の女では無い。萬一、この女がそうだつたとするならば、僕はごめんだ。僕は引きさがる。……そう思う。いずれにしろ、志村小夜子など、俺には縁の無い存在である。

 古賀春子。
 志村小夜子に所を聞いて訪ねて行つたが、これは又、アッケ無いほどガラガラと明けつぴろげた暮しをしている人で、年は三十過ぎ。一眼見たばかりで、あの女では無い。
 Sの裏で「春子の家」という小料理屋を營業している。表面はそこのマダムだが、實は金主は他にある、つまり雇われマダム。春子の前身のため、藝能關係の客が附いていて、店は相當繁盛している。それよりもビックリしたのは、以前、黒田組に居た頃、組の若い者につれられて、この家には自分は一二度來たことがあるのだ。記憶は無いが、その時春子をも見た筈。その時は、たしか組の若い者が「禁制品であろうと何であろうと、どんな料理でも酒でも、スシなんかも食わせる家が有るから案内しようじやありませんか」と言つて連れて行き、言葉の通り、當時としては珍らしい物を飮み食いさせてくれた。現在でも、そういう點は同じらしい。
 訪ねて行くと、夕方だつたが、もう店は開けていて、客はまだ立てこんでいず、Mさんの名を言うと、たちまち、なつかしそうな顏で、まあまあこちらでと言つて、隅の小さなテーブルの所へ連れて行き、他の客にするのと同じようにビールを出してくれる。ガラガラとした調子だが、見るからに人が良さそうで、美しいと言うよりも色つぽい。氣取らず、オシャベリで、こちらが默つていても、あれこれと氣輕に話してくれる。はじめはMさんの思い出話が主だつたが、次ぎ次ぎと話題が流れて、この間に身の上話なども混る。それによると、夫も子供も有るようで、ただ夫が病身のた
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