らず、あの人の事をこうしてあなたに向つて書けるんです。とにかく、僕は立川さんを見ていて實に強い印象を受けました。そして、その印象は決して暗いものでは無かつた。明るい、肯定的なものだつたんです。
僕は醉いました。そして、しまいに立川さんと二人でヨロヨロしながら、そこでタンゴを踊つたりしました。非常に良い氣持だつたのです。しかし、そんなふうになつては、前に聞いた三四人の女の人たちの事を聞き出すことも出來ないので、その晩は、夜更けて、醉いつぶれた立川さんを殘して僕は歸り、その次ぎの日に又行つたのです。彼女は前の晩言つた通り、非常に熱心にそしてマジメに僕の相談に乘つてくれ、僕の問わない事まで話してくれたのです。今後も、そのつど、探索の相談相手になつてくれると言います。僕はうれしかつた。前途がすこし明るくなつたような氣がした。ただし、立川さんは自分の事を――自分が今ここに居てこんな事をしている事を、三好さんはもちろん、昔の知人や友人などの誰にも話さない約束をしろと言います。僕はそれを約束しました。
そして、差し當り、二人の人の住所を教えてくれました。僕は、その二人をすぐ訪ねて行つたのです。
その一人は、東京の葛飾區に居る人で、徳富と言う共産黨の女の人で、もう一人は、山梨の田舍で百姓をしている久子という人です。
35[#「35」は縦中横]
(その次ぎの手紙)――
徳富稻子。
(立川景子いわく)進歩的思想を持つた、すぐれたインテリ女性で、女子大學卒業以來、いろいろの知識的職業につき、常に新時代の尖端に立ち、自由戀愛主義者なり。戰前、女子大時代より左翼的な團體に關係し、終戰後すぐ共産黨に加入し、現在或る民主主義團體の書記局員として活動、一方暇々に自宅近くの幼稚園内に勞働者託兒所を開設し、自ら主宰している由。「ホントにえらい人だわ。それに強い性格だわね。女でもあそこまで、やれると思うと、たのもしいような氣がする。あたしなど足元へも寄れないわね」と、心からの畏敬をこめて景子は語る。
夫の徳富伸一郎は稻子より八歳の年した。美貌の洋畫家にして、これも共産黨員の由。子供は無し。以前から思想的に稻子の方が進んでおり、性格的にもシッかりしていて、伸一郎は常に稻子から教育され引きずられて左翼になつた形ありと言う。
「人の噂さでは、しばらく前から、別居しているんだつて。いえね、伸一郎氏に、女給さんあがりの若いキレイな戀人が出來てね、それとほかで同棲してしまつたもんだから、稻子さんとは別れるんだとかでゴタゴタしてるそうだけど、どうなつたかしら。なんしろ稻子さん自身が理窟の上でも實生活の上でも、とても猛烈な自由戀愛主義だしね、伸一郎氏といつしよになる時だつて稻子さんと言う人は、その前の御亭主の、たしか物理學の教授だつた、その人を蹴とばして強引に伸一郎氏といつしよになつた位だから、今度伸一郎氏に新らしい戀人が出來ても、反對するわけには行かないんじやないかしら。痛い所だわね。もとの御亭主に呑ませた煮え湯を今度は御自分が呑む番になつたわけよ。自分が良いと思つてやつて來た主義を、人には、そうしちやいけないとは言えないんでしよう? 自繩自縛という所ね。でもあたしは女だから、稻子さんに同情するな。伸一郎氏のためには稻子さん、實に今迄至れりつくせり、かゆい所に手がとどくように良くしてやつて來たのよ。ひと頃など朝起きると、伸一郎氏の帶までむすんでやるのよ。經濟的にも稻子さんの收入の方が多いんだから、伸一郎氏がズーッとノンキに繪が描いておれたのも稻子さんのおかげよ。稻子さんて人は、ひどく新しがつて、自分でも新らしいと思つているんだけど、シンはまるで封建的な人じやないかしら。すくなくとも伸一郎氏に對しては全然世話女房だつた。自分の方が年上だと言うヒケメもあるかしら? とにかく、見ていても腹が立つほど盡して來たのよ。それを、若い美しい女が居たからつて、ハイ・サヨウナラはひどいわよ! とにかく、そういうような人だわ、稻子さんて。まさか、あの人があなたの搜している人では無いと思うけど、何かの手がかりにはなるかも知れない。もしかすると、案外、そんなような自由な戀愛觀を持つた人だから、Mさんから頼まれて、それ位のことはやりかねないかも知れない。よしんば自分はしないにしても、間に立つて口をきいてやる位の事はする人よ。とにかく會つてごらんなさい」――以上、立川景子の話。
それで、會いに行つた。
徳富稻子の年齡は自分には見當つかず、既に相當の年配にちがい無きも、身體非常に小ガラにして、顏も少年の如く小さく丸く、ボオイッシュ・ボッブ? 髮をザンギリに刈りあげ、ハデな化粧のためひどく若く見ゆ。葛飾區の、川のそばのきたないアパートの二階に住んでいる。
自分が最初に訪ねて行つた時は、正午近くだつたが、アパートには不在のため、隣室の人にたずねると、託兒所だろうという事で、そちらへ行くと、なるほど幼稚園のカンバンはかかつているが、古板や燒けトタンを寄せ集めて立てたヨロヨロのバラックなり。表で自分がウロウロしていると、バラックの内から、甲高い女の聲と三四人の幼い子供たちの聲で、インターナショナルを歌う聲が不意に起る。しかし、チャンと歌になつているのは、ただ一人の女の聲だけで、あとの子供たちは、ただウォーウォーと犬がほえるように、節もメチャメチャに叫ぶだけ。
案内を乞うていると、窓のような所から、オトナやら子供やらわからぬ女の顏がヌッと突き出て、「どなた?」と言う。それが徳富稻子であつた。内に入ると、二間四方ぐらいのきたない板の間で、家具は無く、壁に小さい黒板を一つぶらさげただけ。黒板に多分熊だろう――動物の繪がチョウクで描いてある。四歳から七歳ぐらいまでの、みすぼらしいナリと顏をした子供が、たつた四人いるだけ。それに稻子はインターナショナルを教えていたらしい。自分は託兒所というものを、はじめて見たが、こんな貧弱な託兒所が有るのか? 兒童が四人というのも、あまり少なすぎるのではあるまいか。しかしそんな事は自分に直接の關係無き事ゆえ、すぐに自分がMさんの知人であることを言う。椅子も無く、坐る所も無いので、突つ立つたままなり。
「そう、Mさんね?……もう久しく會わないでいて、あの方あんなことになつたけど――お氣の毒なことをしましたねえ」
カチッとした物の言い方で、テイネイなれど、冷たい。人をよせつけないような所がある。ひどくイライラしているような眼の色。そのイライラしている自分を他人からかくそうとして壓えつけている。冷たい感じはそのために生れるのか。――
「で、どんな御用でしよう?」
言われて自分困る。はじめの三四分間、この人があの女で無いとわかつたので、さて「用」と言われるとマゴつくのだ。それで、しかた無く、訪問の口實として立川景子から授かつた「Mさんの事を書きとめて置きたいと思つて、知人の方たちを歴訪しているんです」と言うと、稻子はしばらく考えていたが、やがて腕時計をのぞき「では、私の住居の方へ行きましよう。いえ、どうせ、お午になれば、この子たちは家の方から連れに來ることになつているし、もう十一時半過ぎですから、早目に歸らせましよう」
それで、連れ立つて元のアパートへ行く。途中、「あれんぱつちの子供を集めて託兒所なんて言うと、コッケイに見えるでしようね?」と言う。自分が何とも答え得ないでいると、ハッハハ! と男のように笑い「でも、はじめたばかりで、しかたが無いし、それにあれだけでも親達は助かつているのよ。このへんの勞働者なんか、ちかごろ暮しがとても苦しくなつて來ていて、子供なんか見てやつてる暇は無いんですからね」と言う。何か恥かしい事をしている所を、出しぬけに覗かれて、ムッと怒り、同時に辯解しないではおられない氣持になつているようだ。
アパートではお茶を入れてくれる。「一時間だけ時間があるから、知つている事はお答えしましよう。ただ、私はMさんとそれほど親しくなかつたし、お目にかかつていたのも、戰爭前の赤色救援會の活動の中で、金を寄附してもらう用事などが主で、だから、もう六七年も前のことで深い事は知らないのよ」
自分の現住所を誰に聞いたと問うので立川さんの名を言つたが、
「立川さん、お元氣?」と言つたきりで、何か考えていたが、それ以上追求せず。それで、しかた無く自分はMさんの事を二三たずね、ソロソロ歸ろうと思つている所へ、ヌッと室に入つて來た男あり。男は、自分をジロジロと見ていたが、やがて無視し、稻子に對していそがわしく言葉をかけ、兩方で二言三言交す間に調子が荒くなり、たちまち口論になる。自分は歸るに歸られず、室の隅で二人の言い合いを見ていた。男は稻子の夫の徳富伸一郎だつた。
口論の内容は、はじめ自分にわからず。しかし次第に口論が激しくなつて、第三者の自分の存在を顧慮している余裕が双方に無くなつて來て、アケスケな言い方をしはじめて來ると、立川景子より聞いた事と照し合せて次第にわかつて來た。
この夫婦とその若い女との間の三角關係は緊張しきつており、若い女はニンシンしている。そして伸一郎が稻子と正式に離婚しなければ、毒を呑んで胎兒もろとも死ぬと言つている由。おどかしでは無く、かねて、それをやりかねないヒステリックと言うか、戰後的な女らしい。だから伸一郎は稻子に向つて正式の離婚手續きを取ることを承諾するよう要求しつづけて來たが、稻子の方で承知しない。ああの、こうのと言つて拒んで來たが、現在では、手切れ金として三十萬圓拂わなければイヤだと言つている。伸一郎の方は出せないと言う。事實金は無いらしい。それで話はどこまで行つても解決せず。
しかし自分がわきから觀察したところに依れば、徳富稻子は、實は必らずしも手切れ金が欲しいのでは無い。男に對してミレンがある。しかし自尊心が強いためにそれを言えない。それに、そのような事を言うと、「男女の戀愛はいつでも自由であつて、法律上の夫婦關係にこだわつたり、それに依つて相手をしばつたりする事は、封建的なまちがいだと言うのは、あなたの持論じやないか! あんたが、いつもそれを云つてたんじやないか!」と言つて男から、やつつけられる。つまり、稻子自身の理論を伸一郎が逆手にとつて詰め寄る。したがつて稻子はそれに對抗し得ない。しかし別れたくはない。だから金の事を言い出している。
尚、伸一郎の方は「僕は畫家で藝術家だ。藝術が命だ。それが、あんたと言う人といつしよに居ると自分の藝術は涸渇してしまう。いや、それはイデオロギイの問題じやない。イデオロギイの點では君は正しいと思うし、僕も黨員として恥かしくない活動はやつて行つているし、これからもやつて行くつもりだ。問題は藝術の事だし、藝術家が藝術を生んで行くための地盤になる生活のウルオイだとか、愛情の事なんだ。君はわかつてくれる筈だ。だつて、それも君がこれまで、いつも言つて來た事なんだから、それを今さら認めてくれないのは、君のイジワルか、君の理論の虚僞じやないか!」と言う。
この點では、彼は稻子の武器を逆手に取つているため、稻子には一言も抗辯できない。
兩方とも、一所懸命なり。伸一郎はズルイ。稻子の方はバカゲている。
聞いていて自分は男を憎み、女を輕べつした。
共産主義というものは、こんなものなのか? いや共産主義とは限らない、主義や理論が、こんなふうに、個人の人間的な愛情の間題などに對して、これほど無力なもの、又はウソのつき合いの道具になるものならば、全體なんのタシになるのであろうか? こんな人たちにとつては主義やイデオロギイも、みんなウソではないのだろうか? すくなくとも裝飾に過ぎないのではないのか? 託兒所なども結局は本心からのものでは無いのではあるまいか?
とにかく稻子は、まだ伸一郎を愛しているんじやないか。それなら、なぜに正直にそれを言わないのだ? 言えないのだ? 言つても三角關係は、どうにもならぬかも知れん。しかし、こんなバカらしいウソツキゴッコをしているよりは、まだ
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