ません。
しかし彼女は、いつたんそうして氣を許して語りはじめると、僕を離そうとしません。ふだん、そこの仲間たちには話せない、いろんな事が、ウンと溜つているらしいのです。それらを次ぎから次ぎと、順序も無く話すのでした。シワだらけのオバケのような顏は、ほとんど無表情のままで、時々樂屋のあちこちを眺める眼の底に、冷たい憎惡のようなものをこめて、低い聲でボソボソ、ボソボソとつづけるのです。そこには、零落してしまつた藝人の、自分の周圍や世間一般に對する呪い――と言うほどドギツイものではなくても、そうです、今はもう失われてしまつた自分自身の藝人としての若さに對する怨みとでも言えるものがありました。そのくせ、その事に就ては、中年の女らしくサッパリと諦めてしまつた所もあります。もう再び自分の上に藝術の世界のホントの光が差して來ることは無い。そう思いこんで、完全に思い捨てて、その事についてイライラしたりするような所は無いのです。つまり、レイラクした人間のヤケは、ほとんど有りません。それだけに、既に失つてしまつたものについての怨みのようなものも深いのだろうと思われました。
聞いていて、僕はだんだん悲しくなつて來ました。そして、この人は寂しいのだと思いました。そう思うと、これは俺の搜している女では無いから、もう用は無いのだと思つても、そのままサッサと歸れなくなつてしまつたのです。
「男なんてダメ。あたしみたいな女は、結局は男なんかでは滿足しておれないのね。こいで、今まで三人も四人も亭主みたいな者を持つたことがあるのよ。だけど、みんな永續きがしない。そう、男運が惡いことも惡いんだわね」
いつの間にか、景子はそんな事を言つています。「だけどね、そんな事よりも人間がいつたん藝術に惚れこんでしまうと……」と言いかけて、フフフ! と自嘲して「いえさ、こんなふうになつてしまつたハダカ女優が藝術なんて言うと口はばつたいけどさ、そんでも、こんな世界に飛びこんだモトモトを言えば、まあ、藝だわね? その藝さ。藝に惚れこんでしまつたら、おしまいなのよ。男なんて言うもんより惡性なのよ藝と言うものは。血まですすられちまう。それだけに、つらいとも樂しいとも一言では言えない味があるのよ。それが有るから、こんなドブドロん中でもオヨオヨしておれるのよ。今どきのチンピラさんたちは知らない。あたしは、そうなの。わかる? わからないでしようね、あんたなぞには。Mさんが生きていてくれたら、チャーンとわかつてくれるんだがな。つまり、そんだから、男なんかつまらないの。いいえ、つまらないなんて言い過ぎだけど、藝の前に連れて行けばだな、シバイというものの前に連れて行けば、男の魅力なんか、負け。シバイには飽きないけど、男には飽きるもの。いえ、そうで無い女も居るには居るでしよ。大部分がそうで無いかもしれない。しかしあたしは、そうなの。だから男運が惡いと言うよりも、あたしのセイで、あたりまえなの。だつてあたしには、男なんかの前に、チャンとシバイと言う御亭主が居るんだもの。そうなのよ、シヨウねえや!」
話がどこへ流れて行くか見當がつきません。僕はだまつて聞いている以外にありませんでした。そのうちに、樂屋の入口の方から男の聲で
「――さん!」と景子の現在の藝名を呼んで
「すぐに出ですようー」
「オッケエ!」景子は、どなり返すや、急いで鏡の方へ向いて、顏を作りにかかりました。鼻の下をグイと伸してオシロイのパフを叩きつけたり、思いきり目をむいて横を見たり、實にコッケイなことをします。しかし當人は眞劍です。
「そうそう、そうだつけ。あんた、キジマさんとか言つたつけ、あたしに聞きたいとか言つてたね? なあに、それ? どんな事? ごめんなさいね、自分ばかりしやべつてしまつて。いえさ、急にMさんの事思い出したもんだから、ツイねえ!」言いながらもメイクアップの手は休めないで、「どんな事?」
「いや、今日はお忙しいようですから、又來ます」
「そうね、これから、夜の部までズーッと引つぱられているから……じや、すまないけど、八時半になれば三囘目がトレるから、その頃來てくんない? 此處で待つているから」
「じや、そうします」
「すまなかつたわね。タアちやん!」と、これは、斜め後ろに坐つていた若い踊り子に呼びかけて、
「眉ズミ、ちよいと貸して」
「はい!」
「おやおや、まだ、これかあ! チエッ!」
見ると、それは、眉ズミなんかでは無い、普通の四角な棒状の、するスミです。その頭を、舌を出してペロリと舐めてから、眉毛の上にゴシゴシとなすりつけています。そうしながら彼女は、テレかくしに片目をつぶつて見せて、
「ハナ、ハト、タコ、コマ……讀み方や書き方を思い出すわね? なんしろ、こいつで眉を描いていりや、樂屋中で使つても、五六十年はもつね。ウフフ!」
そこで僕は、いつたんそこを辭し去り、その夜九時ごろ再び訪ねて行きました。
たぶん飮める口だろうと想像してブランデイを一本さげて行くと、案の條、立川さんはよろこんで、ワーイと叫び聲をあげ、いきなりそこにあつた茶わんで二三ばい、立てつづけにあおりつけました。
樂屋じゆうガランとして立川さんと僕以外には誰もいません。此處に寢泊りしている者が他に二三人あるそうですが、舞臺がハネルのと同時に外に出かけて、夜おそくでなけれは戻つて來ないそうです。「フン、遊びだか、商賣だかね。どうせ、あたしなんか、そんな元氣無いや」と景子さんは言つていました。その誰も居ない夜の樂屋のガランとした一種異樣な寂しさには、おどろきました。僕はいろんなインサンな場所もずいぶん見て來たのですが、あんな感じの所はほかにありません。坐つていると、どこまで氣がめいるか、わからないのです。きたない事もきたない。晝間の時は、男女優がいつぱい居るし、脱ぎつぱなしの衣しようが散らかつているし、壁にはいろんなものがぶらさがつている――まるでゴミ箱の中のようなきたなさだつたが、まだあの方がよかつた。今は、ゆかの上なども一應掃き出されてそこらに散らかつている物も片づけられているだけに、そのきたなさがムキ出しになつて、救われようが無い。電燈も大部分消されて、二つ位しかともつていない。その隅の壁にもたれた景子が横坐りに太つた素足を投げ出して、顏中のシワを深めてブランデイをグイ飮みしている姿が、まるでどす黒く、ゆがんだ繪のようです。その足の先きを、話しているうちに、チョロチョロと鼠が走り過ぎて行きました。
晝間でコリていたので、僕はいきなり本題に入りました。リストの名の中から立川さん自身だけを拔かして十四人を讀み上げ、その中に知つている人が居たらその消息を聞かしてくれと言いました。
「そうね、三四人なら知つてるわ。だけど、たいがい、もう大分以前の話だから、かなり變つちやつた人もいるんじやないかなあ」
「いいんです。それは僕が調べますから」
「そん中で、徳富さんと、本田の久ちやんの事なら、かなりよく知つてるわ。徳富さんは今たしか葛飾にいる。久ちやんは山梨縣の田舍よ。……だけど。あんた、そんなふうに女の人ばかり訪ね歩いて、どうしようと言うの?」
それから、その理由を根掘り葉掘り聞きはじめるんです。僕の返事がアイマイなものですから段々に興味をそそられたらしいのです。Mさんに關係のある事らしいので、本氣で知りたい氣持もあるようです。そのうちに、ブランデイの醉いが出て來て、聞き方がシツコく、からんで來ます。しまいに、「わけを話さなきや、教えてあげない」と言うのです。僕は、かなり永いことガンバッていましたが、遂にしかた無く話す氣になりました。一つには、このままだと、もしかすると死んだMさんにルイを及ぼすかも知れないと氣が附いたためもあります。それに、十が十、この立川さんが當のあの女では無いという確信があるのと、色や戀も相當にしつくして來て、僕から見るとスガレきつたような相手であるために、話しやすい事もありました。それで話しました。話すと言つても、もちろん、あの晩のことをくわしく――僕があなたへの手紙に書いたように細かく具體的に話したのではありません。ただ「出征する前にMさんの引き合わせで逢つた女の人」と言つたふうに、なるべくボカして言いました。
「名がわからないと言うと、そん時、聞かなかつたの?」
「ええ」
「ふうん。……顏はおぼえているんでしよう?」
「よくおぼえて[#「「よくおぼえて」は底本では「よくおぼえて」]いないんです」
「だつて、あんた、その人と逢つたと言うんでしよう?」
「ええ。……でも、空襲中で暗かつたもんですから――」
すると彼女は變な目をして默つて僕の顏を見つめていましたが、するうち、急にニタニタして
「ああそうか! 逢つたと言うのは、そういう意味なの? へえ! つまり、なんでしよう、この、仲良くなつたと言う――? でしよ?」
僕は眞つ赤になりました。すると立川さんは目を輝かして嬉しがつてワーッ! と叫ぶのです。
「フッ! いいなあ! そうなのう! Mさんがその人を世話したのね? やるやる、Mさんなら、本氣でそれ位のことやるとも。……なんじやない、もしかするとあんた、そん時まで女を知らなかつたんじやない? それをMさんが、そんな事で出征はさせられないと言うんで、そんなふうにしてやつたんじやないの?」
まるで何もかも筒拔けみたいなんです。立川さんは、深い附き合いではなかつたと言いながら、Mさんの性質を實に良く知つているようなのです。それとも、同じ芝居や映畫の世界の空氣を吸つて同じ年代を送つた人たち同士の間には、そんな細かい所まで通じ合うものが有るのだろうかとも思いました。とにかく圖星を指されて僕が眼のやり場に困つていると、立川さんは益々よろこんでしまつて、僕に茶わんをつきつけてブランデイをついでくれるんです。
「いいなあ! 乾杯! 飮みなさいよ。Mさんと言う人は、そういう人なのよ! それがジョウダン半分じや無かつたんだから! 眞劍にそんな事が出來たんだから! いいじやないのう! あんたも良いボーイだ! ビアン! 好きんなつちやつた! 良いギャルソンだあ! よしよし、そんな事なら、あたいも加勢をしてその人を搜してあげる! 何が何でも搜しなさい! ブラボオ! んだけどチョット燒けるね! チッ! あたしがその人だつたら、よかつたなあ。ウーン! どう、あんた? あたしじや、まずい? あたしだつたとしたらさ? だつて、どうせ顏はおぼえていないんでしよう? 同じ事じやないの! どう、私じや、まずいの? こんでも、ツラはこんなだけど、まだまだ捨てたもんじやなくつてよ! 見せてやろか? ホラ……」
スッカリ醉いが出て來たセイもあるでしようが、フラッと立ちあがると着ている樂屋着とでも言いますか、タオル地のガウンみたいなものの前をスパッと開いて、――その下には、シュミーズとズロースだけしか着けていないんです――腰をゆすつてフラ・ダンスみたいな事をはじめたのには弱りました。
「ね! こら、ギャルソン! 見なさい、こつちを! どう、まだチョットいけるでしよ、あたしの肌!」
もうサンザンで、僕は拷問にかけられているようなものでした。チラッと見た彼女の胸や脚が、なるほど意外な位に白く脂が乘つてキレイだつたのです。……しかし、そんなふうな姿をしながらも、立川さんには、ワイセツなものやイヤラシイ感じは全くありませんでした。ただ美しく、そして、ほんとに幸福そうで、彼女の感じている感激と言うか――嬉しさが、ただヒシヒシと僕に迫つて來たのです。あのインウツな、まるで地の底みたいな穴倉の中なんです。花が開いて搖れてるみたいなんです。花は歪んで、しぼんで、くずれかかつた花です。落ちぶれ切つた中年の女優。……女優と言うのもはばかられるような醜い人の中に、どう言うわけで、こんなに美しいものが殘つているのだろう?……もしかすると、この人は非常にすぐれた人間かも知れない。……そんなふうに僕は思いました。ですから、僕は立川さんから禁じられたのにもかかわ
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