には居ないとだけで取りつく島がありません。係りの人たち自身がこの一二年の間にスッカリ入れ變つてしまつていて、戰爭中までの人事などのくわしい事をおぼえている人が、ほとんど居なくなつているようでした。
 そのうちに、課員の中でも古參らしい男が「そうだ、撮影所の方に以前、たしか立川とか瀧川とか、なんでも、そんな名前の女優が大部屋に居たような氣がする。もしかすると違うかもわかりませんがね。なんなら、撮影所の方へたずねて行つて見たらどうですか?」と言つてくれました。
 それで僕はT映畫撮影所に行きました。そこの係りの人は忙しいせいもあるでしようが冷淡で、なかなか相手になつてくれませんでしたが、僕がテイネイにしつこく頼んだら、古いカードなどを調べてくれ、立川景子というのが戰爭中一年間ばかりそこで働らいていた事だけはわかりました。ごく下つぱの女優らしい。しかし、かんじんの住所を見ると、あなたの書いてくださつたリストにあるのと同じで、それなら既に僕が調査ずみで、そこには立川さんはおろか家もありはしないのです。ガッカリしていますと、わきで、すこし前から係りの人と僕の押問答を聞いていた五十がらみの男(後で知りましたが、これは、もと映畫俳優をしていて現在は事務の方をやつている人だそうでした)が「ああ、立川景子なら、たしか某々のハダカ・レヴュに出ていると誰かが言つてたなあ」と言葉をはさんだのです。
 それでその人に聞き、僕はその某々劇場に行き、それから又、別の劇場へ行き、その二つともムダで、次ぎの丸々劇場で、やつと立川さんに會うことができました。こんな某々だとか丸々などと書くのは變ですが、立川さんは、
「私がこんな所で働いているなんて人に言わないでね。とくに三好さんと言うのには、一二度會つたこともあるし、今の私の居所なぞ、絶對に言つちやいけない」と言うのです。名も全然變えて働いているのですし、しかもスタアなどでは無いのですから、そんな心配はする必要は無いのですが、現在の自分を立川景子として知られるのが、しんからイヤらしい――と言うよりも怖いらしいのです。
 立川さんに僕が會つたのは、その、もと映畫館だつたのをチョット改造してレヴュ小屋にした某々の、舞臺の横の地下室の樂屋の奧です。地下室と書いても樂屋と書いても、實はピッタリしないような、極端にきたない、狹い穴倉みたいな所です。幅も、高さも一間ぐらいしか無く、奧行きだけ五六間もあります。どこかの石垣の奧の蛇の穴と言つた感じがしました。天井から一列に五つ六つの電燈がぶらさがつていて、その下に三十人近い男女優や踊り子たちが、半裸體になつたり扮裝のまま、居ぎたなく坐つたり寢そべつたりしているのです。奧の方へ行くには、人の身體をまたいで行かなくてはなりません。ムッと暖かく、タバコの煙がもうもうと立ちこめています。……その一番奧の壁に向いて坐り、タバコを横ぐわえにしたまま、小さい鏡に向つて化粧をしていたのが、それでした。僕を案内してくれた樂屋番の人が、
「この人ですがね……」彼女に向つて言い、僕を顧みてくれましたが、彼女は鏡の中から僕をジロリと見上げたまま、なんにも言いません。樂屋番が去つても、坐れとも言つてくれないので僕は立つたまま彼女を見ていました。横顏と鏡の中の顏、肩の形や身體つきなど、よく見ていると、かなり整つていて、カッコウだけなら美しいとさえ言えるのですが、眼の下や鼻の兩がわに不愉快なシワがあつて、それに眼つきが冷酷で、全體が實に醜いのです。第一、化粧途中のせいか、年が四十過ぎ、いや、ヘタをすると五十近いぐらいに見えます。僕は、一目見たばかりで「ああ、この人では無い」と思いました。景子は、そのまま僕の方へは目もくれないで、ゴシゴシとじやけんにオシロイのハケを動かしていましたが、急に
「困るなあ、立川なんて言つて、やつて來られたんじや!」と怒つた語調で言いました。「なんの用、あんた?」
「ええ、チョット、おたずねしたい事があつて――」
「……まあ、お坐んなさい。あたしの名は此處ではちがうんだからねえ。立川だなんて知つている人は、極く僅かなんだから。……ぜんたい、どこで私が立川だつて事聞いて來たの?」
「T映畫會社へ行つて、しかしそこでもハッキリした事がわからないもんですから、方々たずね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、ヤッと――」
「困るよ、そんな、映畫會社なんかへ行くの! チェッ、しようが無いなあ。全體、あんた、何さ? 學生? ……にしちや、立派すぎるわねナリが? あたしに聞きたいと言うのは、どんな事? ……ことわつとくけど、ズーッと以前の事は聞いたつて駄目よ。忘れちやつてるんだから。なんなの?」
「實は、僕は、兵隊に行く前に、しばらくMさんの――廣島で死んだMさんです、あの人の弟子みたいにしてもらつた者で、貴島と言つて――」
「え? Mさん? Mさんだつて!」彼女はビクンとしたように高い聲を出し、はじめて振返つて、僕の顏をじかに見ました。「あんた、お弟子さんだつて? そう……そいじや、役者?」
「いえ……シナリオだとか芝居の演出方面の勉強をしようと思つて、……でも、まだホンのやりかけたばかりで出征してしまつたもんですから……でもMさんからは、たいへん可愛がつてもらつて―」
「M――か」と景子は、Mさんの姓名全部を呼び捨てに言つて、しばらく何か思い出すような眼つきをしていたが「フン……そうなの? そんなら、それをなぜ早く言わないのよ。あたしは又、どつかのヨタが、タカリに來た位に思つていた。ごめんなさいね」
 はじめて微笑した。笑うと鼻のわきのシワがいつそう目立つて、まるでキズのようになり、更に婆さんヅラになるが、意外な位に人の良さそうな表情になつている。
「そうMさんのお弟子さんね。そんなら、あたしともマンザラ縁が無い事も無い。フフ。いえ、別に私はあの人の弟子じやなかつた。向うは大スタアでこちらは名も無いワンサ女優だつたんだから。だけど、私、尊敬してたからね。良い人だつたわねMさんて? でしよう? 良い人だつたなあ!」
 言つている間に、ボロボロ泣きはじめたのです。びつくりしました。シワだらけのミジメな、しかも、ドギツイ化粧を半分やりかけたままの頬にタラタラと涙が流れて、悲しいよりもコッケイになります。しかし、僕は思いました。こんな場所で、こんな女がMさんを思い出して泣いている。これはMさんが死んでから流された、いろんな人々の涙の中で一番純粹なものかも知れない。Mさんは自分が死んだ後に妻も子供も、財産も著書も、その他何一つ殘されなかつた。しかし、こんな人の中に、心の底に何かを殘していられる。Mさんは、やつぱり、えらかつたんだなあ。そしてあの人のえらさは、こんなようなえらさだつたんだ。……そんなふうに思いながら僕は坐つていました。「バカね、あたし……」景子は、しばらく泣いていてから、テレてニヤニヤしながら言いました。「變に見えるでしよう? 告別式にも行かないどいて、今ごろ泣くなんて。フフ! まるで、あの人の色女だつたかと思われかねないわね? そうさ、Mさんて人は浮氣な人だつたからね。でも私なんて、こんな、昔つから芝居でも映畫でもホントのワンサでね。Mさんが今まで生きていたつて今ごろはキット忘れていられたと思うわ。あの人が主演した映畫に二度ばかり、通り拔けみたいな役で出してもらつた事があるきりだもの。その二度目の映畫の時にね、私が何かしくじつて――たしか私のためNGが出ちやつて――當時フィルムが足りないのでNGがやかましかつた時代でしよう、助監督から頭ごなしにダイコン! などと言われて、セットの隅つこでショゲてね、死んじまおうかなどと考えて……これで當時、まだ若くつて純情だつたからね、ハハハ、ほんとさ! そしたら、Mさんが食事の歸りかなんかで通りかかつてね、どうしたと聞かれるのでこれこれと話したら、よしよし、それは君の過失だ、過失は惡い、しかし誰だつて過失はするよ、僕があやまつといてやるから泣くな、そう言つてね、あたしを慰めるつもりなんでしようね、そう言いながらもモグモグと食べていたトースト・パンの、食いかけのままのヤツを、自分の口をつけたコバグチの所をチョイチョイとむしり取つて、いきなり私にくれるの。食べろと言うんだわ。自分の食べかけのパンよ。無理に私の手に持たせて、オット仕事だあ! と言つてセットの方へ驅け出して行つた。…………あたしは、うれしかつた。永いことそのパンを見ていた。死んでもいいと思つたなあ。その時の、コバグチをむしり取つたMさんの女のようにコマゴマとした手つきが今でも目に見えるの。…………そう言うことがあつたの。それを思い出したら、たまらなくなつた。……良い人だつたわねえ。良い人は早く死ぬ。あたしなんぞ、あんな人の代りに死ねるもんなら、身代りに死んでりやよかつた。ホントーオに、そう思うの。生きていたつて、このザマだもん! 以前から私なんぞ花の咲いた事は無かつたけど、しかし昔は、氣持だけはチャンとしてた。純粹だつたもの。だから、苦しいのなんかヘイチャラだつた。今は、もう、腹ん中がダメんなつてしまつてる。量見がまちがつて來ちやつてる。だから、こんな仕事なんかフッツリとよせばいいのよ。しかし、よせないの。こいで、十年前によしておけば、よせた。今となつては、もう、やめようと思つてもダメ。ひでえもんさ。……やめられないとあれば、仕事の選り好みを言つてはおれない。ダラクもするさ。でないと、こんな所に一日でも、いつときでも、がまん出來やしないの。がまんして、こんな所に居るためには、自分がダラクすることが必要なのよ。わかる、あんた? ごらんなさい、此處に居るこの連中!」
 しまいの方を段々小さい聲になり、最後の文句はほとんどささやくように言つて、樂屋の中の女たちをアゴでさし、「ね! こんだけ若い女たちがいるわね。たいがいみんな、割に氣だての良い子ばかりなのよ。そいで、この中の半分ぐらいが、どんな事をして暮していると思う? え? こうしてハダカやなんかになつて一日三囘も舞臺に立つてだな、座からもらう給金は、人にも言えない位のポッチリ。そうね、一人前の生活をやつて行ける程度の金をもらつている人は、先ず二三人しきや居ない。で、あとは、アルバイト。フフフ、お座敷に出たり、パーティに呼ばれたり。その方の稼ぎが大きいのね。中には、それだけの事でキレイに稼いでいる子も居るけど、人によつちや、相當タッシャな事をしているのも居るわね。もつとも、自分では女優やダンサアだという誇りを持つているから、よしんば男をなんにん相手にしても、好意を持つたからとか戀愛したとかパトロンだとか、いろいろにモットモな理由はくつついている。無意識の口實だわね。そして、實際にしている事は、商賣人以上のことをやるのが居る。だから、ここで踊つたりしているのは、そんな子に取つちや、張り店みたいな役に立つているわけで、よしんば給料がタダであつても舞臺はよせないわけよ。そうなの。中には、舞臺衣しようをソックリ着たまま外國人のワイルド・パアティなぞへ行つて踊つたりする。……しかし私には、そいつを惡くは言えない。だつて、そうしないと、やつて行けないんだもの。キレイなニュウ・ルックも着たいわね、あの年頃には。それさ。私には惡く言えない。そうじやなくつて? 誰がヒナンできると言うの、男優連だつて似たり寄つたりだわ。しかたが無いんだもの。マゴマゴしていると食いつぱぐれるし、落伍してしまう。そういう世界よ。私なんぞ、そういう所に落ちて來ているの。フフ! もつとも、私はもう自分でしたいと思つても、こうなつちや、荒い稼ぎなぞ出來ないの。しかたが無いからシワやブクブク太りを、オシロイやドウランでごまかして、ハダカになつたり、腰を振つたりしてね、フフフ! 家も燒けたし、今ズーッとこの樂屋で寢泊りしてんのよ。鼠といつしよにね」

        34[#「34」は縦中横]

 立川景子は、僕の搜している女では無い。
 匂いをかいで見る必要なぞあり
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