僕は馬鹿だ。
僕は自分のことを、かしこい人間だと思つたことは一度も無い。しかし、これほどの馬鹿だとは思つていなかつた。救われようの無い馬鹿。
この二三カ月間、あちこちして、いろんな目に逢い、いろんな人間を見て歩いている間に、その事が、實にイヤになるほどハッキリとわかつた。
自分が戰爭から歸つて來て、黒田組に入つて、ヤクザな生活をしていた一年ばかりと言うもの、それが自分にはわからなかつた。それが、黒田組を出てしまつて、方々をウロつきまわりはじめて、たつた二三カ月で、まるでいつぺんに幕を切つて落したように、ギョッとするほど見えて來た。自分の愚劣さ! どうしてだろう? この二三カ月で世の中が變つたわけでは無い。今、自分の目の前にある現實は一年前から在つたのだ。今、氣の附くことなら、一年前に氣が附かないワケは無い。だのに氣が附かなかつた。
すると、自分が變つたのだろうか? いや、しかし、自分がそんなに急に變るなんていう事は、あり得ない氣がする。何かチョットした視角の違いが起きたのか、又は視力の中にある盲點のようなものがヒョイと治つたのか? わからない。
人間なんて實に弱い、モロイものだ。ホンの昨日まで、あのようにしか見えなかつたものが、チョットした加減で今日は、まるで別のように見える。しかも、昨日の認識は、その人間にとつてはその時は絶對であつて、それしか存在しないし、今日は今日で、これ又今日の認識が全部で絶對だ。變だと思う。人間は弱い。人間はタヨリ無い。しかも、その事を知つていても、又しても明日も明後日も、その時その時の認識を持ち、その一つ一つをその時には絶對であり全部であると思つて生きて行く。頭では知つていることを、實際の上では、愚かにも何度でもくり返して行く。行かなければならない。――それほど人間は浮いている雲のようにとりとめの無いものなのだろうか? いや、えらそうに「人間」などと言うことはない。自分だ。この貴島勉と言う男だ。弱い、モロイ、たよりにならない、浮雲のようにプワプワした者が、この自分なのだろうか?
そうだ。たしかにそうだ。そう言い切らなければならない。辯解はあり得ない。おれと言う人間は、そんな弱虫の、プワプワした浮雲なんだ。馬鹿! ザマ見ろ!
しかし、それはそれとしてだ。いや、それがそうであればある程、すると俺には、この世の中、人生、人間、社會と言うものの眞の姿、つまり――眞實だ。その眞實が、ありのままに見える時があるだろうか? 昨日と今日と明後日と次ぎから次ぎと變つて行く「眞實」では無く、昨日も今日も明後日も變らない、不動の眞實。それがこの俺に掴まえられる時が來るだろうか? それは、來ないのではあるまいか? 俺にはそんな能力は無いのではあるまいか?
しかし又思う。そんな不動の眞實と言うようなものが、では、一體全體、在るのか?
まるで、わからない。俺にはわからない。しかたが無いから、俺は、やつぱり、ウジ虫のように、浮雲のように、プワプワ、フラフラと、今日ただ今、自分にとつて眞實だと思われるものを追つて歩く以外に無いのであろう。しかたが無い。
戰爭のことにしたつて、そうだ。俺は戰爭をくぐつて來て、その事を何か特別のことでもして來たように思つている。しかし、戰爭が一體なんだろう? 戰爭は戰爭で、俺は俺だ。戰爭で自分の内容がぶちこわされてしまつたなどと思つていたのは、甘ちやんのアプレゲールのセンチメンタリズムに過ぎない。戰爭は、結局は、なんにも變えはしない。戰爭は、結局は、人間を變えてしまつたりは出來ない。ただ物ごとの進行を大げさにして、速度を早くするだけだ。變えはしない。大體、戰爭のために、ぶちこわしてしまつたり、變つてしまつたりするようなものが、俺の中に確立されていただろうか? そんなものは、はじめから俺の中に無かつたのだ。無かつたものを、ぶちこわしたり、變える事が出來るものでは無い。それを、自分は戰爭からぶちこわされたなどと思つていた所に俺の虫の良い、甘ちやんの感傷が有つた。戰爭は、ただ、俺たちの十年分の生活を一年間にスピードアップして見せてくれただけだ。そのスピードの中で、俺など目をまわしただけだ。そして、それに何か深刻な意味があるように思つていただけだ。そうなんだ。實は、ホントにそこに在つたのは、ただ弱虫の青年に共通な人生煩悶みたいなもの――藤村ミサオ流のものとチットも變らない甘つちよろい感傷があつただけなんだ。ニヒリズムなんて、ドエライものじや無かつたのだ。
むしろ、戰爭というもののスピードアップの生活の中で、俺たちは俺たちの青春時代を生きたのだ。それは、「生」だつたのだ。俺たちの淺薄な目は、そこに「死」だけしか見なかつたが、しかし、平和な生活にだつて死は常に自分のソバに在る。ただちがつているのは疊の上で死ぬか、ザンゴウの中で死ぬかと言う事だけだ。死は同じだ。だから生も同じだ。疊の上で生きるかザンゴウの中で生きるかの違いだけだ。そして俺たちはザンゴウの中で生きただけである。俺たち青年はそこでしか生きられなかつた。ほかで生きることは許されなかつた。いずれにせよ、そこが俺たちの唯一の生きる場所だつた。悲しかろうと苦しかろうと、戰爭は、實は俺にとつて、青春の「生」そのものだつた。してみれば、それは俺の生活の中絶なんかでは無かつた。貴島勉という人間の少年時代からの生活の續きであり、それから現在こうしている貴島勉へ續いている生活の一部分だつたのだ。戰爭中の生活が自我の歴史の上の中絶だと思つたり、虚無であると思つたりするのは、弱虫の言いわけに過ぎない。「戰爭に驅り出されたために、自分の人間性はメチャメチャに叩きこわされたのだ。戰爭が俺をこんなふうにしてしまつたのだ」などと言つて、ゴロツキになつたり強盜になつたりモルヒネ患者になつたりしている自分たちは、責任を他へおつつけようとする虫の良い卑劣漢に過ぎない。戰爭中に、權力から強制されてした事であろうと何であろうと、俺たちは自分のした事としてハッキリ認むべきである。……その事が、今ごろになつて、わかるなんて!
お父さん。どうか僕をゆるしてください。お父さんは、責任をとつて自決されました。もしかすると、僕のぶんの責任まで背負つてくださつたのではないのかと思います。それが今僕にわかりました。そうです、お父さんを殺したのは、半分は、この僕です。僕がお父さんを殺したのです。實に僕は今まで人間として出來そこないの、恥知らずの大馬鹿でした。
その事がヤットわかりました。遲過ぎたとも思いますが、でもやつと、わかつたのです。お父さんのおかげです。これから、少しは眞人間の方へ近づく事が出來るかも知れません。お父さん! 僕はこれから、ホンの少しでも、お父さんの子として恥かしくないような人間になつて行くように一所懸命にやつて見ようと思います。
僕がこうしてあの女を搜し出そうと、あちらこちらをウロウロしているのは、實はただ、なんとなく、あの女にもう一度逢つて見たい、逢つて見れば、なにか、今迄のいろんな自分の問題や氣分が、腑に落ちて來て、おさまりが附くような氣がする。それに、正直言つて、もう一度ハッキリと意識してあの女と寢て見て、それが全體どんことなのか知りたい――つまり性慾みたいなものも有ります。ウソは言いません。しかし同時に、あんな、出征前夜のドサクサの中に、あんな事をした相手に對して、とるべき責任があれば、なんとかして責任をとりたい。――そう言う氣持も少しばかりですが無い事は無いのです。
いえ、初めの間は、主として前の氣持の方で搜しはじめました。しかし實際に一人二人三人と次ぎ次ぎにいろんな女たちに會つているうちに、人間というもの、女というもの、人間の生活と言うようなものが、僕に今までよりも少しわかつて來ました。そして、いつの間にか、後の氣持――責任がとれれば取りたいという氣持が生れて來たのです。いや、もしかすると、こんな當てのない搜しものをしている自分の行爲そのものが、既に何かのツグナイになるかも知れないと言う氣もします。
お父さん! どうか僕を守つて下さい。
…………
33[#「33」は縦中横]
それにしても、なんと言うオカシナ事を僕は始めたものであろう。
あの時の女を搜し出せる可能性はほとんど無いという事は、最初から僕自身が覺悟しながら始めたのだから、それはそれでよい。しかし、Mさんの知り合いだつた女の人たちのリストなど、なんの手がりになるだろうか? ことに、このリストは三好さんに作つてもらつたものだ。だから、ここに書いてある人たちの大部分は、Mさんと三好さんの共通の知り合いの人たちだろう。いかにMさんという人が普通人とはちがつていたとしても、そのような、言わば公式な知人の中から、僕の相手を選み出す道理は無い。案の條、リストを追つて一人二人三人と搜し出し訪ねて行つて見ているうちに、その事が鼻の先に突きつけられるようにハッキリして來た。この事は、すこし考えれば、はじめからわかつていた事なのだ。だのに、ツイもしやと言う希望を持つた。もつとも、僕には、あの女を搜して行く手がかりや據りどころは、これ以外に全く無かつた。今でも無い。すると、探索を打ち切つてしまうか? いや、そんな氣は起きない。現在の僕には、これ以外に、したいと思う事は無い。それに、こうして歩くことが、あの女を搜し出すという目的のためには遂には無駄であつても、何かしら自分のためになるのではないかという氣がして來ている。現に、まだ僅か二三人會つたばかりでも、僕の目は多少今までとはちがつた方向へ開いて來たような氣がする。それに、九十九パァセントは徒勞であるかも知れないにしても、殘り一パァセントだけの微かな希望は抱いておれる。もしかすると、萬々が一――そう思つていられるのだ。僕は、探索をやめない。…………だとすると、やつぱり、差し當りはこのリストを頼りにして歩いて見るほかに手段は無い。………又又、ドウドウめぐりだ。しかたが無い、俺という人間はそういう人間なのだ。
ところで、それにしても、こうして搜し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、萬々が一、あの夜の女に行き逢つたとする。その時、どうしてそれがあの時の女だつた事がわかるんだ? 顏はおぼえていない。聲もほとんど聞いていない。體臭だけは憶えているような氣がするが、しかしハッキリとした自信は無い。もう一度あの匂いをかげば、かなり正確に思い出せるような氣はするが――假りにそうであつたとしても、一人一人訪ねて行つた女の人の匂いを、そばへ寄つてかいで※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]れるものでは無い。その事が、既にこれまで一人二人三人と歴訪して見て、だんだんわかつて來た。それに男とちがつて女の人は、化粧品を使う。化粧品には似た匂いが多い。その中から、その女特有の體臭をかぎわけるのは、かんたんには行かない。特に、ただ一度か二度訪問して行つて會つただけでは、そんな事はほとんど望めない。
では、どうすればよいか? どうにもしようは無い。不可能に近いことを知りながら、これをつづけて行く以外に無いのだ。搜し出せるか出せないか、それとわかるかわからないか……一切合切が出たとこ勝負の運まかせだ。なんと言う阿呆だろう僕は。それを知りながら、それをやつて行くのだ僕は。
………………
三好さん――
僕が一番最初に會つたのは立川景子さんです。
あなたの書いてくださつたリストの三番目の人です。
一番目の人は所書きがありましたが(大森)、そこへ行つて見ましたら、その番地の附近一面が燒野原になつていて、そこらの人にたずねても交番で聞いても、以前の住人のことなど、まるきりわかりませんでした。二番目は名前だけで所書きはありません。で三番目の立川さんを訪ねて澁谷へ行きましたが、これも燒け跡で、たずねようがありません。しかし、これには(Tー女優)とありましたので、T會社に行きました。そこの人事課の人にたずねましたが、そんな人は會社
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