僕の氣持は、がまん出來ないほど強くなつて來たのです。僕は思い切つてあなたを訪ねて行きました。
 それが僕の第一囘の訪問でした。
 そして、僕がその事を言い出さない内に、ルリさんが來て、僕は遂に言い出せなくなりました。しかし、もしルリさんがあの場合來なくても、僕はあの時はそれを言い出せなかつたのかも知れません。と言うのは、僕はあなたを好きになつてしまつたのです。僕はただMさんの事を聞きに行つただけなのに、何と言つてよいか、あなたとMさんとが、どこかしら似ている――いえ、顏や姿で無く、性質と言うか本質と言うか、それも全部ではないけど、一部分がひどく似ている――そんな氣が僕はしました。又、僕がMさんを好いているように、あなたもMさんを未だ好いていられることが、僕に感じられるためかもわかりません。それ以外にもあなたが、われわれ戰爭のためにメチャメチャになつてしまつた青年に對して抱いている氣持――それは愛情とか責任とか言うことよりも、もつと身近かな氣持――が、僕にわかつたのです。ですから、よしんばあの時ルリさんが現われなかつたとしても、そんな、自分の最初の女を搜しているなどと言うことは恥かしくて、あなたに言えなかつただろうと思います。
 とにかく、その晩はその事は言い出せず、ルリさんと連れ立つて歸ることになり、歸り途でルリさんとの間に變な事が起り、それ以來ルリさんから追いかけられ、憎まれ、その上にあなたまでも、つまらない事件の中に引つぱり込むような形になつてしまつて、最後には、とうとう、荻窪での、あんなイヤなゴロツキ同士の斬り合いまで見せてしまうことになりました。その事はホントにすまないと僕思つています。しかし、それは僕の力ではどうにもならなかつたのです。

 ところで、その女のことです。
 僕があなたからMさんが生前知り合つておられた女の人たちのリストをもらつたのも、そのためなのです。と言うのは、あの時の前後の事情や、あの家の樣子や、あの女の僕への接し方などから、あれが普通の商賣女――つまり、そういう事に馴れ切つている女では無かつたような氣がしたのです。その時は僕にはわかりませんでしたけれど、後になつて、いろんな女を相手に遊んだりするようになつて、それがわかつて來たのです。もちろん、そうかと言つて、全くのシロウト娘さんだとは思われません。シロウトの娘さんだとすれば、よつぽど變つた人だつたと思います。やつぱり、何か多少は水商賣がかつた、たとえばバアや飮み屋につとめている人とか、シバイや映畫などに關係のある人とか、その他、そう言つたふうの世界の女ではなかつたかと言う氣がするんです。すると、やつぱりMさんの生前の、その方面の知り合いを、片つぱしから搜して見て、何か手がかりをつかむ以外に無いと思つたわけです。
 そして、今、僕の前に、あなたから書いてもらつた、そのリストがあります。女の人の名前が十五人書いてあります。先日から、暇にまかせて、僕はこれを何度も何度も眺めて研究――と言うと大ゲサですけれど、いろいろに考えています。
 この十五人の中に、あの人が居るだろうか? 多分、この中には、その當人は居ないだろう。居ると思うのはあまり虫が良すぎる。だから、この中から、次ぎに僕がその人を搜して行くためのツテなりキッカケなり、ほんのチョットしたヒントのようなものでも掴むことが出來れば、もうそれだけでよいのだ。しかし、もし萬一、この中の一人が、あの女だつたら? いや、そうでは無く、この人たちの誰かから何かのヒントを得て尚も搜しまわつた上で、あの女に逢えたとしたら?
 いやいや、そうであつても、僕はあの女の顏をハッキリおぼえていないのだ。いよいよ逢つて見ればもしかすると思い出せるかも知れないけれど、しかし、おぼつかない。すると、たしかにあの人であつたと言う事を、どうして判斷すればよいのだ?――そう思つて來ると、僕はなさけ無くなり、頭がポーッとしてしまうのです。泣きたくなります。あまりにあまりにミジメな自分にです。俺は何と言うなさけ無い、幽靈みたいな人間になつてしまつたのだろう? こんな、人を數人も斬つた事のある大の男が、こんなオカシな、夢のような、ミジメな搜し物をするというのは! 實際、泣きたくなるんですよ。
 えい、こんな事、よしてしまえ! とも思います。そしてひと思いに死んでしまおうかと思います。しかし、それが出來ません。かくべつ生きていたい慾望も理由も無いのに、ただなんとなく、死ぬこともできません。そうすると俺は、この先き、何をして行けばいいのだ? なんにも有りません。したい事は何一つ無いのです。みんなみんな、はじめからわかり切つているような、白つちやけて見えるだけです。愚劣なんです、すべてが。
 ただ、あの女にもう一度逢つて見ようと思うだけが、今僕の僅かな生甲斐のように感じられます。それなら、それが如何にコッケイなミジメな夢みたいな事であつても、それをしてみるほかに無いと思います。
 そしてヒョイと氣が附いたのは――いえ、これは現在のことではありません、僕が黒田組に働きながら、そこの生活がつまらなくなり、あの女に逢つて見たらと思い附いて、半ば無意織のうちにその事をあれやこれやと考えていた時分のことです――あの女の匂いの事です。女の身體の匂い――體臭と言いますか、肌の匂いと言いますか、それを僕は憶えているのです。いえ、匂いなんですから、結局は記憶とは言えないかも知れません。ただ、憶えているような氣がするのです。つまり、あの匂いに今度ぶつつかつたら、キット、ああこの人だという事がわかりそうな氣が僕には、するのです。人に言うと笑われるかもしれませんが、その點では僕には確信みたいなものが有るのです。
 小さい時から僕は嗅覺がおそろしく鋭敏なのです。それは實際コッケイな位で、一度かいだ匂いは、めつたな事では忘れません。その時にはハッキリ意識しないでも、それと同じ匂いをかぐと、たちまち思い出します。ことに、ふだんかぎ馴れた匂いと違つた匂いだと、忘れようと思つても忘れません。その點、僕の感覺――いやもつと體質と言つたようなもの――には多少異状なものがあるような氣がします。それは小さい時から往々にして、僕を不幸にしました。と言うのは匂いに對してむやみと敏感で氣になるものですから、食べ物や人間や場所、その他どんな物にもどんな所にも匂いの無いものは無いため、それにつれて好き嫌いが實に極端にひどいのです。僕が幸福になるためには、僕の好きな匂いのそばに僕は居なければならないし、又逆に、僕の好きな物や人は、いつの間にか、その匂いを僕は好きになつています。しかし、そんな場合は割にすくなくて、世の中には僕の嫌いなイヤな匂いの方が多いものですから、僕は不幸な事が多いのです。
 僕が軍隊というものを嫌いになり、そして軍人の子に生れ、軍人の子として育てられながら、軍人になるのを本能的に嫌つて父親を悲しませるようになつたのも、最初のキッカケは實は匂いのためなんです。極く小さい時に、乳母に手を引かれて、父の勤めていた兵營の軍旗祭か何かを見物に連れて行かれた時、その兵營の廣場で向うからやつて來た兵隊の行列とすれちがつた時に、汗の匂いと皮の匂いと、それからそのほかの匂いの入れまじつた、實に何とも言えない腐つた動物のようなイヤな匂いがムーッと僕の鼻に來て、僕は吐きました。自分では、それとは知らず、以來兵隊というものがシンから嫌いになつたらしいのです。これはホンの一例で、僕の子供の時からの生活には匂いと言うものが非常に大きな要素になつて附いて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つているのです。
 たとえば、好きな匂いの例ですと、僕は、顏を知らない、死んだ母の匂いを憶えているような氣がします。乳母の胸の匂いは今でもハッキリと思い出せるんです。父の匂いも憶えています。Mさんの匂いも知つています。あなたの匂いも、言い當てることができます。そして好きな人の顏を思い出すのが先きか匂いを思い出すのが先きか知りませんが、とにかく匂いを思い出すと、僕はスナオな氣持になり、純粹な愛情を感じ、その人がなつかしく、シンミリとなるのです。僕をこんなふうになし得るものは匂いだけなんです。實に變な事ですが、そうなんです。
 小さい時は、他の人もみんなそうだと思つていました。しかし段々に自分が特別に匂いに對して敏感なのだという事がわかつて來ました。そのために十六七歳頃、非常に悲觀したことがあります。自分は何か普通の人とは違つた、そのうちに發狂でもする人間ではないだろうかと思つたのです。その後、何かの本で、天才的な性格の中に、おそろしく嗅覺の鋭敏な型があると言う事を讀んで、すこし安心もしましたが、しかし自分が天才だなどとは、まさか思えないので、やつぱり苦しみました。
 とにかく、そうなのです。それで、まだ黒田組に居て、あの女の人ともう一度逢つて見たいとボンヤリと思いはじめた頃から、今言つた通り、あの女の匂いを自分では憶えているような氣がするものですから――しかも、それがどんな匂いだかハッキリとは思い出せないものですから――そこらに居る若い女の匂いが馬鹿に氣になるようになつていました。道ですれちがつただけでも、何か氣になる匂いが感じられると、いけない、いけないと思いながら、その女の後をつけて行つて見たくなるのです。
 僕がお宅でルリさんとぶつつかつたのは、そういう癖が益々ひどくなつて來ていた頃です。ルリさんの匂いが僕の鼻に來ると、僕はボーッとなつてしまつたのです。もちろん、あの女の匂いだなどとは思いませんでした。明らかに違つています。しかしルリさんは非常に特色のある強い匂いを持つているんです。若い女はオシロイや香油などの化粧料の匂いのために、似たような匂いの人がウンと居ますが、ルリさんはあまり化粧はしないと見えて、ハッキリとそれがかげるのです。スモモの花の匂いにいくらか似たようなフックリと重い匂いです。それが僕には、イヤで無い匂いでした。と言うよりも、僕には抵抗することのできない匂いでした。そのためです。ルリさんと連れ立つての歸り途で、ルリさんに對して變なことをしてしまつて、ルリさんから憎まれるような事になつてしまつたのは。
 しかし僕は、ルリさんに、なんにも惡い事はしていません。今こうしてルリさんを思い出していても、なつかしくこそあれ、ホントの意味でルリさんに對する僕自身のした事について、惡い後味は何一つ無いのです。ルリさんが今後幸福になられることを僕は心から祈つています。

 恥かしい事を、思ひ切つて洗いざらい書いてしまいました。すこしホッとしています。これから僕はあなたに對して、やましい氣持無しに手紙が書けます。今日はこれでやめます。
 今、外では雨が降りつづいています。靜かな山の温泉宿が雨に煙つてすべての物音を消しています。
 もう僕の腿のキズもほとんどうずきません。二三日中に僕は此處を出立します。その女を搜しに行くのです。ホントに、おかしな、人から見たらキチガイじみた事だろうと思います。それに搜し出せるか出せないかほとんど望みは有りそうにありません。しかし今の僕には、それをする以外に何もする事が無いのです。いつまで、そうして歩くか、たとえ遂に見つからなくても、僕はバカみたいに、あちこちするでしよう。あなたの書いて下さつたリストの十五人の女の中で六人が東京附近で、三人が地方で、あとの六人が住所不明になつています。住所の書いてあるのが九人、その中の六人が東京や東京附近で、三人が地方になつています。住所の書いてない六人はあなたも御存じないのだろうと思います。それらは、さしあたり搜す當てが無いのですが、しかし、住所のわかつている人たちも、戰爭中から戰後へかけてもとの所に居る人は少いと見なければならないでしよう。中には死んだ人もいるだろうと思います。搜すのは容易なことでは無いでしよう。
 しかし僕は先ずこの九人の人たちをハジから搜して見ます。

        32[#「32」は縦中横]

 馬鹿!
 
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