ているだけで、自分からはほとんど語らず、買つて來たハムを切つたりしている。
「惜しいなあ、雜誌屋さんが今夜居ないのは!」杉田が言つた。「共産黨かなんか知らねえが、あの佐々さんと言うのは、おもしれえ男だあ。いや、あたしなんざ、あの人からしよつちうやつつけられていますがね、それはしかたが無いさ。人間、ツラがちがつているように一人一人向き向きがありますからね。佐々さんは共産黨で、あたしは商賣人。仲良く出來ねえと言う法も無いですからね。ハハ。こんな晩にブタ箱なんかに、くらいこんでいる法は無いや。みんなこうしてそろつているつて言うのに。要領よくやつて、ヒョイと戻つて來ねえかなあ」
 言われるまでもなく、佐々兼武が居合わさないのは殘念であつた。彼が居れば、また議論であろうが、しかし酒宴は更に愉快なものになつていたろう。
 貴島も杉田も、横濱を引き上げて此處へ戻つて來た事情については、ほとんど語らなかつた。しかし、酒杯の間にチラリチラリと取りかわされる短い言葉から大體の樣子は察しられた。黒田組と國友の方の連中の關係が益々緊張して來て、横濱かいわいに貴島を隱して置くことが不可能になつたものらしい。そこに、貴島が急に荻窪に歸ると言い出した。とんでもない、横濱に居てもこれだけ危險なのに、荻窪などに歸る手は無いと反對されたが、貴島はきかなかつたようだ。黒田策太郎が「よかろう。案外に、國友の方じや、まさか荻窪に現われたりはすまいと思つているだろうから、二三日居て見るさ」と言つたという。それで、昨夜おそく横濱をのがれ出してここに來た。終始、貴島自身は、なんの危險も感じていないふうだつた。度胸がすわつているからと言うような事ではなく、危險を感じる氣持がマヒしてしまつているような所があつた。この壕を遠卷きにして國友の部下らしい者の數人がウロウロしているという事を、久保が話してない筈はないし、杉田の見張りも、そのためのものだろう。だのに、今日の晝も、杉田がチョットゆだんをしている隙に、貴島はフラリと壕を出て、そのへんを散歩して來たりしたようだ。「まつたく、じようだんじや無えや!」と杉田が言つた。
 しかし貴島はニコニコしながら、そんな事はほとんど耳に入れていない。そうして、何かしきりに私に話したそうにしている。先きの手紙の事から推すと、Mの事らしい。それで質問を待つようにしていたが、彼は言い出さなかつた。杉田や久保の前では話せないらしいのである。
 するうち、綿貫ルリの事を私が、言いだして見た。その後ルリは君んところに行つたかと聞くと、「いいえ」と言うから、これこれで、實は今日Nのスタジオに訪ねて行つたが不在。國友の部下に連れ出されたらしい言うと、急にギラリと例の眼色をした。
「……そうですか」しばらくしてから言つて、心配そうに考えこんでいる。私は國友と私との關係を手短かに話し、二三日前の會見のこと、ルリの事についても國友に一通り話して置いたから、彼の關する限り、ルリの身の上にそれほどまずい事は起きないと思つてよい事を言つた。貴島はいくらかホッとしたようであつた。
「なんです?……國友がどうしたんですと?」杉田がこちらを振向いた。
「いや、なんでもないよ」と私が言うと、杉田はチョッと變な顏をして貴島に眼をやつたが、やがてその貴島がウィスキイのびんを取り上げて酌をするのに「おつと!」と唇を持つて行つた。
 そんなふうにして、どれ位の時間が過ぎたろうか? 夜が更け、そのうち、全く出しぬけに、血なまぐさい鬪爭が始まるまで、壕の中は男ばかり四人と、酒とコーヒーとタバコの匂いと、なごやかに滿ちたりた空氣だけだつた。

 鬪爭と私は書いたが、それがどんな鬪爭であつたか、實は私にハッキリした事は言えない。暗かつたし、双方ともほとんど聲を立てなかつたし、第一、アッと言う間にはじまつて、そして何がどうなつたかがのみこめない内に、サッと終つてしまつていた。時間にしても、ホンの十分間たらずの間の事だつたろう。しかも私はその場に居合わしたとは言いながら、鬪爭は地上の燒跡で行われ、その間私は壕の中に居り外へ出て行つた時には、一切が終りかけていた所だつたのだ。
 今思い出して見ても、あの鬪爭が現實に行われたものかどうか、妙にうたがわしくなり、ホンの一瞬の幻影を見ただけのように思われる。とにかく、以下、私の見聞を、順序を追つて書いて見る。
 ハムかなにかをモグモグと食つていた久保が、フッと口を動かすのをやめ、何かに耳をすます眼つきをして
「誰か來たよ」
 ポツンと言つた。
 杉田も貴島も私も一度に默つてしまつた。急にあたりがシーンとなつて、燒跡の郊外の夜の靜けさが、身にしみるように感じられた。人聲も足音も聞えない。何を言つているのだろうと思つて私は久保の方を見た。杉田はスッと坐り直して、壕の天井を睨むようにして地上の氣配に耳をすましている。貴島だけが、ほかの事でも考えているのか、壁に倚りかかつてボンヤリとロウソクの灯を見守つていた。
「ウソだな。足音もしないじやないかね?」しばらくしてから杉田が低い聲で言つた。
「う、うん……五、六人だよ」久保が言つた。そのままシーンと靜まり返つて數秒が過ぎた。足音など私には聞えなかつた。
 そのうちに、壕からかなり離れた邊でピシリと枯枝でも踏みつけたような音が微かにした。それとほとんど同時に、杉田がスッと立つや、恐ろしい敏捷さで壕の入口の階段をパッと外に飛び出して行つた。あと又、ヒッソリとしてしまい、なんの物音もせず。しばらくして、杉田の聲で
「おいおい、何だか知らないが、まちがえてもらつちや困るよ。……誰だね、お前さんがたあ?」
 すこし離れた闇の中へ向つて言つているようだ。しかしその方からは何の答えもない。
「え? 誰だね? 何か言つたらいいじやないか」
 しばらく沈默がつづき、今度は全然聞いたことの無い男の聲が、離れた所から
「ちよつと伺いますが……貴島さん、居ますね?」
「キジマ? ……さあ、そんな人は知らんなあ」杉田が言つている。「なんか、まちがいじや、ありませんかねえ」
「おい杉田!……お前、黒田んところの一本杉だろう?」いきなりドス聲で杉田の名を言い、同時にドタドタと六七人の足音が入り亂れて近づいて來た。次の瞬間に、パッと壕の入口に飛びこんで來た杉田の顏の血相が變つている。貴島に向つて早口で一息に押し殺した聲で
「國友の奴等だ、六人ばかり居る。ここは俺が引き受けたから、兄きあ、すぐにズラかつてくれ!」と言うなり、ポケットの中からギラリと光るものを掴み出して、スッと外へ消えた。
 ギャァと、すぐに、男の叫び聲がして、あとは、ドタドタドシンと――壕の中にいると、まるで頭の上に、入り亂れる足音が、地響きを打つて聞える。
 貴島がスッと立ちあがつた。
「駄目だよ貴島、あがつて行つちや!」久保が言つた。それを見おろしてニヤリとして
「うん……」
「行くなよ、つまらん!」
 久保の聲を背に、ユックリと普通の歩度で貴島は階段をあがつて行つた。
 ドシンドシシと格鬪している音が續く。聲を立てる者は一人もいないのである。防空壕の天井の隅から、パラパラと砂が落ちて來る。……久保と私は互いに顏を見合せたまま坐つていた。久保のお盆のように丸い顏がボヤーッとしてロウソクの光を受けている。……頭上の眞暗な燒跡に、黒い野獸のように七八人の男たちが鬪つている。聲を立てないのは、そのような事に場馴れている者ばかりである證據だ。仲間同志の爭いに、他の者を卷き込んだり、それを第三者に知られたくないのである。それを私は知つている。それだけに又、そのような鬪爭がどのように凄慘なものであるかも知つている。行く所まで行かなければ、人の制止など絶對に聞くものでは無いのである。……私は床の下から突き上げられるような氣持をおさえつけ、おさえつけしながら坐つていた。
 ゲッ! と低く、吐くような聲が一つして、つづいて、ブスッと響く音――着物を通してピストルを發射した音である――がして、足音がドタドタと壕の眞上に迫つた。私も久保も思わず立ちあがり、壕の外に飛び出していた。トタンに、四五間先きから私たちの足元めがけて、サッと懷中電燈の光を投げた者がある。襲つて來た者の一人らしかつた。
 その光の輪の中に――壕の入口のすぐ前、私と久保から數歩の所にグタリとなつた貴島勉の片腕を掴んで肩にかけた杉田が、貴島もろともドサリと膝を突いたところだつた。壕の眞上に迫つたと思つた足音はこの二人のものだつたらしい。二人とも無言。一見して貴島の顏に血の氣無く、何か重傷を受けているらしいが、トッサの事で、どこにどんな傷を受けているのかわらない。杉田はあせつて起きあがろうとするが、自身もどこか傷ついているか、足掻きが利かないらしい。向うを見ると、闇の中に圓陣を作つて黒い影が五つ六つ立ちはだかり無言でこちらを見ている。
 久保が二三歩寄つて行き
「貴島、どうした、きさま?……」と言つた。
 貴島が土氣色の顏を上げて久保を見あげたが何も言わず、言う力が無いようだ。
「久保さん――」と低く言つたのは杉田だつた。
「兄きは、パチンコの玉を食つている。そいから、足をやられた。おい!」
 言つて、貴島の身體をゆすつた。貴島の上衣がめくれ、左の腿が現われたが、そこに、ズボンの上から、ほとんど直角に、中型の海軍ナイフが突きささつている。血はズボンの内がわに流れているのだろう、布にもナイフにも赤い色は見えないで、まるで壁にナイフを突き立てでもしたように、何か唐突な恰好に見えた。
 それを久保がジッと見おろしていた。それから、しやがんで、ナイフの柄に手をかけると、グッと拔いた。ベトリと血。懷中電燈の光の中で、それが黒――いや、濃い紫色に見えたのである。
「誰だよ、貴島をやつたのは?」
 久保が圓陣に向つて言いかけた。しばらく答えが無かつたが、やがて圓陣の一人が
「ふん!」と低く言つた。
 その方を、すかすようにして久保は立つていたが、フッとそれに向つて歩き出した。ナイフを逆手に持つている。急ぎはしなかつた。例のヒョコヒョコした歩きつきで、いつの間にはいていたのか、いつもの板裏ぞうりをペタペタ鳴らしながらである。電燈の光の逆光の中でズングリした姿がグラグラして大きく見えた。私はほとんど無感覺になつていて、ボンヤリ突つ立つたまま、それを見送つていたが、その時の久保の後姿を、私はいつまでも忘れないだろう。
「なんだ?……」と言う聲が圓陣の中からした。久保が自分たちの方へ近づいて來るのが、どんな意味だかわからないらしかつた。私にしてもそれがわかつていたとは言えない。直ぐに、その方で、ノコノコと一人の男のそばまで行つた久保が、右手をスッと横に拂うようにした。同時に、「アフン」と響く鼻聲が聞えた。グラグラと圓陣が搖れ動き、電燈の光がグルッと※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、自分たちの足元を照らした。
 そこに一人の男が倒れていた。白いシャツの胸の、まん中近く、海軍ナイフが突きささつて、見る見る血がシャツの上に擴がつて來る。すぐ前に久保が立つてそれを見おろしていた。たつた今人を刺した人の姿では無い。ポカンとしてただ見物しているように、全然、氣の無い姿だつた。何か妙な錯覺のようなものが私に來た。その次に、その冷然とした久保のうしろ姿に、ホントに恐ろしいものを見たような氣がした。それは、私だけでは無かつたらしい。襲つて來た四五人の男たちも一瞬氣を呑まれたらしく、十秒ばかりの間、身動きする者も無く、もちろん聲は立てず、シンとして手負いの男と久保を見守つて立つていた。あたり一面、しんの闇の燒跡の原に石のような靜けさが落ちて來た。
 しかし次ぎの瞬間に久保一人を取りかこんで、どんな光景が展開するかが、電氣のように私の頭にきらめいた。私は、本能的に前に進み久保に近づいて行つた。
 その時、妙な事が起きた。
 ダダダと坂道を驅けおりて、一人の男が、襲つて來た男たちの背後へ近づき、低い早口で何か言つた。「フケろ!」と言う言葉だけが聞きと
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