の表情はまるで笑つていない、いつものポカンとした冷靜な顏である。しばらく高笑いをひびかしたあとで、その笑い聲とは調子の全く續かない寢ぼけ聲で言つた。「………全くだ。どうしてそんな事をするんでしようね?」
「…………貴島君は、いつまであんな生活を續けている氣なんだろう? 今後どうする氣なんだろうかね?」
「さあ、わかりませんねえ。早くそんな世界からぬけ出せと言つてもぬけ出せないそうです。そいじや、逃げ出してどつか行つちまつたらどうだと僕はすすめた事があるんですがね、どうする氣だかサッパリわからない。やつぱりユウレイだ。フン!」

 話しているうちに驛の裏のマーケットの灯の中に出ていた。星もない夜空の下に、そこだけガヤガヤと狂氣じみた人々の聲と、食物と酒の匂い。盛り場の裏や驛の近くにどこにでも在る、賑やかであればあるほどわびしい風景。
 久保は八百屋や佃煮屋で二三の物を買い、最後に肉屋に寄つてからマーケットの角で待つていた私の所へ戻つて來た。その時私のそばをフラリとすり拔けて行つた女がある。それが久保に向つて
「あらあ、久保さん!」
 久保はユックリとその女を見てヤアと言つた。
「どうしたの今頃? 買物?」
「染子さんこそ、どうしたんだよ?」
「どうもしないわよ、振られたんだわよ。そうよ、振られちやつた。そうじやあなくつて? 貴島さんから振られたんじやありませんか。アッハッハ、だからこうしてフラフラしてんの。アハハ。いえさ、これからホールへ商賣に行くのよ。そんな變な顏をするのよしなさい」
 女は喋りながら身體をユラユラさせている。醉つている。この前の和服と違つて、今夜は緑色のイヴニングを着ているので、最初チョット思い出せなかつたが、その撫で肩から腰のくびれに特徴のある、軟體動物のように柔かな後姿で、間もなく思い出した。いつか防空壕で會つたダンサーの染子である。
「貴島さん、その後元氣?」
「うん……」
「今夜家に居るの?」
「居ないよ」
「ホント? かくさなくつてもいいわよ。あの人が居たつて私もう行きはしないから。だつて、あたし振られたんだからなあ。ホントは行つて會いたいんだけど、こんなダンサーにだつて女性の誇りはあるのよ。誰がクソ、あんなインポテントの色魔のとこなんぞへ行つてやるもんか。フフフフ。居るんでしよ?」
「ホントに居ない。この間からズーッと歸つて來ない」
「そいじやあ、まだ横濱?」
「う?……どうして君それを――?」
「知つているのよ。國友という組の子分の人が、こないだからホールへやつて來ちやあ、貴島さんの事をしつこく聞くもの。どうしたの一體、貴島さん? 何か追いかけられているんじやない? 用心した方がいいわ。そう言つといてよ。振られるには振られたけど、こいでやつぱし私はまだあの人を好きなんだわねえ。アアアア」染子は大げさに泣く眞似をして見せてから「……しかし、だから、いつそあんな奴は半殺しの目にあえばいいと思うのよ。だつてそうじやありませんか? 貴島は色魔よ。あんまりひどい! 人をさんざん引き寄せて、ひつぱり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しといて、勝手にいじくり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した末にうんだともつぶれたともハッキリしないで、うつちやつちまうんだもの。私にしてみれば、どう考えていいのかわからないじやあないの! いくらダンサーだつて、あんた、ただのお客と踊る時と、戀した男と踊る時は、違うのよ。同じステップを踏むんだつて、身體の持つてき方が違うのよ。腰を入れる。わかる? 腰を入れるのよ。ウフフ、立つて踊つているようだけど、その時には、男に抱かれて寢ているのと全く同じなんだわ。わかる、久保さん? 私の言うのはそれさ。それまで私をなにしときながら、そこから先のかんじんの事となるとケロリと知らん顏しているんだもん! ザンコクじやないか! え、ザンコクじやないの、久保さん! 貴島という人はそんな人なのよ。だからインポテントの色魔! それが私だけじやないのよ。私の知つているだけでも、貴島さんに同じような目にあつている女が五人も六人も居るんだ。一體全體――いいえ、こんだけの女の恨みが、ただですむと思つて? 今に見て御覽なさい、あの人の身の上にロクな事はないから。見ていろ畜生!」
「何だか俺にやあよくわからないよ。貴島にそう言つとく」
 久保は、兩手をフラフラさせて、まつわりついて來そうにする染子のそばを離れて、私の方へやつて來た。女はそれをしばらく見送つていたが、急にゲタゲタと笑い出し、片手を高くこちらへ向つて上げた。
「バイバイ。あばよ!」
 フン、と言つたなり久保はふりかえりもしないでスタスタと歩き出していた。
 そのうしろ姿を見ながら、私はそのまま歸つてしまおうかと考えた。いつしよに防空壕に行つても、貴島も佐々も居ないとあつては、無駄だ。……そう思いながら、しかし私は自分でも知らぬ間に、久保のうしろから歩いていた。默々として歩いて行く彼の姿の中に、變に人を引きつける催眠術みたいなものがある。そのくせ、彼は私の方を振り返りもしない。防空壕の所に歸りつくまで一言も言わなかつた。何か考えているようでもあるが、それが何の事であるか見當がつかない。
 防空壕のある燒跡にくだつて行く坂道のへんから、あたりの暗さが急に濃くなつて、まるで墨の壺の中に入つて行くような氣がした。マーケット邊の灯の光に馴れた目が、特にそう感じることもあるかも知れないが、それを拔きにしても、その晩の闇は特に濃かつたようだ。
 石垣の所まで來ると、先ほどの男が又出て來て「やあ、お歸んなさい」と久保に笑いかけてから私に向つて
「さつきはすみませんでした。あたしは、黒田んとこの杉田と言いまして……杉田の杉で、一本杉と言われていますけどね、ズーッとこの、貴島の兄きに附いております」
 挨拶のしようも無いので、ただうなずいていると、久保を振りかえつて
「今、そこいらで、變な奴に逢わなかつたかね?」
「うん? いや逢わない。どんな――?」
「いや、國友の方じや無い。私服の刑事かなんかだ。このへんを二三囘ウロウロして見てまわつていたようだつたが、今、そこの角を曲つて行つてしまつた」
「ふうん…………」
「……毎晩ここいらにやつて來る國友の奴等のことを、ドロボウか何かだと思つて、誰か此處いらに住んでいる人間が、サツにそう言つて行きでもしたんじやないかね? 心當りはないかね?」
「無い」
「そうか……」杉田はチョッと考えていたが
「まあいいや。どつちせ、大した事は無かろう。何か食う物、買つて來てくれたかね? なんせ、三四時間立ちどおしで、腹ペコペコだ。おどろいたよ!」
「買つて來た。食おう」
 久保は防空壕の方へおりて行く。私と杉田もそれに續いた。壕の中からはボンヤリしたロウソクの光が差していた。私たち三人が狹い入口をおりて行くと、その光にユラリと影を動かして、寢そべつていた男が一人、起きあがつた。
 貴島勉であつた。
 そこに貴島が居ようとは思つていなかつた。それなら、そうと言つてくれればよいのにと、あらためて久保を見ても、久保は何事も無かつたような顏をして、買つて來た食料品の始末をはじめている。氣がついてみると、なるほど「貴島が居ない」と久保が言つたのは染子に對してであつて、私に答えたのではなかつた。……ヤレヤレと思いながら私は貴島の顏を見た。
 貴島も私を見てびつくりしている。入つて來たのは久保と杉田の二人だけと思つていたらしい。
「ああ、三好さん…………」と低く言つて助けを乞うような眼色で、チラッと久保の表情を探るようにした。イタズラをして逃げかくれていた子供が、母親に見つけ出された瞬間のような、眞劍におびえた樣子があつた。それには私のがわに原因が有つたのかもわからないとも思う。貴島の姿を發見した瞬間、私は壕の中に立ちはだかつて、彼を睨みつけていたかも知れないのである。不良少年を弟に持つた兄の怒りに似た複雜な氣持を味わつていた事は事實だ。……私よりも上背のあるガッシリとした貴島の姿が、私の前で急に小さくなつてしまつて、オドオドと私を見あげた。しばらく會わない間に、目立つほどに痩せ、かねて青白い顏が、更に紙のように血の氣を失つていた。
「……すみません。御心配かけて――」
 そう言つて頭をさげた。襟足が女のように細くなつている。見ているうちに、どう言う加減か私は不意に涙が出そうになつて來た。それから、急にムラムラッと腹が立つて來た。貴島にも自分にも腹が立つて來た。同時にそれは、貴島に對するものでも自分に對するものでも無かつた。ギラギラするようにはげしい憤怒であつた。……
 そうしていながら、私は白状するが、その瞬間に、そして、その瞬間から、貴島勉を愛した。愛したなどという言葉は、おかしな言葉だ。私などがウッカリ使うと、そのトタンに薄つぺらになつてしまう言葉である。しかし、ほかに適當な言葉が無い。愛した。

        25[#「25」は縦中横]

 間もなく、貴島はオドオドした調子から囘復して、私が訪ねて來たことをシンからうれしそうにしはじめた。
 蒼白な顏に薄く血の色をさし、はずかしそうにニコニコ笑いながら、コーヒーを入れてくれたりした。
 その横から杉田が、めんくらつて見ている。ふだんの貴島から、あんまり變つてしまつたので、ビックリしているらしい。それに「兄き」の貴島が急にイソイソして、まるで女になつてしまつたように歡待している、この三好という男は一體こりや何だろうという氣持が動いている。彼は、私に對して段々敬意のようなものを拂いはじめた。そこに、何か滑稽な、そして、生え拔きの博徒などの中に間々ある子供らしい眞正直さの調子があつた。
 四人の氣分が、だんだんほぐれ、三十分後には、なごやかな夜食の光景になつていた。
 杉田は、親分の黒田の命令で貴島の護衞に當りながら――貴島の身のまわり一切を世話することになつているらしい。相當の金を託されているのであろう。タバコやコーヒーやウィスキイなどの上等なやつがそろつている。そのウィスキイの口を開け、
「まあまあ、先生、一杯!」と言つて、杉田がキチンとかしこまつて坐つて、私に第一番目にコップを握らせた。先程久保が「貴島の先生に當る人だ」と言つたのをおぼえていたらしい。私はふき出しそうになつたが、相手が大まじめなので、笑つて氣の毒なような氣がしてだまつてコップを受けた。それを貴島がチラリと私の眼の中をのぞき込んで、クスリとする。嬉しそうだつた。自身が感じている幸福のあまり、ほとんど人に媚びるような眼の色であつた。
 貴島も飮み、久保も飮まされ、杉田も自分でグイグイやる。
「さつきは、ホントにびつくりしました。あなたが、來てくださろうとは思つていなかつたもんですから、しかし、よく來て下さいました」貴島はすこし醉いがまわり、舌がほぐれて來たようだつた。それを杉田が引き取つて、
「いや、しかし、あたしや、そんな事知らねえもんだから、こいつはと思つてね、さつきは。ヘヘ、すつかり暗くならない内でよかつた。暗くなつてたら、危なかつた。いえさ、あたしの方がさ。だつてテッキリ國友の方の相當の顏だと思いましたあね。そうですぜ、先生! じようだんじや無い。大した氣組みだつたからなあ。君は何だと言われた時にはギックリしたです。ハッハ、まつたくでさあ。いや、そいでも、先生、こんな男ですけど、なんですよ、あたしが附いているからには、貴島の兄きには指一本、絶對にふれさせませんからね。安心なすつて下さい」
 これも嬉しそうだつた。善良な氣質の男らしい。しかも、その道の人間としても相當ねれていて、そんな事を言わしてもキザな所が無い。戰後のグレン隊あがりなどにある薄つぺらさが無い。下司だが、下司なりに、ゴリリとして手ごわい所があるのである。私は、惡い氣持で無く、それに貴島をたずね當てた安心のようなものもあつて、快く醉つた。
 飮んでも、ふだんとまるで變らないのは久保だけだつた。顏を薄赤くして、眼を細くしてニコニコし
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