? ウチじや、あのありさまで、私を食べさせて勉強させてくれるような力は無いの。だから私が芝居の勉強をつづけて行くためには、今の劇團に居るよりほかに、方法は無いんです」
「……困つたねえ。……まあ、なんとか、そこで、つまり要領よく、つまりガマンしてやつて行くんだなあ」
「どうガマンのしようが有るんですの?」
「どうつて、具體的には言えんが……だから、君が最初映畫か芝居の方へ入りたいと言つて來た時、僕は口をすつぱくして、とめたね? いや、今の世の中が、大體において、どこもかしこも似たようなものだ。ガマンする以外に無い。ハッキリしようとすると、全部を肯定するか全部を否定する以外にないもの。全部を否定すると言うのは、自分の良心みたいなものを押し立て、それ以外のものに反抗することだ。誰にしたつて、これを一番やりたい。だけどこれはよつぽど強い人でなければ出來ない。なまじつか、中途半端に良心的になつたりすると、踏んだり蹴つたりされた上に、落伍してしまう。それ位なら、全部をあるがままに肯定して、つまり、言つて見れば闇屋かパンパン――まあ、そう言つたふうになつてもしかたが無いから、とにかく生き拔いて行つてみる事じやないかな。そういう考え方も在ると思うんだ。いやいや、そうしろと言つているんじや無い。二つのうち、どつちか一つしか無いことを言つているんだ。その中途であれやこれやと、マゴマゴしていると、かえつて自分というものがメチャメチャになる――」
「すると先生は、私に、つまりパンパンになれとおつしやるんですの?」
「いや、そんな――」
「そうなんです! だつて、私にどうしようが有るんです? 今夜、たつた今、これから小屋にもどれば、もしかすると、……いえ、そういう事になつてきていることが有るの。Kという人がとてもシツコく、あたしになにするの。イヤ! あたしはそんなの! だけど――だけど、だからさ、どうすればいいんですの私? 先生みたいなそんな話は、机の上だけの話だわ! 私たちは、今すぐジカに、私たちのカラダをどうするか、どう處置するか、鼻の先に突きつけられているんです。それが、私たちなのよ。明日の日は待てないのよ!」
 顏をクシャクシャとさせたかと思うと、それがベソになつて、ヒーと泣き出していた。
 私は、默つてしまつた。ルリは二聲ばかりで直ぐに泣きやんだ。その沈默の中で、貴島がボサッとした聲で
「だから……そうなんですよ。さつき、自由が僕らに與えられたのはウソだつて僕が言つたのは、その事なんですよ」
「あら、どうして? それとこれとは、違うわよ」
「……同じだなあ」
「だつて、そんな事言つて、あなた、貴島さん、じや、何をあなた知つてるの? いえ、あなた、どんなもの突きつけられてんの?」
 言われて貴島はケゲンそうな目をしてルリを見ていたが、しまいに、
「そうだなあ、知らんですねえ、なんにも」あと、ニコニコ笑つた。釣られてルリもその子供らしい言い方にまだ涙の溜つている目のまま、笑い出した。何かが内側から開いて來るような笑い顏であつた。
「つらいわあホントに、あたしたち!」しかし、つらそうでは無く、既に快樂のことを語るように、
「だけど、どう言うんでしよう男の人なんて? こんな事を言うの。そんなに大げさに考えるなよ、ルリちやん、たかがタッチに過ぎないじやないか。人と人とが握手するだろ、手と手がタッチするのさ、皮膚と皮膚が。そいから、ホッペタとホッペタ。そいから、唇と唇。キッスだあ。そいから、……すりやあ、惡い氣持はしない。するてえと、どこからどこまでが善くつて、どこからどこまでが惡いんだい? 手と手なら善くつて、足と足じや惡いのか? 人間なんてそんなもんさ。タッチだよ一切が。あんまりシンコクになるな。氣がちがうぞ。エッヘヘ。……そう言うの。そうかしら、先生」
 そして、私がまだなんとも言わない内に、ケラケラ笑いながら、貴島の方に横眼をくれて、まだ濡れているように見える片眼で音のするようなウィンクをした。
 間も無く、しかし、腕時計をのぞいたルリが、「あらもう十時半だわ」と急にあわて出し、するとこの女のいつもの例で、もう立つてペコンと頭を下げると、玄關の方へ歩き出していた。自然に貴島も座を立つて續き、二人並んで、靴を穿いた。「そいで、綿貫君は――?」「だから要領よくやります。フフ!」「いえさ、今夜も、すると、これから小屋へ行くの?」「いえ一度うちへ歸るんです。どうせ、今夜のお稽古はスッポかしてもいいの、明日の朝早く行きや――」「そうか。しかし、こうおそいのに君一人じや高圓寺の奧までは物騷だが――」
 貴島の住所を聞くと荻窪だと言う。「じや、御足勞だけど、君、綿貫君を家まで送つて行つてあげたら?」
「はあ。……」
「そう? すみません」ルリはうれしそうにニタリと笑つている。
 そして二人連れ立つて歸つて行つた。したがつて、貴島勉がなんのために私を訪ねてきたのか、遂に不得要領に終つてしまつたのである。私は、ひどく疲れていて、すぐに寢てしまつた。
 ルリの姉の夫だと名乘る小松敏喬が私を訪ねて來て、ルリの失踪のことをしらせてくれたのは、その次ぎの次ぎの日だつた。

        5

「芙佐子がいつもお世話になりまして」と黒い背廣をキチンと着て、どこかの官廳にでもつとめているらしい四十恰好の小松敏喬は謹嚴な初對面の挨拶をすますと、すぐ言いはじめた。「――實は芙佐子が昨日から……いや正確に申しますと一昨夜からどこへ行つたか知れませんので、内の者が非常に心配しておるものですから、突然お伺いしてなん[#「なん」に傍点]ですがこちらのお話しをよくしているのを姉……つまり私の家内でございますが、おぼえていまして、はあ。いえ、かねてたいへんわがままな子でして、それにあんなシバイなどにつとめていまして、一晩や二晩もどつて來ないことは珍らしい事ではありません。しかし今度は、いつもとは、すこしちがつているように思われますものですから。家内が言いますには、一昨晩、十二時過ぎに芙佐子は戻つて來たそうでありますが、その時の樣子が、すこし變だつたそうで、はあ。洋服を着ないで、シュミーズもこの上半身は脱いでしまつて………つまり、裸だつたような氣がすると言いますがね。はあ。家内はもうその時は寢ていましたそうで――いえ私は、別の所に住んおりますから、あの家には居りません――それが物音で目をさまして「芙佐ちやん?」と言いますと「うん」と返事をした芙佐子がですな。どうせ寢ぼけまなこで、それに御存じのように、あのへん、まだ電燈がつかないものですから、外からの薄明りの中で見たのですから、ハッキリしたなに[#「なに」に傍点]では無いと思いますが、たしかに、この、……そう言うのです。かねて、この、暑い時など、家に入る前から着ている物のホックなどはずしてしまつて、下着一枚になつて飛び込んで來たりする子でして、どうもこの……ですから、それだけならまあなんですが、朝になつてみますと、いつ出て行つたか居なくなつていたそうで。それに書置きがありまして、家内の着物――と言いましてもモンペの防空服ですけど、それを着て行つたものと見えて、なくなつております。それにですね、家から一町ばかり離れた燒跡の草の中に、芙佐子の着ていたピンク色のワンピースがズタズタに破られて、捨ててあるのを家内が見つけました。どうも、なにか、この暴行された……まあ、なんです、まさかとは思いますが、とにかく、捨てては置けないと思いまして、さつそく昨日、R劇團の方へ參つて見ましたが、ルリさんは昨日の午後――つまり一昨日ですね、頭が痛いから今夜は休ませてくれと言つて歸つたきり、ズット見えないから、こちらでも實は困つている。そう言うのです。實は今日もあちらへ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてみましたが、やつぱり來ておりません。そんなわけで、とにかく、お宅へ伺えば何かわかりはしないかと思いまして、失禮ですがお伺いしたようなわけでございまして――」
 相手がジレジレするほど※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りくどい言い方で言つている間に、私の目には一昨夜のルリの姿が現われて來、そのピンクのクレープデシンが、引き裂かれて、燒跡の草の上にダラリとひろがつている光景が見えて來た。
「そうですか。……それで、その書置きと言うのは?」
「はあ。それがどうも、意味がよくわかりませんので。……これです」
 ポケットから出したのは、ノートから引きちぎつたような紙で、それに、舞臺の人間がよく使うコンテ式のマユズミのなぐり書きで、
「姉上さま。あたしは、キジマという人からブジョクを受けました。もう知つた人に顏を見せられません。フクシュウをしないでは、もう生きてゆけません。あたしを、さがさないで下さい」と三行に書いてあつた。

        6

「ブジョクを受けました」
 その侮辱と言うのは、どういうことなのだろう? 「暴行」と取つていいのだろうか? だが、そうならば、なぜそう書かなかつたのだろう? 若い女の羞恥心のためか、又は、氣位いが高いために、自分が受けた淺ましい目を、むきつけに書けなかつたためか? しかし、いくら貴族出身の若い娘とは言つても、既に、猥雜な舞臺人の世界の中でもまれはじめて教カ月を經ており、しかも、もともと思つたことは不必要なまでにズケズケと言つてしまう性質の女が、そんな※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りくどい表現をするだろうか? しかし――と私は、儀禮的な心配の表情を顏にこびりつかせたまま、しかつめらしく控えている小松敏喬を前に置いたまま考えた。――しかし、いずれにしろ、綿貫ルリの事は、自分にはよくわかつていない。終戰後、わずか半年あまりの附き合い――と言つても、時々訪ねて來ては、いろいろの事について私の意見を聞きたいと言つていながら、ほとんど自分一人で喋り立てては立ち去つて行くというだけの交渉――の間に、私にわかつた事は、ただ、彼女の性質が、一本氣で、血統と育ちから來た率直さ――たいがいの事にたじろいだり惡びれたりしない強さと「少女小説」風の感傷癖が、こぐらかつて入れ混つているらしいと言う事ぐらいの所である。それも、ただ、受身の、しようことなしの推測に過ぎない。それが、この書き置き一つを土臺にして、いくら考えて見てもハッキリした事がわかる道理は無い。…………要するに何か妙な事が彼女の上に起き、それに貴島が關係しているという事だけは、たしかである。だが、私は、貴島のことを、小松敏喬に話すのはよした。早まつて貴島の名を言い出して、もしかするとなんでも無いことかも知れない事がらの前に、カラ騷ぎを演じることになつてもつまらぬと思つた事と、とにかくあの晩ルリを送つて行つてくれるよう貴島に言い出したのは私だから、多少の責任みたいなものが有るようだし、氣がかりでもあるしするので、さしあたり自分だけで今日にでも貴島勉に會つて見よう、という氣に、なつていたのであつた。
「わかりました。……少しばかり心當りが無いこともありません。問合せてみましよう。何かわかりましたらお知らせします」
「そうお願いできると實にありがたいと存じます。なんとも、どうも、とんだ御迷惑さまですが……母親など心痛のあまり寢ついたりしてしまいまして――」
「……そいで、ルリさん――いや、芙佐子さんの御親戚……何かの場合に一時身を寄せると言つたようなお家は、東京に?」
「はあ、二軒ばかり親戚は有るには有ります。しかし、いずれも……御存じの通り、こんなことになりまして、……もと京都から來た貧乏華族の家でして、それだけに又融通が利かないと言いますか、今度のなん[#「なん」に傍点]では實際よりも以上に、この、こたえるんですなあ。もうスッカリ動てんしていまして、もう、たとえ、親類同志の間でも、他家のことなどを構つているユトリはありませんで、はあ。それに、いまだに格式と言つたような事にこだわつておりまして、この、芙佐子が女優になつた事なども、一門の恥じ……まあ、そう
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