な目から、ダラダラと、いくらでも落ちて來た。………二人とも時間というものを忘れてしまつて、シビレたようになつていた。そこに、玄關先きから綿貫ルリの聲が響いてこなかつたら、二人はいつまでそうしていたかわからない。
「コンチワァ。ごめんください! あがつてよろしうございます、センセ? 綿貫ルリ」
ルリという語尾を投げつけるように響かせて、明るい聲だつた。それを聞いて、私はホッとした。この場のやりきれなさから助け出されたような氣がした。同時に、しかし、後になつて氣が附いたことだが、それで、この男と二人だけの空氣が打ち切られることが、なにか惜しいような氣もしたのだから、人間の心というものはヘンなものである。
3
「今日はね、先生、どうしたらいいか相談に乘つていただきたいと思つてあがつたんですの。いいえ、最初先生から、あんだけとめられたのに、自分でだまつて入つてしまつといて、今ごろになつてこんな事を言つて來るなんて、自分かつてだと思うんですけど――いえ、後悔しているんじやありませんの。あれだつて私、いろいろ勉強になるから、自分では、これでよいと思つているんです。どうせいつまでもあの劇團に居たいとは思つていないんですから。ですから、それはそれでいいんですけれど――」
綿貫ルリは室に入つて來るなり、坐りもしない内からベラベラとやりだした。小松と言う舊子爵家の次女として育つた娘で、二十二才だと言うが、身體つきや態度は、まだ少女に近い。顏だけは上品、と言うよりも堂上華族の血を引いているせいか、ほとんどろうたけ[#「ろうたけ」に傍点]た瓜ざね顏で、古く續いて淀んだ血液の疲れを見せて、白磁のようなスベリとした皮膚をしていた。それが考えもしないで口を突いて出て來る言葉を小鳥がさえずるようにしやべる。先生と言うのは私のことである。終戰後、或る人の紹介状を持つて私を訪ねて來て以來、思わない時に出しぬけにやつて來ては、ほとんどいつも、家人へ案内も乞わないでズンズン私の室に入つて來ては、勝手なことをペラペラ話して歸つて行くのだつた。いつでも、なにかしら昂奮している。それが、子供が輕い上等の酒を飮まされて醉つてはしやいでいるような具合で、見ていて快よいので、私も強いて避けなかつた。その日は、薄いピンク色のクレプデシンのワンピースの、腰の所を青いエナメルのバンドでグッとしめつけているため、からだの線が急に大人びて見えた。室の中がパッと一度に明るくなつた。しやべる方はやめないで、まだ五月だと言うのに思いきつた素足の、象牙色のやつを投げ出すようにストンと坐つて、
「先生、ザコ寢というのを、ご存じ?」
「ザコネ?」
「はあ」
「ザコネと言うと、この、人が大勢いつしよに寢る……あれかね?」
「そうよ、男も女もゴチャゴチャに。ですから、そうなんですの。いえ、そりや、いいのよ。ヘイチャラだわ、そんなこと。それだけならばよ。なーんでもありやしないのよ、でしよう?」
「しかし、出しぬけに君、どうしてそんな事を――?」
「ですから、平氣なのよオイラ。ただそいだけならば」
困つて私は貴島勉の方へ目をやつた。貴島はビックリして、先ほどからルリの顏ばかり見つめていたらしい。私と、私の視線を追つたルリの目に逢うと、青白い顏を不意に眞つ赤にした。
「あら!」
はじめて貴島を認めたルリは口の中で言つて目をすえたが、これは別に赤くもならない。「こちらは、貴島君、こちらは綿貫ルリ君」と引き合わせると、貴島の方は口の中で何か言つてモジモジと頭を下げただけだが、ルリの方は坐り直して三つ爪を突くようにして「はじめまして」と、茶の湯ででもしこまれたらしい、スラリと背を伸ばして辭儀をした。そのくせ、下げた頭をまだ上げないうちから、クスクスと笑い出している。
「しどいわあ! 先生、なんにもおつしやらないんだものう!」
「だつて、――入つてくるなり、いきなりだもの、こつちから何か言う間は無い――」
「ですけどさあ、ほかにどなたも居ないと思つたもんだから私――」
「いいさそりや、ねえ、貴島君。今どきの戰爭歸りの若い者が、ザコネぐらいにビックリはしないだろう」
「あらそう、貴島さん?……」と聞いたばかりの名をすぐに呼んで青年の顏をヒタと正面から見て、
「いつ歸つていらしつて?」
「はあ、去年の暮れに……」貴島はまだ顏を赤くしていた。
「どの方面ですの?」
「……自分はオキナワです。はじめ南方にいて、それから六月ごろオキナワにまわされて――」
「南方にいらしたんだつたら――南方と言つてもいろいろでしようし、薫のいたのがどこだかハッキリしないけど、南方なら、もしかして、小松と言つて――イトコですの、私の。學徒出陣で戰車部隊とかつて――もしかして、ご存じありません? 小松薫と言うんですの」
「小松薫……さあ、知りませんけど――」
もうスッカリ夜になつていた。夕飯のことを私が言うと、ルリは、すまして來たと言うし、貴島もひるめしがおそいので食べたくないと言うので、私だけ中座して夕飯を食べることにした。居間の方で私が食事をしている間、二人の話し聲がし、ルリの笑い聲もきこえて來た。私がもどつて來て見ると、二人は壁のそばにピッタリと寄り添うようにして笑つている。後から思うと、それがチョット妙だつた。しかしその時には、べつになんとも思わなかつた。ただ、そうしている貴島が、ほとんど別人のように快活になつて、顏のツヤまで良くなつている。
「そりや、あたしには、むずかしい理窟はわかりませんわ。戰爭の善し惡しだとか、日本が負けちやつたことにどんな意味が有るかとか、わからないの。ただこんなふうになつたおかげでオイラは、だな――あら、ごめんあそばせ。わたしたち、こんなふうになつたおかげで、自由になつたことは事實。それがうれしくつてしようが無いんですの。それだけだわ。それでいいんじやないかしら?」
「なんの話?」
「いいえ、貴島さんがね、こんなふうになつてしまつて、どうしようもないとおつしやるから、私はそいでも、まだ以前よりもこの方がいいつて言つてるんです」
「そりや、君など戰爭をくぐつて來たと言つてもズットまだ子供だつたしね、言わば、戰爭後に生れ出した、つまり一番新らしい人たちとも言えるんだからね。それに、以前の君の家が家だつたし―」
「そうよ! 今だつて、先生、あんな燒け殘りの防空壕みたいな所に住んでいるくせに、お母さまなど、人が訪ねて來て、すぐそこの鼻の先きに立つてるのを見てながら、フフフ! お姉さんか誰かがお取次ぎをしてからでないと、その人と話しをしようとはなさらないの! まるで、キチガイ病院! ハハ!」
「そうかねえ」
「ところで先生、御相談があるんですの。もうすぐ今夜つから私困るんですから。私、自分の心をハッキリきめて置かないと、どうしていいか、わからないの。とても、とても苦しくつて。私、死んでしまおうかと思う事があるんです」
それをしかし、浮き浮きと、言う。
「……なんだね?」
「ですからさ、はじめ申し上げた……ザコネ」
「……舞臺でやらされるのかね?」
「あらあ、舞臺でなら、どんな事をやらされたつて、もつとスゴイことやらされたつて、私、平氣だわ。ヘーイチャラ。そうでないから、どうしていいかわからないの。そこんとこなの」
4
ルリの言うのは、こうである。
彼女が下つ端女優として出演しているR劇團は今Aという劇場に約半年の契約で常打ちのシバイをしているが、劇團員に戰災者が多く給料も安く、全員の三分の一ぐらいは、いまだに決つた住居を持たないため、ガクヤに寢泊りしている。ガクヤと言つても、半燒けになつた舞臺裏を應急に修理したついでに燒け殘りの材木やトタンなどで一時しのぎに建てた六疊ぐらいの一室きりで、晝間はそれをガクヤに使い、夜になると、そこに男女十人近くが寢る。その十人の中の五六人、つまり三組ばかりは夫婦又はアミ――(これはルリの言葉)――であるから、夜中には、時々、ムネドキ的(これもルリの言葉)である。しかし、それはそれでみんな馴れているから、ふだんは、なんの事も無い。ところが、R劇團は毎日午前十一時から夜の九時ごろまで一日約三囘ずつ同じシバイやショウをくりかえして休演日というのは無く、そして全部の出し物を十日目十日目に變えて行かなければならぬため、いつでも、次ぎの出し物のケイコは、前の十日の最後の二三日の午前中と、シバイがはねた後で半徹夜でやる。その二三日の間、晝間の公演を普通にした上にケイコをするのだから、そうでなくても過勞に落ちているのがクタクタに疲れ、時間も無し、ほとんど全員がガクヤに泊ることになる。すると、約三十人の男女がその六疊一室にギッシリと折り重なるようにして寢る。「ちようど、イワシのカンヅメみたい」だそうである。「着る物がよごれると言つて、スッパダカになつて寢る人もいる」「女優さんもなの?」「もち!」と言い切つて、「そして、ヘンな事がはじまるんです。あんまり疲れると人間は、どうにかなるんでしようか? それもしかし、ふだんからアミになつている人同志なら、私、目をつぶつて知らん顏してる。だけど、時々そうじや無いの。そん時だけ、不意に抱きついたりするの。いやらしいの! ペッペッペッ! お兄さんたちまで、時々そんなことするの。え? ええお兄さんと言うのは文藝部や演出やバンドの方の、つまりエライ人たちの事。そんで、イヤだから、ことわるでしよう? そいでも、大體そんなふうだから、ことわられたからつて、大して怒りもしないの。だけど、あんまりことわつてばかりいると、あいつ異常だ――そう言うの。バカにされてしまうのね。それが段々つもりつもつて來て、お兄さんたちに憎まれてしまつてごらんなさい。かんじんのシバイの方で役がもらえなくなるの。するとお給金もさがるし、肩身がせまくなるし、居づらくなつてしまうんです。そんなふうにして、劇團をやめてしまつた人が二人ばかり有つたわ。ねえ先生、私どうしたらいいかしら?……いえ、それ位のこと、どうせ覺悟して入つたんだから、なんだかだと言われるのは、なんでもないんです。お給金がさがつてしまうのも、がまんする。しかし、それがコジれてしまつて役ももらえなくなれば、せつかく私、芝居の勉強しようと思つてあんな所に入つた意味が無くなるんですもの。つらいわ。ホントに、ホントに私、こうしてしんけんに芝居の勉強しようと思つているのに……私、一人前の女優になるためになら、ホントにどんな目に會つてもいいと思つているんです。だのに、そんな事から勉強ができなくなつたら、死ぬよりつらいんですの。……實は昨日から又、次ぎの、二の替りの出し物のお稽古がはじまつていて、ゆんべも小屋で泊つたんですの。今夜も泊らなきやなりませんの。イヤでイヤで、しようが無いもんですから、私の役を、ほかの子に代つてもらつて、拔け出して來たんです。どうすればいいんでしよう、先生?……」
話の内容が、キワドイ感じを與えていることなどに全く氣が附いていない。涙ぐまんばかりに眞劍なのだ。眼のふちが紅潮し、コメカミの邊は、青白く、ふくれた靜脈がすけて見える。……私は劇作家としての職業上、そんなふうな劇團にも出入りしたことがあり、内部のありさまも以前は知つていた。それは普通世間で思つているほどビンランしたものでは無いのだが、終戰後、そういう事になつた所もあるのか? チョット信じられないけれど、しかし、戰後の一般の世相から推して考えると、所によつてそんなこともあるのかも知れない。……とにかく、それまでヤンチャな子供の話を聞いているように輕い氣持で微笑して居れたのだが、だんだん、いいかげんな事は言えなくなつた。貴島も默々として、ルリの横顏を見ている。ルリは、しかし、子供らしく熱して、詰め寄らんばかりになつて來た。
「……そんなにそれがイヤなら、しかたが無いから、劇團をやめるわけに行かないの?」
「行かないのよ、それが。やめてしまえれば、こんな苦しんだりしません。新劇などに行けば生活費は出ないでしよう
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