肌の匂い
三好十郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)面《めん》

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(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
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        1

 それは、こんな男だ。
 年齡二十六七。身長五尺四寸ぐらい。體重十五貫と十六貫の間。中肉でよく發達した、均整のとれたからだつき。顏は正面から見ると割りに寸がつまつて丸いが、横からだと面長に見える。鼻筋がすこし長過ぎる位に通つているせいか。色は白い、と言うよりも蒼白。ひどく冷たい感じの皮膚。頭髮豐かで、廣い額の、上の方が女にもめつたに無いクッキリとした富士びたいになつている。全體がまるで少年――時にほとんど女性的な……いや、初めからこんな事を書きすぎている。もうやめるが、とにかく、こう書いて來ると、一人の美青年を人は想像するかもしれない――事實、道具立ての一つ一つを取れば、端麗とも言える顏だちだ――が、全體から來る印象は、なにかしらアイマイで不快である。
 それは目のせいかとも思う。ふだんは別になんでも無いが時々實にイヤな目つきをする。形も色も普通な目だから、どんなふうにと説明することがチョットできないけれど、暗い、無智な、それでいて底の知れないズルサのようなもので光る。すべての物をけがす目――そんなものが、もし有るならば、それだ。思い出した。私は以前に、人と犬の群にかり立てられた末に、半分死にかけて捕えられたテン(人々はそう言つていた)を見たことがある。あの時あの動物が人と犬の圓陣をジッと見まわしていた目だ。極端な傲慢さと極端な臆病さとが、いつしよになつた目。強度の求訴と強度の不信とがいつしよになつた目。……いけない、又はじめた。いつも戯曲を書いているためのクセである。しかし、ひとつには、こうして坐つていても、私の眼の先からこの男の姿を拂いのけることが出來ないためである。とにかく、いいかげんに、話の本筋に入る。それに、この男の以上のような異樣な人がらに氣が附いたのは、私にしても、かなり後になつてからのことだから、普通の人が普通の眺めかたをすれば、あたりまえの一人の美青年として通用するのかもしれない。そうだ、たしかにそうかも知れない。げんに、あの時――終戰後はじめて私を訪れてきた時に、あとから訪ねて來た綿貫ルリが、二時間ばかり同席しているうちに、彼に對して急速に好意を抱くようになつたこと、そしてそのあげく、夜おそく二人がつれだつて歸つて行くことになり、そして、その結果、あのような、わけのわからない奇怪な事件がひき起きてしまうことになつて、そのため私までが事件の中に卷きこまれてしまつて、すくなからぬ迷惑をこうむることになつた――そういう事のすべてが、すくなくとも最初の間、ルリの目にはこの男が一人の感じの良い、おとなしい青年に見えたためだろうと思われるのである。……以下、順序を追つて書いてみよう。

        2

 その頃――終戰の次ぎの年の春――私は、人に會いたくなかつた。誰に會つても、しばらくするとイヤになつた。先ずたいがい相手の顏を見ると、あわれになる。泣き出してしまいたいほど、あわれになる。そして言うことを聞いていると、次第に腹が立つてくる。次ぎに相手を腹のドンぞこから輕蔑している自身に氣がついてくる。いろいろ話している相手が次第々々に、この上も無く卑屈で臆病でズルくて耻知らずで無智な動物のような氣がしてくる。そして次に、その相手よりも、もつと卑屈なズルい耻知らずの無智な動物は、當の自分の方だという氣がしてくる事である。すると、いけない。ムカムカして口をきくのがイヤになり、そのへんの物をみんなひつくり返して、相手の前から立ちあがつて、室の外へ、戸外へ、誰も知つた人間のいない所へ、できれば人間なんかのいない所へ行つてしまいたくなる。
 とくに、その相手がインテリゲンチャ、なかんずく作家だとか批評家の場合は、この現象が最も甚だしかつた。無理にがまんしていると、私の胸の中はおそろしくこぐらかつた。それだけにどうにも拂いのけることのできない憎惡のために、まつ黒にくすぶつてくるのであつた。
 だから、なるべく人に會わぬようにしていた。そして、たいがいの時間を、青い顏をして一人でボンヤリ坐つていた。遠い所を訪ねてきた人には氣の毒なような氣がしないことも無いが、しかし實を言うと、人の事などシミジミ氣の毒と思つたりする餘裕は無かつた。一番氣の毒なのは自分だつたのだ。
 それでいて、人を見ないでは、私は一日も居られない。二三日人に會わないでいると飢えたようになつてくる。遂に耐えきれなくなると、室を飛び出して街のあちこちをウロつき歩き、知らない人々の間に立ちまじつたり、又は、知り合つてはいても、この私を三好十郎として知つているのでは無い雜多な人々――その中には電車の車掌がいたり、大工がいたり、職工がいたり、畫家がいたり、ゴロツキがいたり、バクチウチがいたり、株屋がいたり、クツ屋がいたり、浮浪人がいたりするが――そういう人々の顏を見たりそれと話し込んだりしているうちに、ヤットいくらかホッとするのであつた。
 そういう状態であつた。
 だから、その晩春の午後おそく、その男が訪ねてきた時も、私はなにもしないで仕事室の隅にボンヤリ坐つていたのだが、家人に言つて、會うのをことわらせた。しかし男は歸らないと言う。二度も三度も押しかえして、「お目にかかりたい」と言つて、臺所口に突立つていると言う。名刺を見ると貴島勉とあつて、わきにD――興業株式會社、日本橋うんぬんと所番地が刷つてある。「どんな人だ?」と聞くと「セビロを着た、若い、おとなしそうな、文學かシバイでもやつているような人」だと言う。ますますいけない。私の最も會いたくないものだ。「イヤだから」とハッキリことわらせた。すると、四度目ぐらいに、「前に一度お目にかかつたことがある」と言つているという。でも私には思い出せなかつた。もつとも、私には會つた人の顏は忘れないけれど、名前はすぐに忘れてしまう癖がある。いずれにしろ、すこしメンドウくさくなつた。そして更にことわらせると、「戰爭中Mさんにつれられて、ここへ來たんだそうです」と言う。
 Mというのは、私の親友で、終戰直前に廣島の原子爆彈で死んでしまつた有名な新劇俳優である。げんに私がそうして坐つていた――今もこうしてこれを書いている――前の壁の上に、Mの生前の肖像畫が、ガクブチに入つて私の方を見ている。しかたが無い、會つてみようという氣になつた。「それにしても、Mのことを、最初からどうして言わないんだろう?」と取次ぎの家人に問うと、「なんだか、とても口數のすくない人で」と言う。それで、あがつてもらつた。そして、それが最初に書いたような青年だつた。
 室に入つてくると、その男は、無言で入口の所で足をそろえて立ちどまり、兩手をキチンとモモに附けて上半身をクキッと前に折り曲げながら、顏だけは正面を向いたまま私の顏に注目するしかたで禮をした。「どうぞ」と言つてザブトンを示しても、それを敷こうとせず、板敷にジカに四角に坐つた。かなり上等の薄色のフラノ地の背廣に思い切つてハデなエンジ色のネクタイをしていた。前にも書いたように、チョット女のような感じの、上品でおとなしそうな、むしろ平凡な顏で、記憶に無かつた。
「Mを知つていた――?」
 相手がいつまでもだまつているので、私の方から言つた。
「はあ。……」
「戰爭中此處に來てくれたそうだけど、――いつごろでしたつけ?」
「……あの、僕が入隊する二三日前の――」
「そうですか。……そいで、いつ復員して來ました?」
「しばらく前……去年の末にもどつて來ました。……その、入隊する二三日前にMさんといつしよに。空襲のあつた晩で、玄關先きで失禮したもんですから――」
 とぎれとぎれに低い聲で相手が言つている間に私は不意に思い出した。東京空襲が本格的にはじまつてから間の無い頃、警報が出て、燈火を消してしまつた私の家の玄關へ酒に醉つたMがもう一人の男をつれて寄つたことがあつた。それが、言われてみると、この男だつたようだ。暗かつたし、この男は一言も言わないでドアの外に黒く立つていて、Mだけが玄關のタタキに入つて來るや、私のヒジの所をグッと掴んでゆすぶりながら、「やあ、ヘッヘヘ、なにさ、三好のスローモーション、鈍重、チェッ! もしかして、おとついのブウブウでやられたんじやないかと思つて、來てみた。いいよ、いいよ、そんだけだ。生きてりや、それでいいんだよ。いいよ。なに、あがつちやおれん。忙しいんだ。ヘヘ、これから、その兵隊を――と(背後の男の姿を指して)洗禮を受けに連れて行かなきやならんからなあ。あばよ。バイバイ」と、醉つてはいても、永年舞臺できたえた、語尾のハッキリとネバリのある美しい聲でわめき立てて、風のように歸つてしまつた。この男の癖で、こちらで何かを言つている暇は無かつた。……たしか、「洗禮」と言つた。なんの事だかよくわからなかつたけれど、しかし直ぐ續いて起つた空襲騷ぎのために、それも忘れてしまつていた……
「そう。それは――そいで、君は陸軍? 海軍?」
「海軍でした」
「Mとは、なにか、お弟子さん? いや、俳優になりたいと言つたような――?」
「いえ。……前に、小説みたいなもの書いていて、シナリオをやつてみたくなつて、そいで友人に紹介してもらつてMさんに――でも、半年ぐらいでした、つき合つていただいたのは。……でも、とても、かわいがつてもらつて。……廣島でなくなられた事は、すぐ知つたんですが、今まで、あがれませんで――」
 急に、泣きだすのではないかと言う氣がした。すると私は例の、立ちあがつて外へ出て行つてしまいたくなつた。Mを失つた悲しみは、私にとつて、涙を流して泣けるような種類のものではなかつたのだ。もつと複雜で、悲しみというよりも、怒りに近い氣持だつた。……しかし青年は泣きはしなかつた。私はいくらかホッとしたが、彼はどうしたのか、それきり、だまりこんでしまつて、いくら待つてもなにも言わない。膝から一尺ぐらいの床の上に視線をやつたまま、身じろぎもせず、十分以上たつても、口を開く樣子がなかつた。なにか、わずらわしくなつて來た。
「……それで、僕になにか用があるんですか?」
 彼はこちらの言葉の意味がのみこめなかつたようだつた。問い返すような目色をチョッとしたが、すぐにそれは消えて、ただポカンとこちらを見ている。私は、はじめてその時その男の目の中をのぞきこんだ。そして、なにか、ドキッとした。そんな目を私は今までほかで見たことがない。實にイヤな――と言つて、どこがどうと説明しようが無い――つまり――。最初書いたような、下等動物が追いつめられて、自分を殺そうとしている者を見まわしているような目つきになつていた。いつそんなふうに變つたのか、わからない。もしかすると變つたのでは無く、最初からそうだつたのを私が氣がつかないでいたのか?
「へえ」と、かすれ聲を出して、それから、たよりないトボケたような低いユックリした調子で「……あの、歸つて來て、こうしているんですけど……もう、どうしていいんだか、まるきり、わからなくなつて――」
 そこで言葉を切つて、ニヤリと笑うようなことをした。
 目の前にポカッと穴があいたような氣がした。それは、どんな復員者のどんな生ま生ましい戰場の話や復員後の暗い生活の話を具體的に聞いた時よりも、私にこたえて來た。私はだまつてしまつた。なんにも言う氣になれなかつた。急に背中がゾクゾクして、すこし吐氣がして來たのをおぼえている。窓を明るくしていた夕日の名殘りがスッとうすれて、いつの間にか室内は薄暗くなつていた。靜かな室内に時々ポタンポタンと音がするので、目をやると、彼のキチンと坐つたズボンの膝と膝の間の僅かなスキマの床板が點々とぬれている。滑稽なほど大粒な涙だつた。ボンヤリと見開いたままの異樣
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