下さい。………僕は現在貴島が何處に居るかほんとに知らない。横濱界隈の小さな船着場だという事は知つているが、それ以上の事は知らないんだ。さつきも言つた通り君に嘘をついて見ても仕方がない。だけどかりに貴島のありかを知つていたとしても、僕はあんたに言わないよ。………それはわかつてくれますね、國友さん? 然し僕があんたに言いたい事はそんな事じやあないんだ。そんな事よりも、ぜんたいあんた方は貴島なぞを追いかけてどうしようというの? いや貴島をかばう意味で僕は言つているのじやない。一人や二人の貴島なぞどうでもいいのだ。さつきあんたが言つたね、亡びてしまつた日本の、法も道もない世界で、何故今更そんな事をしようとするんだろう?」
「………おつしやる通りです。私達のしている事は實につまらんし、こんな風になつた國をこの上だめにしてしまうような事です。知つています。知つていてもどうにも足が拔けないんですよ。三好さん、それが世の中だ、惡いと知つていても長年身にしみついた事からはなかなか拔けられない。そうなんだ。いやで仕樣がないが、私など、ざつとこんな事で果てるんですねえ」國友の聲に嘘のものではない深い自嘲の調子があつた。「………いやだと思いながらやつていても、多勢の仲間をひかえていれば、これで、筋道だけは立てて行かなきやあならないんですよ。詳しい事をあなたに話してもしかたが無いんで、ざつと言いますが、黒田組と私共の間には半年ばかり前から取引きがありましてね、いや取引きと言つてもどうせ私等の世界の事で、どうといつてはつきりした契約のある事じやない。然し案外にこれで私達同志の取引きは堅いもんです。それが、黒田の方でしばらく前に不意打に私達にスカを食わした。かなり大量の「クロ」を黒田の方から私の方へ引取つたんだが――まあ、或る藥品だと思つて下さい――そいつを私共でいくつかに分けてほかへ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。あとになつてそいつが贋物だつたという事が、分けてやつた先からわかつて來たんです。全部が全部贋物じやあ無かつたらしいが、かなり澤山の贋物が入つていたんですねえ。そしてこの事をこちらで言い立てる事が出來ないような手を黒田の方が前もつてちやんと打つてあつたという事なんですよ。ここいらの事はあなたに話しても仕方がないから話しませんが、私どもの間には義理だの仁義だのと――まあそう言つたものがありましてね。みすみす贋物を掴まされたとわかつても、後になつてそれを言うわけにいかない事がある。そうでなくても、どつちにしろ表沙汰には出來ない事です。そんなこんなを黒田の方ではちやんと見越しているんだ。で、黒田に會つてそれを言つてもヌラリクラリと逃げを打つばかりで、カタがつかない。私んとこの連中がいきり立つて來たんです。そこへ黒田んとこの秘書ということで貴島が割りこんで來て、おかしな事ばかりして話の邪魔をします。ありようは、こうなんです」
「………わかつた。それは貴島が惡い。然しねえ國友君、貴島は何も知りやあしないんだ。あれは君、君達から言えば唯のシロウトで、戰爭から歸つて來てメチャメチャになつているところを、死んだ父親の縁故で黒田の所に一時身を寄せただけでね、君達の事にしたつてほんとの事は何一つ知りやあしないだろう。つまり、復員グレに過ぎん。そいつをあんたがムキになつて相手をするのは、どんなものだろう?」
「あなたと貴島とはどんなお知り合いなんですかねえ?」
「どんなつて君、僕の死んだ友達のMという男の弟子みたいな青年で、僕はじかに附合つた事もあまりないし、詳しい事は何一つ知らない。唯戰爭の爲に根こそぎ何もかも持つて行かれた人間で、あれの友達が幽靈だ幽靈だと言つていてね、自分でも死んじまつてた方がよかつたと言つている。何をするか知れたもんじやない」
「そうですか。………いや、このままで行けば、いずれ永い世間は無いかも知れませんねえ。今どき人の一人や二人、何のこたあないですからね。………いやな世の中になつたもんで、近頃そんな事をしても闇から闇へ消してしまう事なんか何でもなくなつて、外からは煙も見えません」
「いいだろう、そうなればそうなつたで」
相手が私を脅迫にかかつているのではない事はわかつていた。が、彼の言う言葉の意味がドス黒くひびくのである。それに對して久しぶりにフテブテしい鬪志のようなものが私の胸の中に萠して來た事も事實だつた。
「だがねえ國友君、僕は思うんだ、君達のように生きている人間は、いずれにしろこの世の中でグレハマになつた人達だと思うが、それは僕にわかる。非難しようとは僕は思わない。だけど貴島のような人間も或る意味でグレハマになつた人間じやないかな? 道筋は違うがグレハマになつたという事では同じじやあないだろうか? その君達が貴島を目の敵にしていじめるのは、當らないないと思うがどうだろう? 可哀そうじやあないだろうか? 君達は、いわば、好きでそうなつた人達だ、貴島は追いこまれて、仕樣ことなしにそうなつた男だ。可哀そうだと思つてくれないもんだろうか?」
「………あなたの言う通りかも知れない。貴島という男のしている事を見ると、必ずしも黒田組の爲にと思つてしているとばかりとは思えない事がありますからね。こんだの一件についても、黒田んとこのいい顏のやつで、格別わけもないのに貴島から斬られた奴がいるんですよ。………私に對しても貴島は別に敵意は持つていないようです。する事がデタラメなんだ。キチガイだと言つてる奴もいます。………追いこまれた人間だと言われれば、わからない事あないような氣もします。私は別に含む所はありません。然しそれとこれとは別でね、私んとこの連中は、黒田が相手にならなきやあ、仕方がないから貴島をとりつめる以外に仕方がないという腹だし、もう今となつては、私が何か言つても、どうにもならないかも知れませんね。川の水が流れるようなもんで、こんなこたあ、あなたもとつくに御存じだ」
昔から國友という男は正直な男であつた。腹に無い事は絶對に言わないし、一旦言つた事が違つたりもしない。それを知つているので私は私としての精一杯の氣持をこめて貴島の爲に話した。それに對して國友ははつきりした返事はしない。然し私の意のあるところを充分理解したらしいところがあつた。次第に陰氣な誠實な眼つきになつて、しんみりと口數も少なくなつた。このような種類の男について誠實などという言葉を使うと人は異樣に感じるかもしれぬ。しかし私の知つている限り、他の連中のことは知らず、國友大助ほど誠實な人間は、それほど多くは居ないのである。私の頼みは七八分通り相手の容るるところとなつた氣がした。然しその時、思いがけない、まずい事が起きてしまつた。
出しぬけに綿貫ルリが飛びこんで來たのだ。
23[#「23」は縦中横]
綿貫ルリが私の家を訪ねて來て案内を乞うたりしないのは、いつもの事であるが、この日は「先生今日は」も言わないで、いきなり、しめきつて話していた書齋のドアを默つてスッと開いて入つて來た。まるで今まで隣りの室にいた人のような具合だつた。私も國友も言葉を停めて見迎えたが、この前見覺えのある絣の防空服を着て、ポキンポキンと私と國友へ頭を下げただけで、何も言わず坐つた。顏色にはほとんど血の氣というものが無い。眞蒼である。この前の時から見ると頬がげつそり痩せたようだ。非常に沈んでいるように見えるのは、自分で自分をおさえつけているためらしい。底の方で強く昂奮している事は眼の色を見ればわかる。こちらの胸先に斬りこんで來るような眼だ。全體の美しさが又變つた。二十二や三の女にこんな種類の美しさが生れ得るものだろうか。ほとんど凄艶というに近い。私は一瞬あじさいの花を想い出した。咲いたばかりのあじさいが雨に濡れている。………誇張ではなかつた。その證據に國友大助も、彼にしては珍らしく強い興味を起した眼色をして、新しい客の爲に少し身を退つた横の方からマジマジとルリを見ていた。
「どうしたんだい?」
私が言つても、ルリは答えない。怒つたように私をジッと見ている。言う事が無いのではなく、何をどんな風に言つてよいのかわからないらしい。膝の上の白い蟲のような指先が細かくブルブルと震えた。
「判らないんです。いえ、どうしてよいか判らないんですの」だしぬけに、しかしはじめは低い聲で口を切つた。「私の事じやありませんですの。いいえ、結局私の事かもわからないけど、でも私だけの事じやない。どうすればいいんでしよう? 先生教えて下さい。いやだわ、いやなんです私は。こんなわけのわからない事でゴタゴタしているのは、私はイヤ!」
それから噴き出すような勢いでルリは喋りはじめた。何を言つているかわからない。少くとも初めの十分ばかり彼女の言葉は支離滅裂でまつたく掴えどころが無かつた。或事を言いはじめて、その一言の中で忽ち別の事を言い出すかと思うと、次に最初の事とも二番目の事とも違う事に飛んでいる。それをこちらが呑みこむ暇もない中に、他の事が入りまじつて來る。しかもそれがたいがい普通の言い方と逆になつていて、いきなり間投詞が飛んで來て、その後に叙述の文句が來てそれが又四方八方へ飛び散り、ぶつかり合う。言葉と言葉が光線の亂反射のように飛び交うのだ。
このようなものの言い方も世の中に在るのである。然しそんな言葉を紙の上に書き寫すことは、むずかしい。私は此處で彼女の言葉を書き寫そうとはしまい。
ただ次第にわかつて來た事は、彼女の話しているのが貴島勉の事であるという事であつた。
そんな事ではあるまいかと、ルリが入つて來た瞬間から私が危惧していた事が當つたのだ。國友が此處に居る。その前でルリが貴島の事を語りはじめている。………まずい。息もつかずに喋り續けるルリの口に蓋をしたいような氣持でハラハラしながら聞いている以外に、然し、私に方法が無かつた。
それが貴島の事だとわかつた時に國友大助の眼がキラリと光つたように思つた。然し彼は別に何も言い出さず、默々としてルリのお喋りを聞いている。
「まあ、まあ、まあいいよ。君が何を言おうとしているのか、よくわからないんだ、どうしたの一體?」
「ですから私にはわからないんですの。全體あの人が何をどうしようと思つているのか、何がどうなればどうなるのかハッキリした事はまるで言つてくれないんです。先生にそれを教えて戴きたいの。あの人はしきりに先生の事を言つて、會いたいと、そう言うんです。何のため? 何故先生に會いたいんですの?」
「貴島君がかね? さあ、どうしてかね、僕にもわからないな。君は會つたのだろう? そんなら君にはわからないかな? 君にわからない事が僕にわかる道理がない」
「いいえ、先生にはわかつているんです。あの人がそう言うんです。教えて下さい。ね先生」
「だつて、何が何だかちつともわからないじやないか。もうすこし落ちついて話してくれなくちや。ぜんたい貴島君の事を君はどうしてそんなに氣にするんだえ?」
「憎いからなんです! 私は憎いんです! あの人が憎いんです!」
聲をふりしぼつた。聲にこめられている憎惡に間違いはなかつた。佐々兼武の「ほんとはルリは貴島に惚れてるんじやないですかね」というような事が、當つていようなどとは全く考えられなかつた。第三者にはまるでわからない貴島とルリとの間の關係がそこにはあるらしい。それを多少でも掴もうとして、いろいろの角度からたずねて行つても、ハッキリした答えは何一つ得られなかつた。氣の少し變になりかけた、カンのきつい子供を相手にしているようなものであつた。あぐねきつて私は、尚も喋り立てている彼女の顏を眺めているだけになつた。
「言葉をはさんですみませんが、貴島君、今どこに居るんですか?」
わきから國友がヒョイと言つた。ルリはその方を見たが、すぐには返事をしない。私はドキリとした。
「何ですの?」
「貴島君、どこに居ります?……あなた御存じでしよう?」
「知つています。………だけど、あなた、どなた?」
私は二人を簡單に
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