にも積極的な力は生れて來ない。それとは別にもつと根本的に考えて見ることです。つまりです。
或る戰爭は正しくて、或る戰爭は不正なのですか? 佐々はそうだと言います。僕には、わかりません。僕には、戰爭がホントに否定されるためには(その戰爭がどんな動機からなされた戰爭であつてもです)今後あらゆる戰爭を絶對にしない、しないですむ地盤に立つ以外に無いのではないかと思われます。そんな地盤が現在どこかに在るでしようか? もしそれが無いのに戰爭を否定したとしても、それはただの主觀的な希望に過ぎないのではないでしようか?
僕の考える事は堂々めぐりに過ぎません。ナンセンスです。僕は人も自分も、共に信ずる事が出來ません。信ずるという力が無くなつてしまつたのです。死んだ父だけを人間として信じているきりで、その他の一切を信ずる能力を失つてしまつたのです。しかたがありません。
僕は戰場で死んでいればよかつたのです。でなければ、復員して來て、父がセップクした事を知つた時に、すぐに死ねばよかつたのです。死んだ方がよかつたのです。
それはダメでした。イノチが惜しかつたのでも、死ぬのが怖かつたのでもありません。現在でも僕はイノチを惜しいとは思つてはいません。ましてその時は、そんなことは何でもありませんでした。それが、どうしてだか死ねませんでした。なんの理由もないのに、死ねなかつたのです。ただ、ハズミが無かつただけです。人間は生きるにせよ死ぬにせよ、その他のどんな事をするにも、その時のハズミだけらしいのです。
僕が今こうして生きているのも、時のハズミで生きているだけです。その他にどんな理由もありはしません。そして、他の人間も、結局は僕と同じように生きているに過ぎないと思います。ただ生れて來たから、何かにぶつかつて死ぬまで、なんとなく生きているだけです。生きている事に、何かの意味を附けて見たり、する事の一つ一つを正しいとか間違つているとか、善いとか、惡いとか言つているのは、人間の弱さが生み出したヘリクツに過ぎません。虎は虎のように生きるでしようし、兎は兎のように生きるでしようし、ウジ蟲はウジ蟲のように生きるでしよう。
一切がどうでもよい事です。ムキになつて考えなければならぬ事は、何一つない。人生は、生きるに値いしない。
又、居所が變りました。
今度は船の上です。船と言つても、汚いハシケの、胴の間です。或る船着場の、左右前後は停泊しているハシケや漁船で埋まつています。くさつたような潮の匂いと、雨の音です。
ルリさんが此のへんにまでやつて來てウロウロしてしている事を僕が知つたのは昨日です。あるいは僕の思いちがいで、ルリさんでは無かつたかも知れませんけれど、僕の眼にはあの人のように見えました。
前の室にいた頃、黒田の子分の一人が僕の所に使いに來た時に「若い女が二三日前から、このへんをウロウロしている。兄きをつけているんじやないかと思う。氣を附けてください」と言うのです。
「東京の連中のなに[#「なに」に傍点]かね?」
「いや、テキさんたちが、あんな女を使つたりはしないでしよう。綺麗な女ですよ」
「そりや君たちの氣のせいだろう」
「そうも思いましたがね、なんせ、ここのマーケットに、たいがい一日に一度はやつて來て、何かを買つたり食つたりする風もなし、この家に眼をつけているようなんです。なんしろ、めつぽう綺麗な女だから、すぐに眼に附くんだ」
ニヤニヤしながら、僕と戀愛關係でもある女ではないかと疑つているようです。
「ほら、一二度此處へ來た、何とか言う雜誌の人ねえ、あの人をソッと附けて來て此處を知つたんじやないかねえ」
佐々のことなんです。そんなバカな事は無いと僕は打ち消しました。しかし、あり得ない事では無いのです。佐々は僕がこうして方々に身をかくすようようになつてからも、二度ばかりやつて來ています。非常にハシッコイ男ですけれど、それだけにソソッカシく、とんでも無い所で拔けた事をしかねない男です。「とにかく用心して下さい。親分もそう言つていた。昨日も金の野郎が櫻木町から連れて行かれたし、東京の店で菊次が四五日前に斬られてます。東京のは相手がわかつているし、なんの事はありませんけどね。用心するに越した事は無いんだ。一兩日中に又別の所に兄きに行つてもらうようにしてあります」
その男は、じや又來ますと言つて歸りかけ、硝子窓を細目に開けて下の露路をうかがつていましたが
「ああ、やつぱり來てる。あれですよ」と言うので、立つて僕は覗きました。
その家を出て、ゴタゴタと食物店の並んだ露路を出はずれた角のゴム靴などを賣つている店の軒先に、ちようど前日から降りつづいていたビショビショ雨をさけるようにして立つて、こつちを見ている女が居ます。軒先の蔭になつて顏は半分しか見えないし、モンペをはいているようです。するうち、女が歩き出して顏の七分ばかりがチラッと見え、僕はハッとしました。ルリさんでしたそれが。いや、ルリさんだと思つたのです。今から考えますと、ちがつていたような氣もします。ルリさんがあんな所に立つているわけがありません。佐々の話ではルリさんは僕の事を非常に憎んでいるということですが――そうです、僕があの晩ルリさんにした事を怒られるのは當然かもしれませんけれど、そんな憎まれるほどひどい事をしたおぼえは無いのです。いずれにせよ、こんな所まで僕を追つて來る道理がありません。
しかしその時はたしかにルリさんを見たと思いました。して見ると僕の心の底でルリさんを忘れきれないでいたのかも知れません。
その女はすぐに角から消え去つてしまつて、二度見直す暇は無く、確かにルリさんであつたかどうかを確かめることはできませんでした。
結局はそんな事もどうでもよい事です。あれがルリさんであつたとしてもです、この僕とは縁もユカリも無い人です。別の世界の人です。
僕はただこうして船の動きに搖られながら雨の音を聞いています。すべてが僕にとつてなんでしよう。僕はゴロツキの子分で無籍者です。全部愚劣なことです。
こんな事では無いのです。僕が手紙を書くのは、こんな事のためではありません。Mさんの事を知りたいんです。どうしても知らなくてはならないのです。この一週間ばかり急にそれがハッキリして來ました。僕が知りたいのはMさんに關係のある事なんです。それは今度お目にかかつて、くわしくお話しします。…………」
手紙は、そこでプツンと切れていた。明らかにまだ書きつづけるつもりのやつが途中で不意に中絶されたらしい。その中絶のしかたに何か不吉なものがあつた。
貴島勉という男が私にいくらかハッキリわかつたような氣がするにはした。しかし、まだわからない所がある。部分的にハッキリした所が出來たために、わからない點は前よりも更にわからなくなつたとも言える。特に彼の精神方面――性格や心理の内容は、ほとんど未だ私には掴めない。
私は手紙を前に置いて眺めながらボンヤリ坐つていた。その私を、貴島の例の兇惡な眼が、どこかの隅から見つめていた。
21[#「21」は縦中横]
貴島勉の長い手紙を受けとつてから、五六日後の夜、私は佐々兼武の訪問を受けた。
その夜の佐々は、いつもとはちがつていた。この前、綿貫ルリの裸體寫眞一件の話をおもしろおかしくしやべりまくつた折の、明るい道化た調子など、まるで無い。陰うつとまでは行かないが、頭が何かで一杯になつていてそれ以外の事は受付けないと言つたふうだつた。自制しておさえつけた鋭どさが、顏つきにも言葉の調子にもある。別人のように口數もすくない。急いでもいるようだつた。
「貴島から頼まれて來ました。自分で來たいけど、今のところいつ伺えるかわからないし、それに急ぐと言うんです。僕も社の用事や久保の會社の方のゴタゴタの事なぞで忙しいんで、こちらへ寄つている暇は無いんですけど、どうしても寄つてくれと言うんです。泣くように頼むんです。しかたがないのでお伺いしました」
「どんな事だろう?」
「…………貴島が言つた通りに言います。Mさんのお友達や知人の名まえと住所のリストを、あなたの御存じになつている限り、なるべく詳しく書いてください。とくに、女の人たちの事をくわしく書いてほしい。それが女優さんだつた場合には藝名と本名を同時に、それからハッキリした住所がわからない場合には、だいたいの見當で、どこそこに住んでいるらしいと言うふうに書いてください。そう言いました。そんだけです」
「いつだつたかも、貴島君はそんな事を言つていたが、Mの知人のリストなどをどうしようというんだろう?」
「そんなことは僕にも判りません。彼奴はひどい色魔ですから、そんなものをたよりにして若い映畫女優などに當つて歩きたいと言つたような事かもわかりません。しかしそれにしては、あんまり眞劍すぎますしね、今さらそんな事をしなくても、彼奴を追つかけまわしている女は掃いて捨てるほど居るんです。とにかく、彼奴のする事はわかりませんよ。唯泣くように頼むもんですからね。書いて下さらないでしようか? 實は今日は僕急ぐんです」
怒つたように言つて後は語らない。
とりつく島がないし、それをことわる理由もないので、私は古い手帳や住所録の類を取り出してリストを作りはじめた。亡友Mは映畫と演劇の兩方に永らく働いていた男だし、ひどい遊び好きの上に世の中のあらゆる事柄や人間に對してコッケイに思われる位に強い興味を持つていた男なので、友人知己の數は非常に多かつた。しかし彼と私の共通の知人、特に女性となると、ほとんどが演劇映畫關係に限られ、中に僅かに普通の知友關係とバーやカフエの女給などがまじつているだけだ。それでも住所録や手帳から書き拔いてみると二十名ばかりあつた。中の十五六人が女性である。しかしいずれにしろ戰前から戰爭末期へかけての記録であつて、終戰以後の激しい世態の動きの中で、それらの人々の住所はもちろんのこと、境遇なども、以前のままである者はすくないのではないかと思われた。
私がリストを作つている間、佐々はムッツリと怒つたような顏で一言も口をきかなかつた。重大な用が自分にはあるのに、こんな愚劣な事で時間を取られるのはやりきれない……そんなふうに思つているらしい。
作り上げたリストを私は默つて彼の前に出した。
「すみませんでした。じや、これで僕は失敬します」
「貴島君はまだ横濱の船の中に隱れているの?」
「え?……」佐々はジロリと私を見て「どうしてそれを知つているんですか?」
「四五日前に手紙をくれてね、そんなような事が書いてあつた」
「あそうか。………そうです。もつとも船にはもう居ないようで、又ほかへ移つたらしいですがね」
「ぜんたいそんなにしていなきやならないなんて、どういうのかね?」
「黒田組と束京のゴロツキ連中……そいつらと黒田組の間で取引きの事でゴタゴタがあつたらしいんですがね、そん中に貴島がまきこまれていて、と言つてもあの男の事ですから、詳しい事情も知らないままで、思いきつた事をやつちまつたらしいんです。先方のゴロツキの頭かぶの奴をなぐりたおしたか斬つたかもしたらしい。詳しい事は言わないんです。そんな事でモツレがひどくなつて、しばらく前からヤッサモッサもんでいたやつがこの一週間ばかり急に手荒い加減になつて來たんです。今となつては、先方では仕事のモツレの事よりも、貴島のような若造に勝手な事をされちやあ、そのままにしておけないと言うらしくつて、もつぱら貴島にとりついて來ているようですね。二三日前も黒田策太郎と貴島の間の連絡係をやつていた黒田の子分が、夜遲く貴島の所へ行つた歸りに野毛の裏街で袋叩きにあつてあばら骨を三本ばかりおつぺしよられて、今死にそうになつています。まあ、貴島も一寸あぶないですねえ。じやあこれで」
言い拾てて立ち上つた。それを玄關に送り出しながら私の頭に國友大助の事が浮び上つていた。東京の頭かぶの男というのが、それでは國友の事であろうか?
「綿貫ルリはその後どうしているか知らんかね? 横濱
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