、肩のへんも、むしり取るのです。兩眼は僕の方へ据えたきりです。あの人の白い胸と肩が闇の中に光つています。
 僕は耐え切れなくなりました。「すみません」ともう一度言い、頭を下げて、逃げ出しました。うしろから、あの人が叫ぶような聲がきこえましたが、何を言つているのかは、わかりませんでした。

 それだけです。僕のした事は、それだけなんです。いえ、それだけでも非常識な無禮な事なんですから、僕はすまないと思つています。どんなにでも、詫びたいと思います。しかし、正直な氣持を言いますと、僕が亂暴を働らいたような氣が、ほとんど、しないのです。かと言つて、ルリさんにさされたと言うのは、やつぱりウソです。いけないのは僕の方です。しかし、どうしてルリさんは、ワンピースを破いたりしたのでしようか? 又、どうして、僕のしかけた事に對して言葉なり動作で拒絶してくれなかつたのでしようか? そのへんが僕にわからないのです。
 どつちにしろ、惡いのは僕です。それにルリさんの家出が、その事に關係があるとすれば、僕はホントにすまないと思います。それに僕はあの人が嫌いではありません。こんな事のあつた後では、すこしルリさんが怖いのは怖いのですが、決して嫌いでは無いのです。ルリさんの身の上に惡い事が起きないようにと祈ります。

        20[#「20」は縦中横]

 次ぎに父の事を書きます。
 これは、非常に簡單です。
 父は去年死にました。八月の終戰の日から、ちようど一カ月目の、九月十五日に、セップクしたのです。
 そのころ、まだ僕は現地に居りました。父と僕とは親一人子一人の二人きりの肉親で、僕が出征した後父は小さな女中を使つて暮していたのですが、東京空襲がはげしくなると、その栃木の山奧から來た女中は「こわい」と言つて泣くので、栃木の方へ歸してしまい、父は青山で一人きりで自炊生活をしていたそうです。終戰から一カ月もたつてから自決したのは、その一カ月の間に、身邊を整理するためだつたらしいのです。あるいは、萬一僕が生き殘つていれば、僕に一目會えるかもしれないと言うような、かすかな望みを持つていたのかもしれないとも思います。しかし、この想像は、僕のダラクした想像に過ぎません。父は僕を出征させる時に、「決して生きて歸るな」と言い、そして、腹の底から、生きて再び會えることは無いことを信じ切つていたようでしたから。
 遺書はありませんでした。遺産もほとんどありません。住んでいる家は借家でした。
「貴島さんの小父さんの姿をちかごろ見かけない」と言つて、隣の人が、なんの氣も無く、家に入つて行くと、どこもかしこもガランと整理してあつて、臺所の板敷に――疊などをよごしては迷惑をかけると思つたらしいのです。そのへんも、たしかに父です。――短刀で腹と頸を突いて、コロリと横になつていたそうです。
 父は近所の人たちからも「貴島の小父さん、貴島の小父さん」と親しまれ、ごく柔和な老人でした。これが元、陸軍少將であつたと言つても誰も信じる人は無かつただろうと思います。
 しかし父は、實に立派な軍人でした。軍人と言うよりも武人とでも言つた方が當つています。
「軍人は、國が、他から侵されて危くなつた時に、國を守り防ぐ任務を持つたものだ。そのために國民の間から選まれた者である。だから軍人は、たえず武力を磨いていなければならん。しかしその武力を發揮してはならぬ。軍人が武力を發揮したら、この國は亡びる。軍人や軍事力は、拔かない刀だ。いつたん拔いたら人も斬るが、同時に自分も死ななければならんものだ。だから、最後まで拔いてはならん。拔く時は死ぬ時だ」
 いつもそう言つていました。以前、軍備縮少に賛成して――と言うよりも、積極的にスイ進する運動をして、軍人仲間から迫害されたこともあつたらしいのです。若い頃、大使館附の武官として、六七年も外國に行つて來たことなども、父の考えに強い影響を與えたらしいのです。
 と言つても父は、變に文化カブレのしたハイカラ軍人ではありませんでした。考えも、することも剛直で、ガンコ一點張りの人です。僕を育てるのに、たしか四五歳頃から、竹刀を握らして、いきなり劍道を教えはじめたことでもわかるでしよう。書きおくれましたが、僕の母は僕を生んで間もなく死にました。たいへん美しい女だつたそうですが、僕はまるでおぼえていません。微かに微かに、なにか、どこか頭の片隅にチラッと影の差すように、そして、そこから、なんかしら、青いような花が匂つている――そういう氣がする。しかし想い出せないのです。
 父は、死んだ母をホントに愛していたようです。たしか父の方で好きになつて貰つた妻だつたようです。そんな事を父は語つたことはありませんでした。いや、僕の母そのものに就て、一言半句、僕に語つたことが無かつたのです。默々として僕を育てただけです。前に言つた通り、表面はただ手荒にボキボキと育てたばかりで、可愛がつているような事を言つたりしたりはしません。しかし、シンから可愛がつてくれました。僕にそれがわかるのです。そして、その事から、死んだ母を、父がホントに愛していたと言うことが、二重に僕にわかるのでした。
 父は遂に最後まで、次ぎの妻を迎えませんでした。僕を繼母に附かせるのが可哀そうだと言うような理由ではなく、僕の母を失つて以來、妻を持つなどと言うことが、まるで考えられなかつたようです。そのへんも、實にアッケ無いほど古武士的で、つまり古風きわまるのです。
 戰爭については、終始一貫して非戰論者でした。戰爭は、避けられるだけ避けなければならないと言うのです。そのために大佐の時に軍を退かなければならなくなつたと言います。だのに、父ほど軍人らしい軍人はいませんでした。軍をしりぞいた後になつても、物の考え方から日常生活の末々に至るまで、まるで戰陣にのぞんだ軍人そのままの剛直で簡素きわまる生活でした。父は僕を軍人にしたかつたようです。なぜなら、彼の考えでは、軍人こそ人間の中で最もすぐれたものだつたからです。ですから、僕が少年時代に、「軍人になるのはイヤだ」と言い出した時に父は、世にも悲しそうな顏をしました。しかし自分の考えを僕に強いようとはしませんでした。「人間は、自分が一番やりたいと思うことを、しなければならん」と言つて、僕が將來文科系統の勉強をしたいと望んだことにも賛成してくれたのです。

 滿洲事變から、日支事變と進んで行つた頃の父のそれについての氣持や態度は、僕にはわかりません。僕はまだ小さかつた。それに、そのような事について父は、いつでも、何も言わない性質です。戰爭が太平洋戰爭に入つてから、敗戰の色が濃くなり、そして僕が學生のままで出征することになつてからも、父は、戰爭について、どんな意見も吐きませんでした。
 ただ、太平洋戰の最初、眞珠灣攻撃の報知を聞いた時に、ラジオの前で父は眞青になつて、
「しまつた!」
 と言いました。そして二三日、眼を赤くしていました。泣いていたようです。世間一般が、その報知に狂喜している最中にです。「しかたが無い。日本は負ける。そして亡びるかも知れん。しかたが無い。そんな風に順々に日本というものが、なつて來たのだ。今さら、もうどうにも出來まい」と言つていたのを僕はおぼえています。「同じ負けるにしても、なんとかして、日本が根こそぎ亡びてしまわぬようにしなければならぬ。われわれに出來ることは、それ位の所だ」とも言いました。
 そして、父は父らしいやり方で戰爭に協力しました。實に寂しそうな顏をして、しかし、やつぱり父らしく懸命に全力をあげて協力していたようです。それは、僕が眺めても非常に矛盾した姿でした。しかし、それを僕は笑う氣にはなれませんでした。今でも笑う氣にはなれません。人は笑つたらいいと思います。僕は笑えません。

 僕は父が終戰の次ぎの月に自刄したと聞いても――悲しんだのは悲しんだのですが、それほど意外な氣はしませんでした。遺書なんか無くても、僕には父の氣持が手に取るようにわかるのです。父は軍人として、國に殉じただけです。父は、生きては居られなかつたのです。
 僕という人間は文字通り、この父に育てられ、僕の人間の内容は全部が父の生みつけてくれたものです。僕は、自分の全部で、父を愛しているだけでなく、いま尚、父を信じているのです。まちがつていたのは父ではありません。父以外の力、父にはどうする事も出來なかつた力――それは歴史の流れとも言えるでしよう――です。
 父は戰爭を好みませんでした。しかし、ホントの軍人でした。國を守るために、どうしても戰わなくてはならなくなつたら、戰つた人です。それを以て自分の義務としていた人です。その義務を神聖な仕事だと思つていた人です。刀を拔いてはいけない、しかし、どうしてもどうしても拔かなければならない時には拔く。それが軍國主義ならば、父は軍國主義者だつたのです。それが帝國主義ならば、父は帝國主義者でした。それが間違いだと言われれば、僕は反對する事が出來ません。しかし――いやいや、僕は何を言おうとしているのだ? いえ、僕は父をベンゴしようとしているのではありません。父は正しくなかつたかも知れません。まちがつていたのかも知れません。すくなくとも父を父のような軍人に育て上げた日本という國のありかたがまちがつていたのだと言えます。そうです、まちがつていました。父はまちがつていました。まちがつていた日本の、日本人の一人として、たしかに、まちがつていました。
 だけど、それでは何が間違つていないのですか? それを僕に與えて下さい。それを僕に與えて下さい。そうです、今いろんな人が、それらしい物を與えてくれています。新聞や雜誌や政治などの議論で、あちらでもこちらでも有りあまる程與えてくれているように見えます。しかし、そのどれもこれもホントのものでは無いような氣がします。どれも信用出來ないのです。なにかしらゴマカシのような氣がします。それは議論そのものに責任があるのではなく、戰爭のおかげで僕自身が何もかも信じられなくなつているためかも知れません。そうです、たしかにそれがあります。現在、方々であの戰爭がまちがつていたと言い立てている人たちの大部分が、戰爭中にそれを「聖戰だ聖戰だ」と言つて、僕らを戰爭へ驅り立てた人たちと同じ人たちなんです。そんな連中から驅り立てられたのはテメエたちが馬鹿だつたからだ、と言われれば、それまでです。たしかに僕らは馬鹿でした。しかし、僕らにどうしてそれがわかつたでしよう? どうして僕らは賢こくあり得たでしよう? 僕らは若くて、まだ無知だつた。それが惡いと言われれば、たしかに惡い。文句無し。しかし、そうだつたんだ。今でも、そうかも知れん。だから、方々であれがドロボウ戰爭であつたと言われているのも、ホントは嘘かも知れないと言う氣がするのです。裏には裏が有るかも知れん。戰爭中「聖戰々々」と言われたのが嘘であつたのと同じように、今度も嘘かもわからない。そのどつちも、僕らの無知のために、ホントの事が見えないのかも知れない。そういう氣がするんです。猿がフライパンで一度大ヤケドをすれば、それにこりて、どんなフライパンでも疑うようになる。あれです。僕らは猿です。そして、いつになつたら猿でなくなることが出來るでしようか? また、結局、誰が猿で無いでしようか?
 とにかく、僕らは、コリました。それは僕のせいでは無いのです。とにかく僕には腑に落ちない事だらけです。總てが分らないのです。
 日本の侵略戰爭をベンゴしようなどとは僕は毛頭思つていません。その反對です。僕はむしろその被害者の一人なのです。あれは、まちがつていただけでなく、僕にとつて憎いのです。いや、まちがつていてもいなくても、僕にはあの戰爭は憎い。あの戰爭は僕から父と、それから僕の青春の全部を奪い取つてしまつたのですから。
 しかし問題はそれだけでは片附きはしません。日本のドロボウ戰爭が不正であつたという事は、わかつた。でも、それだけでは片附かない。それだけでは片附かない。それだけでは、なん
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