腹の底から信じていられることがわかりました。まるで、戀人のことを語るようにMさんはあなたに就て語られましたのです。
 その事を、僕は一度Mさんに言つてやつたことがあります。するとMさんは怒り出して
「君なんぞに何がわかるか。あんな奴を、俺が好いてたまるか! あれは惡魔みたいな野郎だ」と言つて、僕の額をゲンコツでゴツンとこずかれました。醉つてもいられましたが、惡魔だと言われるのです。そのあなたを、やつぱり、戀人のように大事に思つていられるのです。その二つが、その時分の僕には、何のことやら、よくわかりませんでした。だからMさんが醉つてデタラメを言つていられるのだと思つていました。それがデタラメでは無かつたのだ。兩方ともホントだと言う事が、ちかごろになつて僕にすこしわかつて來たのです。僕は急にあなたに會つてみたくなつたのです。そして先日訪ねて行つたわけなんです。
 どうも、うまく書けません。頭が惡くなつて、ペンの先がチラチラして、順序がうまく立たないのです。
 僕はあなたを、好きになつたらしいのです。好きになつたなんて、失禮な言いようである事は僕も知つていますが、ほかに言いようがチョット無いものですから。
 先日あなたにお目にかかるまで、あなたの事を僕は好きでも嫌いでもありませんでした。そして、お目にかかつて、僕があなたの前で泣いた時に、あなたは一言も言われず、ただ怒つたような顏をして、だまつていられました。僕に同情したり、僕を慰さめてくださつたりは、なんにもなさらなかつた。僕は實にホッとしました。そのためか、僕は、あの數十分間、ホントに、久しぶりに、シンから泣けました。もうどんな事をしても救われる見こみの無い、暗い暗い穴の中で泣きました。あなたは一言も、僕を慰さめたり同情したり勵ましたりするような事は言われませんでした。そういう顏つきもなさらなかつた。ただ、怒つた眼をして、僕を睨みつけていられたのです。
 それで僕はあなたが好きになつたのです。「好き」と言うのは、たしかに、當りません、あなたには冷たい所があります。きびし過ぎるところがあります。人を突き放すところがあります。すがり附いて行くと、叩きつぶされるような所があります。ですから、メソメソしたような氣持で好きになつたりは、できない人です。すくなくとも僕には、そんな風な人にあなたは思えます。ですから僕には、あなたが良いのです。そうです、あなたが良いのです。ピッタリするのです。好きと言うよりも、良いと言う方が近いです。
 ですから、僕はあなたからMさんの事について教えていただきたい事があるだけで無く、この僕の事をわかつていただきたい氣がするのです。そうです、こんな手紙を書く僕の氣持は主にそのためです。

 又居る場所を變えました。前に居た室から四五町しか離れていない、ゴタゴタしたマアケット街の奧の、電車のガードの下の家です。食べる物やタバコは、黒田の家の者が一日に二度はこんでくれるので不自由はしません。
 今度の室は、中華料理のヘットの匂いがします。そのため時々頭痛がして、食慾がまるで起きません。――
 前の續きを書きます。と言つても、前にどんな事を書いたか、忘れた所もありますが、讀み返して見る氣になりませんので、かまわず、アレコレと書きます。
 この前、東京のRの事務所でお目にかかつた時に氣附いたのですが、それまで僕は僕のことをMさんが生前にあなたに對して話しておいて下さつたものだとばかり思つていたのが、實はMさんは、なんにも僕の事をあなたに話されたことが無いと言うことです。それに氣附きました。いかにもMさんらしいと、おかしくなります。ですから、僕がイキナリ訪ねて行つたりして、あなたはサゾびつくりなすつたでしよう。サゾ、きちがいじみた奴が現われたと思われたでしよう。すまないと思います。僕は實は甚だ平々凡々の人間なのです。その點おかしくてなりません。
 それで僕は自分の自己紹介をします。僕がどんな人間であるか、僕のこれまでのケイレキみたいなものを、ごく簡單に述べます。それには先ず、どうしても僕の父親の事を書かなくてはなりません。父が無くては僕という人間は生れて來ていないのですから。いえ、それは生物學的に親が子を生んだと言う事だけではありません。父という者が居て、僕を育て上げてくれなかつたとしたら、僕という人間はこんなような人間にはなつていなかつたろうと言う意味なんです。誤解しないで下さい。僕は現在の自分を三文の價値もない人間だと思つています。ホントです。蟲ケラみたいに、生きているから生きているだけです。しかし、僕は僕をこんなふうに育て上げてくれた父を尊敬しています。なつかしいと思います。
 たしかにムジュンしています。それは知つています。でも、そうなんです。それで父の事から書きます。
 しかし、その前に、チョット、綿貫ルリさんの事を書いて置きます。この前佐々が此處に來た時に、あなたが、しきりと「貴島君はルリに一體どんな事をしたんだろう?」と氣になすつていたと言いました。それなのです。あの晩のことをチョット話して置く必要があると思うのです。

        19[#「19」は縦中横]

「と言つても、實に簡單な話なんです。あの日、あなたの所でルリさんに初めて會つた時は、ただ勇敢な女の人だと思つただけで、特別な氣持は起きませんでした。普通の若い娘としては、かなり變つた所がありますが、しかし、變つた女なら、ほかに僕はいくらでも知つているのです。ですから、かくべつ、親しくなりたいなどとは思わず、あなたがたの會話を傍聽していました。
 僕が不意にあの人に引きつけられるような心持になつたのは、あなたが食事をしに中座されてからです。と言つても、あの人と僕との間に特別の話が出たりしたわけではありません。それまでの話題であつたR劇團のことなどを話しただけです。あの人はR劇團の男の連中のダラシなさの事を手を振つたりして話しながら、僕の方にだんだん寄つて來るのです。夢中になつて、横の方から僕の肩を押すようにして身體を寄せて來ました。見ると小鼻や口のわきに細かい汗のブツブツを浮かせています。
 僕は壓倒されるような氣がしました。なにか、いじめられているような氣がしました。すこし息苦しくセツないような感じでした。後から思うと、その時に、僕はルリさんに、引きつけられてしまつたらしいのです。しかしその時にはあの人からいじめられているよう氣がしたのです。僕は、小學校の二年か三年の時分、遠い親戚の節ちやんという、僕と同じ年の美しい女の子から、誰も居ない應接室のソファの所でおさえつけられて泣いたことがありますが――僕はそのころ弱蟲の少年で、節ちやんと言うのは、僕より力の強い、オキャンな子でした。――その時の事を僕は思い出しました。
 そのうちにルリさんは僕の困つているのに氣がついて、自分でもビックリしたようで、暫く默つて僕を見詰めていましたが、やがて笑い出しました。僕も笑いました。それから間も無く、あなたが戻つて來たのです。
 あとの事は、あなたも御存知の通りです。そしてルリさんも僕も歸ることになり、あなたからルリさんを送つて行つてあげたらと言われ、僕は、うれしい氣持がしました。同時に一方で、こいつは困つたと思いました。一度に兩方の氣持がしました。そしてドキドキしました。それはルリさんをホントに好きになつてしまいそうだと思つたためです。それは僕には困るのです。いや、そうではありません、僕は女の人をホントに好きになる事の出來ない男なんです。好きになつてはいけない人間なんです。いや、ですから、ルリさんを好きになる筈は無いのだ。だから――僕は何を書いているのか、自分でもわかりません。その時も自分で自分の氣持がわかりませんでした。わからないままで、うれしい氣がして、そして、困つたなと感じたのが事實です。
 でも、しかたが無いので――いや、しかたが無いなどと言うのは嘘で、心の中では浮き浮きしながら、僕はあの人を送つて行きました。途中、かくべつ、まとまつた話はしません。ルリさんの方は、いろんな罪の無い事を次ぎ次ぎと話しかけますが、僕はあまり口はききませんでした。
 高圓寺の驛を出て歩き出すと、ルリさんは腕を組んでくれと言いました。僕がためらつていますと「暗いから、キビが惡い!」と言つて、僕のわきの下へ自分の右腕を[#「右腕を」は底本では「右腕へ」]突つこんで來ました。そうして十分以上歩き、僕はすこし息苦しくなつたので、早く一人になりたい氣がして、
「お家は、まだ遠いんですか?」ときくと、
「いえ、もう直ぐ。そら、灯が見えるわ。あれよ!」と言つて、あいている方の手で、まつくらな燒跡の向うにポツンポツンとついている燈火を指しました。「もう此處まで來れば、歸つてくだすつてもよろしいわ。ありがとう存じました」
 その時僕はギクンとしたのです。此處でこのままこの人と別れる。別れれば、もうこれつきりで永久にこの人とは別れることになる。そういう氣がした事も事實です。しかしそれだけではありません。どう言えばよいか――そこで、その燒跡で一人になつてしまうことが、僕には、耐えきれなかつた。寂しいのです。口では言えない位、ジーンと寂しいのです。胸がしめつけられるようになつていました。
 僕がいつまでも返事をせず、動きもしないで突つ立つているのでルリさん變に思つたのか、腕を組んだまま、身體をクルリとひねつて僕の顏を覗きこむようにしました。その動作のため、すこし汗ばんでいるようなルリさんの匂いが、ワンピースの中を這い昇つて、フワッと僕の顏に來ました。トタンに、僕の頭がクラッとしました。
 そのあと、なにごとが起きたのか、僕はほとんど憶えていないのです。憶えているのは、僕が無意識にルリさんの身體をうしろから片手で抱えこむようにしたことです。それから、自分の顏をルリさんの首筋のうしろに持つて行つたことです。ワンピースの襟を引きさげるような事もしたようにおぼえています。すこしはだかつたルリさんの背中に顏が觸れました。その背中が、思いがけなくヒヤリと冷たかつた。それだけです。僕はそれだけをするにも、決して亂暴な荒々しい事をしたおばえはありません。スルスルスルと、ほとんど力をこめないで、してしまつたのです。ルリさんは、はじめ、「あつ!」と口の中で叫んだようでしたが、あとは石のように默つてしまつて、僕のするままに委せていました。むしろ、なんだかルリさんの方でそうされるのを迎えているような調子がありました。だつて、僕はそうしながらも、いや今になつて思い出して見ても、自分が進んでそんな事をしたと言うよりも、ルリさんからそうさせられたような感じでした。自分を辯解するために嘘を言つているのでは無いのです。嘘ならもつと僕は上手につきます。嘘をつく氣なら、初めからこんな事は話しません。
 氣が附くと、ルリさんの身體が、僕に抱えられたままで不意にグタッとなりました。
「いけない!」と僕は思いました。
 急に頭がハッキリして、ルリさんの身體を離しました。ルリさんはすると、グルリと此方を向いて、僕を見つめました。睨んでいるような大きな眼でした。暗い中でそれがハッキリ見えました。からだをガタガタふるわしているようです。僕は恥かしくなりました。自分が小さく小さくなつて行くような氣がしました。そのへんに穴でもあつたら飛びこんでしまいたくなりました。
「すみません!」
 僕は口の中で言つたのです。すると、ルリさんが僕を睨みつけながら、喰いしばつた齒の間から、
「き、き、き!」と言いました。貴島と僕の名を言うつもりなのか、昂奮し怒つたあまりの齒がみの音なのか、わかりませんでした。僕は彼女の眼にいすくめられて頭を垂れました。暫く時間がたちました。
「なぜ、なぜ、こんな事を――貴島さん! 貴島さん!」
 そう言いました。怒りに燃えた、刺すような聲です。そう言いながら、彼女は、自分の胸のVの所に右手をかけると、ベリリと言わせてワンピースの布を下へ向つて引き裂きました。ベリベリと
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