かも知れないし、又はNが言うように、花が散つたかも知れません。そんな事はどうでもいいんですよ。どつちだつて大した事ぢや無いんですからね。ただ、そうしてルリの裸かのいろんなポーズを見ながら、貴島のことをフッと思い出したトタンに、キラリとまるで電氣のように僕にわかつた事があります。
「それは、ルリが貴島を戀しているんじやないかという事です。そうです、あの女は貴島を憎んでいます、それは事實のようです。それでも、貴島を戀しているんじやないですかねえ。そう思つたんですよ僕は」
17[#「17」は縦中横]
佐々兼武は、自分一人でベラベラとしやべりたて、言うだけ言つてしまうと、たちまち、やつて來た時と同じ唐突さで、歸つてしまつた。
まるで音を立てて運轉している機械のように早く、鋭どく、そして傍若無人である。忙しいのも忙しいらしい。黨員としての働きもグングンやつているようだし、バクロ雜誌の編集者としても能率をあげているらしい。同時に女と遊んだり酒を呑んだりダンスをしたり――生活を樂しむ、とだけでは足りない。樂しむとか味わおうとか云う考えが起きてくる隙が無い位の急ピッチで毎日を生きている。たとえば、黨の地域鬪爭の重大問題を論じ立てる時の熱心さと同じ熱心さで猥談をしている。そうしてニタニタ笑つているかと思うと、次ぎの瞬間には、税務署の役人の中にどんなにたくさんの汚職官吏がいるか、引揚者寮の住人たちが如何に窮迫した生活をしているか等について、現に自分が調べて來た實例を口からアワを飛ばしながら語つて、憤怒のために飛び出しそうになつた兩眼に涙を浮べる。どれがマジメで、どれが不マジメだなどと言う區別はない。戰爭のために全く空白になつていた生活――青年が自分の生活を充たし得る一切の事がらのピンからキリまでのことを、大急ぎで同時的に詰め込んでいると言つた調子である。現實に向つてただビンビンと身體をぶち當てて行くだけで、人の意見などを落着いて聞いている氣持の餘裕はない。第一、その暇が無いようだ。以前から共産主義に熱心な青年の中には、同じ陣營の先輩たちを除いて、人生や社會について自分たちとは別の考え方をする年長者を、何の理由も無いのに最初から全く信頼しない習慣を持つた者が多いが、そういう所が佐々にも有る。しかし、彼の場合は、それだけではない。共産主義者であるからと言うより、もつと深い、つまり共産主義などには關係の無い、前時代者に對する不信があるらしい。「お前さんたちに話したつて、何がわかるものか!」と言つたような輕蔑だ。そして、その輕蔑を、かくそうとしない。それほど強く輕蔑しているとも言えるし、單純だから、かくそうと思つても、かくし得ないとも見られる。
長々と綿貫ルリのことを語る佐々の調子には、私に對する不信と輕蔑がこめられていた。語り終るや、それについての私の意見や感想など聞こうともしないで歸つてしまつたのも、それだ。「深刻ヅラして坐つていたつて、オツサンにやホントの事はわからんよ。話だけは聞かせてやるがね」と言われたような感じだ。
そこには、男らしくピリリと冷酷な快感のようなものが有る。ベタベタと尊敬されたり信頼されたりするよりも快よい。それに無理も無いとも思うのだ。あの若さで、戰爭の中をくぐつて來なければならなかつた。ほかにどうなりようがあろう? 戰爭に依る文化教養の空白だとか虚脱だとか言い立てて、とがめる事は出來よう。いくらとがめられても、しかし、青年たちにとつて、ほかに、どうなりようがあつただろうか? 青年は、いつでも善かれ惡しかれ青年らしく輕々と生きる。そのために時代と時代との間に陷沒が起きても、それがそうでなければならぬ事ならば、それでよいではないか。誰にその陷沒が埋められるだろう。もし埋め得るものならば、それは、倫理學者や文化主義者たちの努力などでは無くて、青年自身が生命を燃やして生きることで、埋めて行くだろう。……
「そうだそうだ、君たちは、俺なんぞを輕蔑しろ。それでよいのだ。それ位でなければダメだ。しつかりやれ」正直、佐々に對して私はそんな氣がしたのである。
しかし、話の内容には、チョット困つた。
佐々兼武は、話を面白がり過ぎて、誇張している。多少は嘘も交ぜているようだ。しかし大體は嘘では無いらしい。ルリが自分の美しい肉體をさらして裸體寫眞のモデルを始めている。……家を飛び出し、R劇團をやめたとなれば、すぐに生活の事があろうから、金を稼ぐためもあろう。いくら困つても、親戚知友をたよつて行く女では無い。それ位のことはするだろう。
だが、それにしてもすこし度が過ぎる。いつたん、そこまで行つてしまえば、もつと極端な所まで落ちこむのは、紙一枚だ。いや既に現在、佐々は裸體モデルになつている所だけを見て來て、それだけだと思いこんでいるのだが、他にどんな事をしているか知れたものでは無い。佐々の話の中のNなどと言つた、永年そのような世界でそのような事をしている男は、別に差し當りの惡氣は無くても、世間を知らない若い女の一人や二人、どんな所までも追い込んで行ける。そういう消息は、佐々などより私の方がよく知つている。若い眼はどんなに鋭くても一面しか見ない。物事の裏の裏の、きたないドブドロまで見る事は無いのだ。
問題はルリの、あの氣性だ。それは強い。しかしあんなふうの強さほど、弱いものは無いとも言える。強さが一方の方へグッと傾いている時に、その傾きかたが激しければ激しいほど、後ろからヒョイと押されただけでも、ガラガラとすべり落ちて行く穴の深さだ。當人が自分の意志で前へ進んでいるのだと思つているだけに、轉落は加速度を増すのだ。
ハラハラして私は佐々の話を聞いた。にわかに自分の考えを述べたりすることが出來なかつたのも、そのためである。それから二三日の間、それが絶えず頭に來た。義兄の小松敏喬の方へ知らせてやつて、一應、家へ引戻すなり何なりさせ、自分の引受けている責任のようなものも、のがれようとも思つた。しかし、あのルリが、誰から何と言われようと、おとなしく家へ戻るとは、考えられない。この間會つた時の調子では、ヘタに引き戻そうとしたりすれば、更に遠い所へ逃げ走つてしまう可能性がある。すると、その事を充分に言い添えた上で、小松家の人に話して、ルリに對してすこしも手出しをしないで、ただ彼女が無事で東京に住んでいることを知るだけで滿足しているように言うべきであろうか。だが、小松敏喬はじめ、話を通して想像される小松家の人々が、それだけで滿足しておれる人たちでは無いように思われる。すると、事態をこれ以上惡化させないためには、小松家の人々には氣の毒だが、ルリの事を知らさずに、このままソッとして置くほかに無い。とにかく、ルリが今どんな事を考え、どんな事をやつていようと、すくなくとも、所在だけはハッキリしているのだ。
だが、それで、よいだろうか?……いろいろに考えた。いずれにせよ、私自身、近いうちにそのNのスタジオを訪ねて、蔭ながらでもルリの所在をたしかめて來よう。と考えながら、佐々の話の中のルリが、その白い身體をひろげたり、伸ばしたり、くねらしたりして、ユックリと動いている姿が、私の眼の前に浮びあがつて來た。それを現實に見たいのだ。責任とか何とか殊勝らしい事を自分自身に言い聞かせながら――いや、たしかに、それも多少あることも事實だが、ホントは自分も見たくて、どこかウズウズしている。たしかに、私も「動物のオスの一匹」だ。ニタニタと佐々兼武の笑う顏がのぞいた。
そんな具合でなんとも決しかね、一方自身の仕事に追われているうちに數日が過ぎた。その間、この事件について何事も起きず、そのうち、貴島自身がでなければ又佐々でも現われれば、事はひとりでにハッキリしようと待つ氣持が有つた。そこへ、三四日して、人は來ずに、貴島から分厚な封書の速達が來た。急いで書いたものらしく字は亂暴だが、以前小説やシナリオを書いていたと言うだけに、書き方は相當馴れている。ペンで書いた部分や鉛筆で書いた部分が、入れまじつていた。
次ぎに、それを寫してみよう。
18[#「18」は縦中横]
「――」
先日は失禮いたしました。
あの晩、横濱の用事をすませて、すぐ荻窪へもどり、お目にかかれる豫定でいましたが、どうしても東京へ歸れなくなり、あなたをスッポカした結果になつてしまいました。申しわけありません。
僕があの晩東京へ歸れなくなつたわけは、佐々からお聞きくださつたと思います。同じ理由がまだ續いているため、まだ、こちらにおります。當分東京には歸れないと思います。實はこれは、あの晩荻窪で、聞いていただくつもりでした。しかし、當分お目にかかれそうに無いので、その代りに、こうして書いてみようと思つたのです。あるいは、口でしやべるよりは、書いた方がよくわかつていただけるかも知れないと言う氣もするのです。僕はひどいどもりなんです。でも、人は僕がドモルのを知りません。普通のドモリとはすこし違つて、口を開いて何か言い出す前に、おなかの中でドモるのです。頭の中がワーンと鳴つてしまつて、最初言おうと思つたことが頭の中一杯に反射してしまつて、まるでアベコベな考えが出て來たり、又それを打ち消したり、等々、そしてついに何も言えなくなりだまつてしまう事が多いのです。事務的な事がらなら、割にスラスラ言えます。また、いつたん物を言いはじめてしまえば、その先きは表面の言葉の上ではドモりません。頭の中がドモるのです。これは小さい時からですが、戰爭中に一時それが完全に治つたのですが、戰爭後になつたら、前よりもひどくなりました。自分の思うことの四分の一も口では言えないのです。馴れていますから、別に苦しくはありませんが、人に對して惡いなと思うことがよくあります。
文章に書いても完全には表現できませんけれど、でも、口で話すよりは、すこしましです。
今、ヘンな所にたつた一人で居りまして、誰からも邪魔されません。危險があるので、外へ出て行けないので。いえ、別に大した事ではありません。僕自身は、なんにも危險なんか感じていないのです。ただ、周圍の人たちがそう言うのです。強いてそれを押し切つて外に出て行く用事も別に有りませんから、ボンヤリして此處に坐つているのです。しめ切つた窓の外をハシケの汽笛の音が、時々通り過ぎて行きます。ネバネバしたような匂いが板壁のすき間から這い込んで來ます。これはアヘンの燒ける匂いです。しばらく前まで、この匂いがして來ると僕は頭がクラクラしましたが、今は、好きになりました。これを嗅いでいると今までスッカリ忘れていた自分の小さい時分の事などを、ヒョイヒョイと思い出すことがあるのです。とにかく、ヒマでしようが無い位に時間があります。一つには、そのタイクツを埋めるために、こんなものを書くのです。よつぽどお暇の時に、極く輕い氣持で讀んでください。
でも僕は、あなたに何を語ろうとしているのでしよう? それから、なぜ、あなたに對して僕は語らなければならないのでしよう?
理由が無いことはありません。Mさんの事をもつとくわしく知りたいと言うことです。そしてMさんの友達や知つていられた人達のことを、なるべくたくさん僕は知りたいのです。その譯は、あとで聞いていただきます。とにかく僕には、その必要があるのです。Mさんの友人の方々の中で、Mさんと一番深い所でつながつていた友人の一人が、あなたなんです。その事は生前のMさんが幾度か僕に話されたので、僕は知つているのです。Mさんは、時によつてあなたの事をケナされました。「あの男は馬鹿だ」と言つて、ペッとツバキを吐き出された事だつてあります。又、時によると、あなたを世の中で一番正直で立派な人間のように語られる事もありました。かと思うと、あなたほどエタイの知れない、冷酷な、憎むべき動物は居ないと言つて、憎み切つているように語られました。そして、そんなふうに、いろいろにあなたを語られるあらゆる場合に――憎々しい口調で語られる場合にもです、Mさんが
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