いるのは疊の上で死ぬか、ザンゴウの中で死ぬかと言う事だけだ。死は同じだ。だから生も同じだ。疊の上で生きるかザンゴウの中で生きるかの違いだけだ。そして俺たちはザンゴウの中で生きただけである。俺たち青年はそこでしか生きられなかつた。ほかで生きることは許されなかつた。いずれにせよ、そこが俺たちの唯一の生きる場所だつた。悲しかろうと苦しかろうと、戰爭は、實は俺にとつて、青春の「生」そのものだつた。してみれば、それは俺の生活の中絶なんかでは無かつた。貴島勉という人間の少年時代からの生活の續きであり、それから現在こうしている貴島勉へ續いている生活の一部分だつたのだ。戰爭中の生活が自我の歴史の上の中絶だと思つたり、虚無であると思つたりするのは、弱虫の言いわけに過ぎない。「戰爭に驅り出されたために、自分の人間性はメチャメチャに叩きこわされたのだ。戰爭が俺をこんなふうにしてしまつたのだ」などと言つて、ゴロツキになつたり強盜になつたりモルヒネ患者になつたりしている自分たちは、責任を他へおつつけようとする虫の良い卑劣漢に過ぎない。戰爭中に、權力から強制されてした事であろうと何であろうと、俺たちは自分のした事
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