のである。以前私が勞働組合運動に出入りしていた頃に附き合つた自由勞働者などの中に、ややこれに似た男が時々居たが、それともすこし違うようである。後でわかつた事だが、これは貴島に對しても佐々に對しても、その他のどんな人間に對しても同じだつた。茶を呑み、タバコをふかしながら、ズングリムックリとアグラを組んで坐つて、すましている。
 私は貴島や佐々や、貴島の生活や仕事や、久保自身のことを、ボツボツたずね、それにはチャンと返事をするが、深い事はなんにもわからない。岩を撫でているようなものである。何かをすこし突込んで聞くと「さあ、俺あ知りませんねえ」と言う。「いやさ、君の考えでは、そこんとこは、どんなふうになつていると思うだろうか?」といつた風に追いかけると、「わからんなあ」「いや、君が想像して見てさ」「想像なんか、できんなあ」
 私もアグネてしまつた。夜も更けて來たし、貴島の歸つて來るらしい氣配は無い。今夜は此處に泊る以外に無いらしい。
「貴島君が、人を搜したりする事の上手な人といつしよに暮していると言つていたが、君のことかな?」と私がたずねると、
「さあ。そいつは、佐々のことを言つたんじやないかなあ」と言つてやがてビックリする位の大あくびをした。
 取りつく島は無い。あきらめて私は室の隅に横になつた。それを見ると久保は、ノソリと立ちあがつて、自分の寢床に敷いてある毛布の一枚を取つて私に貸してくれた。そして彼自身も、その二段に押入れのようになつた下の段にもぐりこみ、腹ばいになつて、ポケットから出した手帳に又なにか書きこみはじめた。同じような黒つぽい、よごれた手帳が、ロウソクの立ててある石油箱の中に二三十册ギッシリとそろえて入れてあるのに私は、ズット前から目をつけていた。
「君はそうやつて、何を書いているの?」と試みにたずねて見たが、「やあ」と薄笑いを浮べただけで相手にならなかつた。
 それがやつぱり一種の日記のようなものであることを私が知つたのは、その次ぎの日の朝になつてからだ。水汲みと朝食のオカズを買いに彼が出て行つたあと、「久保君は手帳に何を書いているんですか?」と私が質問したのに、佐々兼武がニヤニヤ笑いながら默つて久保の上衣のポケットからその手帳を拔いて見せてくれたのである。普通の日記とはすこし違つている。自身のその日の生活やそれに伴う感想などはほとんど書いて無い。自分の見聞した物や人の記述だけである。記述と言つても文章にはなつていない。味もソッケも無い單語と數字が羅列してあるだけで、稀れに簡單な見取圖のようなものが描いてある。そのすべてに、何の解説も附けて無いので、第三者が讀んでも、何の事やらわからない個所の方が多い。もつとも、書いてあることが全部わかつたとしても、格別變つた事は書いてないらしい。平凡な一勞働者の日常の見聞についてのラクガキ程度のものであるようだ。むしろ退屈な手帳である。變つているのは、丹念さだけである。なんのために、こんなものを飽きずに書くのか、佐々にもわからないと言う。「子供がビイ玉やボタンなどをむやみと集める――あれと同じじやないですか」と言つた。その一番新らしく書かれた個所に、
「三好十郎。近眼鏡。五尺三寸。肩はば廣すぎる。ヒタイ廣すぎる。採點八十五。キジマの事を、しつこく聞く。神經衰弱。ホクロに毛が生えてる」とあるのには笑つてしまつた。……それは後の話。
 さしあたり私は非常に疲れていた。以前から私の身體には、ずいぶん變つた事が失つぎ早やに起ることは珍らしく無い。しかもそれらが、普通の文士や劇作家などの身邊に起る事がらとしては、すこし――毛色が變つていることが多い。だから今度の事を左までに異樣なことには感じていない。しかしそれでいながら、二三日前のルリの失踪(?)に續いて今日半日の私の見聞の中に、何か妙に私のどこかをおびやかすようなものがある。しかも私の眼に見、耳に聞き得るのは、事件や人物の極く僅かの露頭だけであつて、事件や人物の全貌は、氷山に於けるがように、水面下にかくされている。いやもちろん世の中の事一切が或る程度まで、そうであるには違い無い。しかし今の場合は、これがすこし甚だし過ぎる。私が疲れたのも、そのためらしい。しかもそれらの全貌をいくらか明らかにし得たとしても、そこから別に何の得る所も無いだろう。ルリの事にしたつて、彼女も既に子供では無し、私との間に特殊の關係が在るわけでも無いのだ。私などが何をガチャガチャと騷ぐことがあろう。……そう思いながら、しかし完全にはそう思いきれないモヤモヤした氣持で、あおむけに寢て、毛布をアゴの所まで引き上げて、ボンヤリとしたロウソクの光に照らされた壕の天井のコンクリートの面の雨じみを見ていた。その間に、私はグッスリと眠りこんでしまつたらしい。

 何か激しい人聲
前へ 次へ
全97ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング