、かと言つて、くろうととも取れない。後になつてわかつたが、果して、以前藝者の下地つ子を一二年やつて、終戰後、ダンスホールに入つてダンサアをしている女だつた。久保は食事をする氣らしく、ポケットから紙包みのパンを取り出したり、隅の箱の中から乾物の魚ののつた皿を出して來てウスベリの上に並べながら、女をジャマにする風も無いかわりに、歡迎する色も無い。
「ホントにどうしたんだろう? これで三度目よ、ここへ來るの。今夜なんか一時間の上も待つていたのに。チッ!」ブツブツと一人ごとのように言つて染子は、乳房の上を兩腕でグッとしめつけて、芝居じみたしぐさで、つらそうな吐息をついて見せた。それが大げさで芝居じみているだけ、しかしかえつて變に實感をはみ出させた。「しどいわあ!」
「貴島に、なんか用かね?」
「用? フフ。そんな――いえ、そうね、用だわよ。もうあんた、このひと月ぐらいホールにも顏を見せないんだもの」
「忙しいんだろ」
「どうだか。……よその又、女の人とでも仲良くしてるんじやない? 久保さん、あんた知らない」
「知らんなあ俺あ」
久保はモグモグと口を動かしてパンを食つている。その無心な樣子を見てクスリと笑つた染子は、それまで指先でいじつていた線香の燃え殘りを鼻先に持つて行きながら、私の方へ流し眼をくれた。
「んだけど、染子さんは、ここへ來るたんびに、どうしてそんなもの燃すんだい?」
「だつて、良い匂いじやなくつて?」
「そりやそうだけど、でも、今どき、そんなもん高えんだろ?」
「フフ。貴島さんね、いろんな匂いが、とても氣になるのよ」
「そうかなあ」
「氣が附かないのあんた、いつしよに住んでいて?」
「……すると、貴島のために燃すんだね? そうかあ」
「そいじや、あたし、歸ろうつと!」言いながら手を使わないでスラリと立ちあがつた。狹い場所なので、立ちあがつた女の着物のスソがめくれてフクラハギのへんまでが、鼻の先に見えてしまう。變だと思つたら、この女は下着を一切つけないで、キンシャの着物を素肌にじかに着ているようだ。
「せつかく來たんだから、もうすこし待つて見りやいいのに」
「だつて、どうせ今夜も歸つて來ないんでしよ。いいわ、又來る。こいからホールへ行つて見る」
「お茶でも入れようと思つてたのに」
「久保さんが? ハハハ、そりやこつちで願いさげだ。何を飮まされるか知れたもんじや無い」
「フフ、そんな君、いつでもきたなくしとくとはきまつて無いさ」
「いいわよ。そいぢや、貴島さんにそう言つといてね。このままにしてうつちやりつぱなしじや、あんまりひどい。宙ぶらりんで私どうしていいかわかんないから、とにかく一度逢つてちようだいつて。よくそう言つといてね。こいでもあんた、ただのチンピラの娘つ子とは違うんですからね。ホホ!」と不意に花が開くように笑つて、私の方へ色つぽい目禮をしてから、踊りの手のような身のこなしで階段に足をかけてヒラリと消えたかと思うと、
「あのね!」と今度は、暗い中から顏だけを、さかさまにのぞけ、白いアゴで室の隅にぶらさがつているカーキ色のズボンを指して「久保さん、それあんたんでしよ? ホコロビ縫つといたげたわよ」
言うなり、顏はスッと消えて、たちまち燒跡を踏むゾウリの音と、それに合わせて低い鼻歌のブルースが遠ざかつて行つた。
「ありがとう」それを追つて言つた言葉がわれながら間が拔けておかしくなつたのか、久保はまだパンを頬張つている顏でニヤニヤ笑つた。
「いいのかね、女一人で今じぶん?」
「いいですよ。それ位のことでビクビクするような女じや無い」
「貴島君と、どんな關係の人?」
「さあ。別に大して立ち入つたなん[#「なん」に傍点]じや無いんでしよう。ほかにもまだ居るようですよ、あんなふうに貴島を追いかけてる女が」
13[#「13」は縦中横]
それから久保正三は火をおこして、茶を入れてくれた。
室の入口のところにコンロが置いてあつて、細かく割つたタキ木や、水の入つたヤカンなども、そろえてある。男だけの暮しとしては意外な位にすべてがキチンと整備されていることが、だんだんわかつて來た。それが、全部この久保の仕事らしい。手順よく、ユックリ手足を動かして茶を入れおわつた時には、それに使つた道具がチャンと元の通りに片づいているという風である。
特に私を歡待するためにしているのでは無い。食事をしながらも、私に食えとも言わなかつたし、そんな事は思いつきもしないらしい。茶も自分が飮みたいから入れたが、そばに人が居たから一杯ついであげると言つた調子だ。無禮なことや、傲慢そうな表情など一つもしないが、何か氣が遠くなるほど無關心である。默つて相對していると次第に、こちらが無限の距離に押し離され輕蔑され切つているような氣がして來る
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