度を示す筈は無い。(――この想像は當つていました。いや、實は、僕の想像以上で、老婆は、まだ歸還しない杉雄のためにカングリの嫉妬をしたと同時に、現在この家の柱になつて百姓をして働らいているのは久子一人であるため、久子がどこかへ行つてしまいでもすれば、すぐに自分たちは生きて行かれなくなる、それを怖れて、本能的に僕を警戒していたのです。後になつて、僕という人間がそんな者ではない事がハッキリわかると、このお婆さんは、ひどく人の良い正體を現わしたのです。實に人間がその時々に示す姿というものは、變なものなんですねえ。)……その時には、そんな事はわからないものだから、僕はスッカリ不快になり、口をつぐんでしまつて土間の隅に突つ立つていました。
 そこへ、庭場の方から、人の足音がして、二人の人間が入口に立つた。一人は久子で(これも後でわかつた事で、そしてビックリしたが)、モモヒキにハンテンを着て、手ぬぐいで髮をつつんで鍬をさげた、ただの百姓女です。それを追いかけるようにして後からつづいて來たのは中年の、これもノラ着姿の農夫で、二人とも何かブリブリしている樣子。久子はジロリと僕の方へ目をくれたが、何も言わず、いきなり凄い顏で中年の百姓を振り返ると、
「うるせえよつ! おらんとこのヨウスイロを、おらが直すのに、なんの文句が、有るけ!」と、どなりつけた。
 それに對し、中年の百姓がノドを鳴らすようにして食つてかかり、たちまち二人の間で猛烈な口喧嘩が始まつたには驚いた。さあそれから兩方でガアガア、ガアガアと、相手の言う事などほとんど耳に入れようとせず、今にもなぐり合いが始まらんばかり。言つている事は、僕には、よくわからない。兩方とも方言で、それに恐ろしい早口だし、たとえ意味がわかつたとしても、とても書けるものでは無い。野卑で、聞いていられない。特に久子が「あにを、言やがんだつ!」と叫んだりしている口のハタに、ツバキのアワをくつつけたりしている顏と言つたら、女であるために、かえつて、あさましくて、見ていられない。女が男を相手に、こんなに猛烈にやり合う姿を僕は初めて見た。
 兩方の罵聲の中から切れ切れの言葉を拾つて總合して見ると、畑か水田への灌漑用の水路の事らしい。久子の家の水路と相手のオヤジのタンボへの水路が一部共同になつているらしく、それが、もともと、久子の家で開いた水口で、この水の使用については、まあ久子の家に優先權が有る。それを相手のオヤジの方で、いつの間にか段々に自分の田の方へ利用する程度を多くして行つたようで、それに反抗して久子が鍬を持ち出して水路を作りなおしてしまつたらしい。今度がはじめての事では無く、かなり以前から同じような紛爭をつづけている樣子。このへんのような山がかりの田畑では、農家にとつて水の事が如何に重大なことであるかと言う事は、僕にもわかる。しかし二人の喧嘩の調子は、ただそれだけにしては、あまりに激しいし、双方の根にあるものがドギツすぎるように思つた。その事情は、後になつて、わかつた。
 久子が山内杉雄と結婚したのは、戰爭中、東京に於てで、當時、久子は或る映畫俳優養成所に入所したばかりの研究生で(Mさんは、そこの講師の一人で、數多くの研究生の中で、久子の素質に注目し、特に目をかけてくれた由、後になり久子さんから聞きました)山内杉雄と戀愛に落ち、養成所をやめて結婚するや、いつたん二人は山梨縣に歸り、間も無く滿洲の開拓團に入團するため(山内杉雄は電氣の技術家で、直接農耕よりも農村電化の仕事に抱負を持つており、それの實現のため滿洲の開拓地を望んだ)一人の母親と、すこしばかりの田畑を親類の家に託して、滿洲に渡つた。その際、この附近の農家から同行を希望した青年たちが七八人あり、いきおい杉雄が團長格にされて、渡滿。それまではよかつたが、終戰になつて今までに歸つて來た者は、その中の二人と久子だけで、杉雄はもちろん、五六人の者が歸つて來ず、中の數人は死んだと言うし、他の者も消息無く、いまだに生死不明のため、その家族たちの間で、山内杉雄や久子を怨むようになつた。特に團長格で行つた(一同からたつてと頼まれて、しかた無く一同の世話を燒いただけの由)杉雄の妻が無事で歸つて來たこと、しかも、他の者は消息さえもわからないのに、杉雄はシベリヤの收容所で、とにかく無事に働らいていると言う便りまで有つた事などが、それら家族たちの怨みに油を注ぎ、村民の大部分もこれといつしよになつて、久子一家を憎むようになつた。それには、終戰以後の一般の風潮もある。つまり、復員服を着た青年を見ただけで反感を抱き、中には「おめえたちが戰爭したりしたから、おれたちはこんなヒドい目に會うんだ」と言い放つ者がいたりする――つまり、あれ。「うちの子供をそそのかして滿洲なんかに連れて行つてしまつ
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