、胴の間です。或る船着場の、左右前後は停泊しているハシケや漁船で埋まつています。くさつたような潮の匂いと、雨の音です。
ルリさんが此のへんにまでやつて來てウロウロしてしている事を僕が知つたのは昨日です。あるいは僕の思いちがいで、ルリさんでは無かつたかも知れませんけれど、僕の眼にはあの人のように見えました。
前の室にいた頃、黒田の子分の一人が僕の所に使いに來た時に「若い女が二三日前から、このへんをウロウロしている。兄きをつけているんじやないかと思う。氣を附けてください」と言うのです。
「東京の連中のなに[#「なに」に傍点]かね?」
「いや、テキさんたちが、あんな女を使つたりはしないでしよう。綺麗な女ですよ」
「そりや君たちの氣のせいだろう」
「そうも思いましたがね、なんせ、ここのマーケットに、たいがい一日に一度はやつて來て、何かを買つたり食つたりする風もなし、この家に眼をつけているようなんです。なんしろ、めつぽう綺麗な女だから、すぐに眼に附くんだ」
ニヤニヤしながら、僕と戀愛關係でもある女ではないかと疑つているようです。
「ほら、一二度此處へ來た、何とか言う雜誌の人ねえ、あの人をソッと附けて來て此處を知つたんじやないかねえ」
佐々のことなんです。そんなバカな事は無いと僕は打ち消しました。しかし、あり得ない事では無いのです。佐々は僕がこうして方々に身をかくすようようになつてからも、二度ばかりやつて來ています。非常にハシッコイ男ですけれど、それだけにソソッカシく、とんでも無い所で拔けた事をしかねない男です。「とにかく用心して下さい。親分もそう言つていた。昨日も金の野郎が櫻木町から連れて行かれたし、東京の店で菊次が四五日前に斬られてます。東京のは相手がわかつているし、なんの事はありませんけどね。用心するに越した事は無いんだ。一兩日中に又別の所に兄きに行つてもらうようにしてあります」
その男は、じや又來ますと言つて歸りかけ、硝子窓を細目に開けて下の露路をうかがつていましたが
「ああ、やつぱり來てる。あれですよ」と言うので、立つて僕は覗きました。
その家を出て、ゴタゴタと食物店の並んだ露路を出はずれた角のゴム靴などを賣つている店の軒先に、ちようど前日から降りつづいていたビショビショ雨をさけるようにして立つて、こつちを見ている女が居ます。軒先の蔭になつて顏は半分しか見えないし、モンペをはいているようです。するうち、女が歩き出して顏の七分ばかりがチラッと見え、僕はハッとしました。ルリさんでしたそれが。いや、ルリさんだと思つたのです。今から考えますと、ちがつていたような氣もします。ルリさんがあんな所に立つているわけがありません。佐々の話ではルリさんは僕の事を非常に憎んでいるということですが――そうです、僕があの晩ルリさんにした事を怒られるのは當然かもしれませんけれど、そんな憎まれるほどひどい事をしたおぼえは無いのです。いずれにせよ、こんな所まで僕を追つて來る道理がありません。
しかしその時はたしかにルリさんを見たと思いました。して見ると僕の心の底でルリさんを忘れきれないでいたのかも知れません。
その女はすぐに角から消え去つてしまつて、二度見直す暇は無く、確かにルリさんであつたかどうかを確かめることはできませんでした。
結局はそんな事もどうでもよい事です。あれがルリさんであつたとしてもです、この僕とは縁もユカリも無い人です。別の世界の人です。
僕はただこうして船の動きに搖られながら雨の音を聞いています。すべてが僕にとつてなんでしよう。僕はゴロツキの子分で無籍者です。全部愚劣なことです。
こんな事では無いのです。僕が手紙を書くのは、こんな事のためではありません。Mさんの事を知りたいんです。どうしても知らなくてはならないのです。この一週間ばかり急にそれがハッキリして來ました。僕が知りたいのはMさんに關係のある事なんです。それは今度お目にかかつて、くわしくお話しします。…………」
手紙は、そこでプツンと切れていた。明らかにまだ書きつづけるつもりのやつが途中で不意に中絶されたらしい。その中絶のしかたに何か不吉なものがあつた。
貴島勉という男が私にいくらかハッキリわかつたような氣がするにはした。しかし、まだわからない所がある。部分的にハッキリした所が出來たために、わからない點は前よりも更にわからなくなつたとも言える。特に彼の精神方面――性格や心理の内容は、ほとんど未だ私には掴めない。
私は手紙を前に置いて眺めながらボンヤリ坐つていた。その私を、貴島の例の兇惡な眼が、どこかの隅から見つめていた。
21[#「21」は縦中横]
貴島勉の長い手紙を受けとつてから、五六日後の夜、私は佐々兼武の訪問を受けた。
その夜
前へ
次へ
全97ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング