いた事だけで世の中についての「ミトメ」――(これは久保の言葉。結論だとか答えだとか認識とか社會觀とか言つたような意味の全部をふくめて言うのらしい)――が自然に出來あがつて行くのを待つ。だから世の中に流行しているいろいろの思想や宗教などの、どんなものも、それだけでは信用しない。その中のどれかが、もし正しいものならば、それが正しいという事が、そのうちに必らず、自分が目で見たり聞いたりすることの出來るような實際の事實として現われて來ると言うのである。それまでは右翼も左翼も信用しない。彼の言葉で言うと「神も佛も信用せんよ。戀も愛も金も信用できねえ。資本家も共産主義も信用しない。一切合切、俺にとつちや、無えのと同じ」である。「信用できると手前が知つてから信用しても、おそくは無え」と言うのである。その素朴な――と言うよりも未開人のような頑迷さが、あわれな位である。あの手帳も、これに關係が有るようだつた。「あんなつまらん手帳を何百册書いたつて、なにがわかるもんか!」と佐々が言つても「わからなくつてもいいよ」と答えた。その調子が、はたで聞いている私にさえ、やりきれない位に低級で常識的にひびいた。「そいつは豚の實證主義だ。そうじやないか、豚は食物をやらないで置くと、世界中に食物がまるで無くなつたと思つてギイギイ騷ぐ。鼻先に一つかみの食物をほうつてやると、世界中に食物が滿ちあふれていると思つて有頂天になるんだ」と佐々にののしられても、彼はケロリとしている。自分の工場に於ける爭議にも參加していて、經營管理への動きの中でも組合員としてサボつたりはしない。しかしカッカとなつて積極的になることも無い。冷然として皆の動くように動いているが、ヒヨイと自分が家にでも歸りたくなると誰にも言わないでノコノコ歸つてしまう。それで、もうそれきり爭議團の方へ行かないかと思うと、又平然として戻つて行つている。そんな調子らしい。今もその事を佐々が言い立てて、イライラといきり立つて詰め寄つて行くのだつた。すると、しばらく眞面目に議論の相手になつているが、論爭のピッチがあがつて來て、決定的な所へ來たトタンに、變なトボケた聲を出すので何だと思うと、なんとかなんとかで「カヌシャマヨウ!」と、オキナワかどこかでおばえて來た歌を低く鼻歌でやつていたりする。すると佐々が怒り出してベラベラと罵倒する…………果てしが無かつた。
前へ
次へ
全194ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング