ち過ぎている。たとえば、その後の綿貫ルリの事、國友大助のこと、それから、かんじんの貴島勉の事にしても、まだ僅かしか語つていないのだ。今ごろから寄り道をしていたりすると、全體が無際限に長くなつてしまう上に、自分が最初語ろうと思つた事がらを指の間からすべり落してしまうかもわからない。だから、これはさしあたり割愛する。
 ただ簡單に二人の立場を説明して置く。佐々兼武は共産主義者だ。その事に自信を持つているようである。彼が共産主義者になつたのは、長いこと人生社會について考えたり、社會科學の勉強をした結果では無いようだ。出征前は大學生だつたらしいから、その頃既に職工であつた久保などに比較すれば學問的な思想にもなじんでいたわけであろうが、それも例の戰前から戰爭中の軍部專制で塗りつぶされていた空氣の中での學生々活である。せいぜい、二三の社會科學に關する本などを讀んだと言うのにとどまつていたらしい。だから彼が左傾したのは、戰爭末期の戰場と復員して來てからの短期間中であつて主として、戰場と復員後の生活の中で身をもつて、その虚僞や矛盾にぶち當ることから來たもののようだ。マルクシズムを體系立てて學んだ事も無いらしい。つまり現在非常にたくさん居る二十代の、言わば「電撃的」に共産主義者になつた新らしいタイプにぞくする一人である。だから、主義を信ずることは非常に強い。ドンドシ實行に移して行く。彈壓の中で鬱屈した經驗が無いから、明るい。しかし又それだけに、ほとんど私などには理解できない位に單純な所があるようだ。抱いている共産主義理論そのものも、あちこちとスキだらけで、自分では共産主義的にものを言つたり行動したりしていると信じてやつている事が、實は全く封建的な專制的な事であることがあつたりする。彼自身はそれに全く氣が附いていない。そこいらが、「特攻隊」に非常に似ている。眞劍で正直で命がけな所も特攻隊にソックリである。だから、往々にして、ハタから見ていると滑稽なことがある。しかし、そういう場合も、當人が正直に全身的にやつている事がわかるし、又、机の上の空論から出發しているのでは無いから、惡い感じはしない。その輕佻さに苦笑することは出來ても、輕蔑することは出來ないのである。特にこの佐々兼武はそれらの中でも優秀な男らしい。私は、うれしいような悲しいような氣持で、彼の素朴きわまる、しかし熱情的な議論を聞い
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