いるのは疊の上で死ぬか、ザンゴウの中で死ぬかと言う事だけだ。死は同じだ。だから生も同じだ。疊の上で生きるかザンゴウの中で生きるかの違いだけだ。そして俺たちはザンゴウの中で生きただけである。俺たち青年はそこでしか生きられなかつた。ほかで生きることは許されなかつた。いずれにせよ、そこが俺たちの唯一の生きる場所だつた。悲しかろうと苦しかろうと、戰爭は、實は俺にとつて、青春の「生」そのものだつた。してみれば、それは俺の生活の中絶なんかでは無かつた。貴島勉という人間の少年時代からの生活の續きであり、それから現在こうしている貴島勉へ續いている生活の一部分だつたのだ。戰爭中の生活が自我の歴史の上の中絶だと思つたり、虚無であると思つたりするのは、弱虫の言いわけに過ぎない。「戰爭に驅り出されたために、自分の人間性はメチャメチャに叩きこわされたのだ。戰爭が俺をこんなふうにしてしまつたのだ」などと言つて、ゴロツキになつたり強盜になつたりモルヒネ患者になつたりしている自分たちは、責任を他へおつつけようとする虫の良い卑劣漢に過ぎない。戰爭中に、權力から強制されてした事であろうと何であろうと、俺たちは自分のした事としてハッキリ認むべきである。……その事が、今ごろになつて、わかるなんて!
 お父さん。どうか僕をゆるしてください。お父さんは、責任をとつて自決されました。もしかすると、僕のぶんの責任まで背負つてくださつたのではないのかと思います。それが今僕にわかりました。そうです、お父さんを殺したのは、半分は、この僕です。僕がお父さんを殺したのです。實に僕は今まで人間として出來そこないの、恥知らずの大馬鹿でした。
 その事がヤットわかりました。遲過ぎたとも思いますが、でもやつと、わかつたのです。お父さんのおかげです。これから、少しは眞人間の方へ近づく事が出來るかも知れません。お父さん! 僕はこれから、ホンの少しでも、お父さんの子として恥かしくないような人間になつて行くように一所懸命にやつて見ようと思います。
 僕がこうしてあの女を搜し出そうと、あちらこちらをウロウロしているのは、實はただ、なんとなく、あの女にもう一度逢つて見たい、逢つて見れば、なにか、今迄のいろんな自分の問題や氣分が、腑に落ちて來て、おさまりが附くような氣がする。それに、正直言つて、もう一度ハッキリと意識してあの女と寢て見て、それが
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