と言うものの眞の姿、つまり――眞實だ。その眞實が、ありのままに見える時があるだろうか? 昨日と今日と明後日と次ぎから次ぎと變つて行く「眞實」では無く、昨日も今日も明後日も變らない、不動の眞實。それがこの俺に掴まえられる時が來るだろうか? それは、來ないのではあるまいか? 俺にはそんな能力は無いのではあるまいか?
しかし又思う。そんな不動の眞實と言うようなものが、では、一體全體、在るのか?
まるで、わからない。俺にはわからない。しかたが無いから、俺は、やつぱり、ウジ虫のように、浮雲のように、プワプワ、フラフラと、今日ただ今、自分にとつて眞實だと思われるものを追つて歩く以外に無いのであろう。しかたが無い。
戰爭のことにしたつて、そうだ。俺は戰爭をくぐつて來て、その事を何か特別のことでもして來たように思つている。しかし、戰爭が一體なんだろう? 戰爭は戰爭で、俺は俺だ。戰爭で自分の内容がぶちこわされてしまつたなどと思つていたのは、甘ちやんのアプレゲールのセンチメンタリズムに過ぎない。戰爭は、結局は、なんにも變えはしない。戰爭は、結局は、人間を變えてしまつたりは出來ない。ただ物ごとの進行を大げさにして、速度を早くするだけだ。變えはしない。大體、戰爭のために、ぶちこわしてしまつたり、變つてしまつたりするようなものが、俺の中に確立されていただろうか? そんなものは、はじめから俺の中に無かつたのだ。無かつたものを、ぶちこわしたり、變える事が出來るものでは無い。それを、自分は戰爭からぶちこわされたなどと思つていた所に俺の虫の良い、甘ちやんの感傷が有つた。戰爭は、ただ、俺たちの十年分の生活を一年間にスピードアップして見せてくれただけだ。そのスピードの中で、俺など目をまわしただけだ。そして、それに何か深刻な意味があるように思つていただけだ。そうなんだ。實は、ホントにそこに在つたのは、ただ弱虫の青年に共通な人生煩悶みたいなもの――藤村ミサオ流のものとチットも變らない甘つちよろい感傷があつただけなんだ。ニヒリズムなんて、ドエライものじや無かつたのだ。
むしろ、戰爭というもののスピードアップの生活の中で、俺たちは俺たちの青春時代を生きたのだ。それは、「生」だつたのだ。俺たちの淺薄な目は、そこに「死」だけしか見なかつたが、しかし、平和な生活にだつて死は常に自分のソバに在る。ただちがつて
前へ
次へ
全194ページ中132ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング