ートル、地下足袋姿に、乏しい荷物を振分けにして肩にした見すぼらしい渡り人夫の留吉。――三十二三歳だらうが、ひどく老けて見える。疲労と空腹のために顔色蒼白の上に病気。無論、崖の上から香代に見られてゐる事には気が附かない。……柵の所まで歩いて来て、よろけさうになるが、両足を踏みしめるやうにして立直つて歩かうとした拍子に枕木に足を取られ、唸り声を出して前のめりに線路に倒れる)
[#ここで字下げ終わり]
香代 あ! ……(思はず立止まつてゐる。留吉は顔を上げない)
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(遠くの列車の響。
香代小走りに降りて行き、麓で手に持つた茶碗を地面へ置いて留吉の傍へ)
[#ここで字下げ終わり]
香代 あんた! ……どうしたの? (相手は低く唸つてゐるだけ)……こんな所で……危い……(四辺を見廻したが、思ひ決して留吉の片手とバンドを掴んで懸命にズルズル引つぱつて丘の麓へ)……あゝ重いつたら。……しつかりなさいよ! ……弱つたねえ。
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(一人では駄目だと思つて、誰か迎ひに行かうとする)
[#ここで字下げ終わり]
留吉 ……水! 水! 水を、水をくれ!
香代 水だつて? 困つたねえ、ちよつ、ちよつと待つて、取つて来るから――。(置いてあつた茶碗を取る)
留吉 水を! 水をくれ!
香代 ……(相手の様子を見ては走り出して行きもならず、留吉の顔と茶碗の中を見較べてゐたが、それを留吉の口の所に持つて行つて、中味を空けてしまふ)……仕方が無い。(少し、むせる留吉)……あんた、どうしたの?
留吉 (寝たまま稍々元気になり)……腹も……空いてるが、……病気だ。……病気です。脚気――。
香代 病気なの? さう。私あまたどうしたのかと思つてさ。
留吉 ……あんたあ、誰だ?
香代 私あ、お香代といふのよ。……(先程からの自分だけの気持と、今自分のした事を思ひ合せて苦笑してゐる。線路の信号燈の青が赤に変る)
留吉 ……お香代さん、か……どうも、すまねえ。……俺あ留吉と言ふもんです。
香代 フン、……礼にや及びませんよ。フフ、変なもんねえ、ハハ。……(気を変へて)留吉……あんた、此の土地の人ぢや無いのね?
留吉 少し、今日は歩き過ぎた。……(まだ息が苦しさうである)……渡りもんです。……仕事を捜して歩いてる……なんか、此処に、仕事は無えだらうか? ……あゝ苦しい。
香代 そんなに喋つちや、まだいけないんでせう。……さあね仕事と言われたつて、私なんぞにや――。
留吉 この、胸んとこが、苦しくつて、仕様が無えんですよ。
香代 着物を少しゆるくしたら。どれ……(留吉の着てゐるものをゆるめてやりはじめる)……少しは楽になつたでせう? 胸も少しはだけたらどう? これなに? どうにか側へやれないの?
留吉 (出しぬけにギヤーツと言う様な叫声を上げて、手足をもがいて跳ね起きる)な、な、何をするんだ!
香代 (びつくりして)あつ! なんですよつ!
留吉 (胸の所を押へてヂリヂリ後しざりに線路の方へ)こ、こ、これを、俺のこれを、……何をしやがるんだつ! ……これに手を触れたら、こ、こ、殺すぞ! 畜生、うぬあ、……ち、畜生! (肩で息をしながら、ギラギラ光る眼が香代を睨んで立つ。殆んど常識では考へられない程の突変[#「突変」に「ママ」の注記]した見幕である)
香代 (あつけに取られて)……なにさあ! どうしたんですよ?
留吉 どうしたと? 人を、人を、親切ごかしに、たらし込もうとしやあがつても、その手に乗るかつ! ばいため! 人の金を――!
香代 ……金? それ、金なの?
留吉 (うつかり自分から金の事を言つたのに自分で周章てゝ、自分の口も香代の口も一緒にして塞いでしまひたい衝動で、両手を突出して宙に振る)えゝい! 言ふなつ! 金ぢや無いつてば! 言ふなつ! 金ぢや無いつ! もう何も言ふなつ!
香代 お前さん、それ、何の真似なの?
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(近づいて来る列車の響)
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留吉 何の真似だらうと、大きなお世話だつ! 人に水を飲ませたりして、親切さうにしやあがつて――(ゼイゼイ肩で息をしつゝ線路の上に立ちはだかつてゐるが、弱つた身体が昂奮のために今にも倒れさうだ)
香代 ……(あまりの言ひがかりに、怒る前に苦笑)水だつて? フン、さう、水か。フフ。……まあ、どうでもいいぢや無いの?
留吉 うぬあ、ぬすつとか!
香代 え? ……(呆れて相手を見詰める)
[#ここから2字下げ]
(間。――二人は、丘の麓と線路の上と離れたまゝ、見合つてゐる。ゴーツと近づいて来る列車の響。汽笛)
[#ここで字下げ終わり]
香代 危い! 汽車が来たよ! (三四歩進む)
留吉 (線路の上を香代から反対の方向へ逃げようとするが、足元がもつれて、ヨロヨロする)来るなつ! 来るなつ! ついて来ると、しめ殺すぞつ!
香代 (パツと線路の方へ飛出して行き、前に廻つて留吉の肩口をドンと突き)馬鹿! 危いんだよ! (留吉の胸倉を両手で鷲掴みにして、力一杯身体ごと線路の外、柵の方へ引きずつて来て、そのまま胸倉を離さぬ)
留吉 な、な、なにを貴様――! (自分の両手はふところをシツカリおさへてゐるので香代にされるまゝ)
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(間。――間近かに迫つて来る列車の響の中で二人が両手を突張つたまゝ取組んで無言で相対し、互ひに光る眼で見詰め合つてゐる。

急に幕。

とたんに、グワーツ! と通過する列車の轟音)
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[#5字下げ]2 蔦屋[#「2 蔦屋」は中見出し]


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(約半年後の春の宵。蔦屋の店内。奥中央にノレンの下つた入口。土間を広く取つてあつて、下手の部分は細長い食卓が三つばかりと作りつけの腰掛け。上手の一部が二重になつて畳が敷いてある。土間は二重の前を廻り込んで、上手に開いている出入口(奥の室及び裏口へ通ず)へ。下手の長食卓の所で辰造(前出)と、志水(着流しの卅五六才の工夫)が、より子を相手に飲んでゐる。三味線を弾いて唄ふより子に合せて志水も唄つて[#「唄つて」は底本では「唄って」]ゐる)
[#ここで字下げ終わり]

辰造 もう歌は止せよ。ムシヤクシヤすらあ。
志水 ……だつて公会堂の寄合ひは九時からだ。手筈は決つてゐる。今頃からいきり立つ事あ無えさ。
辰造 だつて島田が死んでから、もう半月にもなるんだぜ。会社であんな浸水のひでえトンネルを掘らせたためにボタを喰つて死んだとありや、立派な殉職ぢや無えか。それを、いくら臨時工夫だからつて、未だ手当を出ししぶるなんて、人間の法に有るかい? 第一、後に残されたおふくろや子供はどうして食つて行けるんだ?
より 島田さんとこのお婆さんなら今朝も此処へ来たよ。(志水に)あんたは寄らなかつたかつて。
志水 へえ、なんだつて?
より 会社との事で頼みたい事があるつて。
辰造 それ見ろ、いよいよどうにもやつて行けなくなつて来たんだよ。購売の方ぢや物価が高くなつたの一点張りでグイグイ品物の値段は上げるしなあ。日当は一厘だつて上りやしないんだ。たゞでさへ四苦八苦してゐるのに、これで稼ぎ人にポツクリ参られて見ろ、ほんとに! 他人事ぢや無いぜ。
志水 だからかうして何とかして貰はうと思つて一所懸命にやつてゐるんぢやないか。
辰造 何とか「して貰ふ」か。一体に気が長過ぎるよ。
志水 又馬鹿を言ふ。考へて見ろ、この問題に就いちや、こないだからあれだけ俺達が口をすつぱくして説きつけても、百人余りも居る臨時工の中のやつと三十人位が「うん」と言つてくれただけだよ。今夜だつて、口先だけぢや皆来るとは言つてゐたが、俺あまあ四十人も来れば上出来だと思つてゐるんだ。なんと言つても渡り者が多いから、まとまりにくいんだ。
辰造 渡り人足なんぞ打つちやつといて、俺達だけでぶつ始めりやいいんだ。
志水 無茶言やあがる。そんな風に行きや苦労しねえよ。御時世が違わあ。
辰造 御時世? ぢや、こんな御時世を俺達が拵へたのか? え、おい? 俺達あな、うぬが命を張つて、一両あまりの日当でその日暮しをして居れれば、嬉し涙をこぼしている人間だぜ。それが、どこがどうしたれば、御時世なんだ! どこの何様が、こんな御時世を拵へたんだ? 笑はすない!
志水 そんな利いた風な口を利くんだつたら、会社の人事課の窓口に行つて喋つて見ろ、トタンにお払ひ箱だ。
辰造 おう、よからう、誰が聞いても間違ひの無え事を言つてお払ひ箱になりや、此の辰造は本望だ。此処ばかりにてんとさんは照らねえ。
志水 さうなれば、こんだお前も、渡り人足になるんだぜ? それでいいのか?
辰造 あ、さうか! こいつあ、いけねえ。(志水とより子がふき出す)アハハ、渡り人足はまつぴらだ。見ろ、ほれ、あの留だ。不人情と言つたつて仲間つぱづれと言つたつて、あんな人で無しは居るもんぢや無え。此度の話だつて、ほかの連中は腹ん中あとにかく、口先だけでも反対する者あ一人も居ないんだ。だのにあの留吉と来たら、此方の話に返事一つしやがらねえんだ。「俺あチヨツト訳があるから」……かうだ。訳が聞いて呆れるよ! 金が溜めたいだけぢやねえか。ボロツ屑め! 香代ちんも香代ちんだ、いくら好きだと言つたつて、あんな渡りもんのボロツ屑に惚れなくたつていいぢや無えか。しかも片想ひと来てるから念が入つてやがらあ。此の町にや他に男は居ねえのかホントに! どう言ふんだい全体、え、より公?
より 去年の秋、香代ちやんが赤ん坊の事やなんかで変な気になつてゐたとこを、線路の所で留さんに助けて貰つたのがキツカケでせう。
志水 留公が此処にたどり着いた時の事だらう? そいつあ、あべこべだ。留公の方ぢや香代ちやんに助けられたと言つてたぜ。
より さう? 変ねえ。でも香代ちやんは[#「香代ちやんは」は底本では「香代ちゃんは」]さう言つたわよ。
辰造 そんな事どうでもいいよ。留の奴あ、どうしても、もう二千円近くの金は溜めてゐると俺あ睨んでゐるんだ。
より (眼を丸くして)二千円? 嘘う! いくらなんだつて、留さんが此処へ来たのが去年の秋で、今、四月だから、まだやつと、半年そこそこよ。いくら稼いだつて――。それに、そんなに金の有る人が、此の家へ来ても酒一滴飲まず、食べる物だつて一番安い物を、大概うどんよ、それも一日に二回しきや食べない事があるのに、まさかあ!
辰造 それなんだ! 食ふものも食はないで稼ぐ奴だ。それを利息を取つて人に貸す。近頃ぢや、仲間の連中に五十銭一円と日歩の金を貸し附けてゐるんだぜ。今日五十銭借りると明日十銭附けて六十銭返すんだ。なんて事あ無え、日歩二割ぢや無えか! みんな、うらみにうらんでゐるぜ。しかし、やつぱり苦しいもんだから借りちまうんだ。
志水 さう言へば、留吉あ、まだ、あがつて来ねえのかなあ。
より 今夜は残業だつて言つてたわよ。
志水 あゝ、さうだ、ありや金助と一緒だつた。
辰造 あいつは去年の秋此の町へ来た時に、いい加減金あ持つてゐたと俺あ睨んでゐるよ。渡り人足の我利々々な奴と来た日にや、煮ても焼いても食へねえ。ぺつ! 畜生、酒えまずくなつたい! 新らしいのを附けてくれ、より公。
志水 もういいよ、今夜あ、それで止せよ。
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(蔦屋の女主人のお磯――三十七八才――が奥から出て来る)
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辰造 いいよ、大事な晩だ、絶対に酔はねえ、もう一本だけだ。(より子、立つて行く)飲みでもしなきやたまるかい、ねえお神さん、さうだらう?
磯 いらつしやい。(笑つて)さうですよ。世間がかうセチがらく、せつぱ詰つて来るとね。
辰造 香代ちやんなあ、お神さん、ありや留の奴に惚れてるつてえのは、正直の所、本当かね?
磯 さあね。ウフフ、どうして?
辰造 どうつて訳あ無えけどね、せつかく香代ちやん程のいい女が、選りに選つて、あんなケダモノ野郎にさ――。しかも留の奴あ、知らん顔してゐるさうぢや無いか。
より やける? もしかすると、あんた香代ちやんにホの字ぢや
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