い声。お雪の幼児が泣き出したのである。それは、此の緊張した空気の中に、しみ渡つて行くように響いて来る……)
(フイとそれに気が附いたお雪、スタスタと幼児の方へ行き、草上に坐つて抱き上げ、頬ずりをしてやつてから、黙つて、白い胸をスツとはだけて、幼児に乳房をふくませる)
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雪 ……(涙の流れ出した顔。兄の方を見て)兄さんの馬鹿。……永いこと、田地のことや、お金のことばつかりに夢中になつてゐたんで、兄さんにや、人の気持がわからなくなつてしまつただ。……おゝ、よしよし。
留吉 ……でも、さきおとゝひは、あんなにお前泣いた。……それを――。
雪 (時々しやくり上げながら)……利助は兄さんよりや、私にや大事だ。……私等女の気持、兄さんにや解らねえ。……わかるもんかよ。……利助の心持だつてわかりやしねえ。仕事はうまく行かねえ、金は無し、世間からあいぢめ付けられる――気が焼けてヂレヂレするもんだで、つい私に当るだよ。悪いなあ、利助ぢや無い。利助の気持知つてゐるなあ、私だけだ。……兄さんにや解らねえ。……(幼児に乳を飲ませながら、静かに言ひ続ける。頬に涙。それを呆然として見守つてゐる留吉である)
利助 (掘割の傍にペツタリ坐つたまま)お雪!
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(留吉は先程から黙つてお雪を見詰めたまゝ、お雪と利助の言葉を聞いてゐる間に、次第に妙な気持になつて来る。何か、この場の事件と非常に良く似た事が、過去にあつた様な気がして来るのである。それが、もう少しで思ひ出せさうでゐて、思ひ出せない。こめかみを抑へてブルン、ブルンと頭を振つてゐる。果ては両掌で顔を蔽ふ。
 暫く止んでゐた器械鋸の音が、奥の工場の方から、この時キユーン、キユーンと響いて来る。留吉頭をピタリと止める。……あの時の貨物列車の響と、此の鋸の音の相似)
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利助 ……(フラフラと立つて、お雪のゐる丘の方へ行きながら)お雪――。
留吉 ……(顔からヒヨイと両掌を離して見ると、お雪の方へ歩いて行く利助の姿が、あの時、お香代に助けられた自分自身の姿ではないか。電撃を受けでもしたやうにブルブルツと震へて、五六歩丘の方へ利助の後を追つて叫び声を上げる)ああ!
利助 お雪、済まねえ! 今迄、俺が悪かつた。
留吉 ……済まねえ、お雪! 俺が今迄悪かつた! お香代! 俺が悪かつた、お香代、お香代!
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(立つて居れなくて地面に坐つてしまひ、号泣する)
(先程から三人の騒ぎにドギモを抜かれてハラハラしながら見守つてゐた轟と津村と伝七が、留吉の此の様子で、気でも狂つたのかと、石の様になつてゐる。ばかりでなく、お雪も利助も留吉の様子にギヨツとする)
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雪 ……(立つて来つゝ)どうしただよ、兄さん――? どうしたの、しつかりしてよ! (兄の肩に手をかける)
留吉 ……(顔をあげて、妹を見る。はじめ少しキヨロキヨロして、次に妹の顔を穴のあく程マヂマヂと、何か非常に不思議な物を発見した様に見詰めてゐる)
雪 どうしただよ、兄さん? お香代さんと言ふのは誰?
留吉 う? ……うん。
津村 (やつと元気を取戻して)留吉君、そいでだな、斉藤の方の話は――。
利助 (お雪のコメカミのキズから血のにじんでゐるのを見付けて)あゝ、お雪、いけねえ!
雪 あんだよ? (コメカミにさはる)
利助 痛くは無えのか? どれどれ!
雪 あゝにチヨツとすりむいた。
留吉 (その妹夫婦のする事を見守つてゐたが)……利助、……俺あ悪かつた。
利助 ……? あに、いいよ兄さん。俺あ酔うと、かうだ。始終ムシヤクシヤしてゐるもんだから、酒がこじれるんだ。俺が悪い。もう此奴を殴るなあ、止めだ。
留吉 なに、殴る位、かまわん。しかし、なあ、離縁だけはしてくれるな。俺が頼む。どうか可愛がつてやつてくれ。
利助 心配かけて、済まねえ! (男泣きに泣く)兄さん、実を言やあ、俺あ、お雪が居てくれなからうもんなら、もうとうに負けちやつて、首でも縊つてゐる男だ。
留吉 ……『うまく人間の皮をかぶつた』と言つてたな、……ケダモノか。……そうかも知れねえ。人の心持もなんにも解らなかつた。
雪 兄さん、お香代さんと言ふのは、どうした人?
留吉 なあに……。俺あな、お雪、百姓するなあ、もうやめた。お前達夫婦は、どんな事があつても別々にならねえで頑張つてやれ。先刻なあ、此の児が其処の親父やおふくろの墓の上で泣いてゐるのを見たら安心――と言ふか、なんか、そいでいいやうな気がした。墓なんかどうでもいいよ。人間、お互ひに苦しからうと、みじめだらうと、かうと思つた土地で松杉を生やす事だ。(懐中から二重にも三重にも巻立てた胴巻を出して)これお前にやる。
雪 ……あんだよ?
留吉 やるから
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