無いの?
辰造 なによつ! 此奴!(立上つてゐる)お前と違うぞ、なによ言つてやがる。一目惚れのより公たあ誰の事だい? 知つてるぞ、夜になると、お前、此の志水の事を寝言に言ふさうぢや無えか!
志水 何を言つてゐやがる。
より (赤くなつて辰造の手を逃げまはつて、調理場の蔭へ)アハハ。ハハ。馬鹿。(歌ふ)こんな気持でゐる私――。
辰造 歌あ止せと言つてゐるんだ。出来合ひの歌あ唄つて口説かうと言ふんだから、太え了見だよ。アハハ。(お磯も笑つて見てゐる)おゝ口説くと言やあ、お神さん、油断をしちやいけないよ、会社の近藤が香代ちやんを物にしようとして、しきりと口説いてゐるさうぢやないか?
磯 (笑つて)お客だもの、口説きもしませうさ。
辰造 近藤の奴、もう半年以来の御執心で、金はいくらでも出すと言つてるさうぢやないか。悪く落着いてボヤボヤしてゐると、お神さん、折角のお大尽を香代ちやんに寝取られてしまふぞ。(より子が、それを言ふなとシキリと目くばせしてゐるが辰造には通じない)
磯 おや、おや、寝取られるんですつて?
辰造 だつて、近藤は此の家の後援者だろ? 何とか言つたつけなあ、さうだパトロンだろ、あんたの?
磯 オホホホ。まあね、近藤さんからは、金は借りてゐますよ。(平気を装つてはゐるが少し顔色が変つてゐる)
辰造 さう白つぱくれるなよ。(志水が着物の裾を引つぱるので)なんだよ? なあに、まだ早えよ。お神さん、今頃は大きに、香代ちやんと近藤とがどつかで逢つてゐるかもわからねえぜ。
磯 (より子に)さう言やあ、香代ちやん少し遅いねえ?
より (相手の顔色を窺ひながら)納屋の方の帳面を一わたり済まして来ると言つてましたから……。
磯 さう。(少し無理をして笑つて)惚れぬ女郎が惚れたと言へば、客は来もせで来ると言ふつて文句が有るぢやありませんか。アハハ。商売ですよ。(香代が外から戻つて来る)
香代 たゞ今。おや、志水さんに辰さん、やつてるのね。今夜は寄合ひがあるんぢやない?
磯 馬鹿に遅いぢやないか。
香代 掛けを取りに行つた私を掴まへて、からかつちや遊ぶ気でゐるんですからねえ。スゲ無くすれば、金はよこしてくれないし――。
磯 今頃迄納屋を廻つてゐたの?
香代 (相手の語調が少し変なのでフイと顔を見て)……え?
磯 いえね、どつか、他へも廻つてゐたのかと思つてさ。
香代 なんですの?
磯 ま、いいよ。(畳敷の上にあがつて)勘定は?
香代 (帳面と金を出して、磯の前に並べながら)当節ぢや、月半の勘定日だつてえのに、スラリと出してくれる人は無いんですよ。他所より景気の良い筈の炭坑がこれだ、ひどい事になつたもんね。なんだかだと物は高くなるのに賃金は元のまゝだし、ふところに金が停つてゐる間が無いのね。
志水 耳の痛い事を言やあがる。
磯 (帳面と照し合はせながら銭勘定をしつゝ)香代ちやん、お前……もう二つにもなつた子供まで有るつて事忘れちや駄目だよ。
香代 ……留さんの事なんですか? しかし、何でも無いんですよ。
磯 ……そんな、人を好きになつちやいけないなんて、そんな野暮を言つてんぢや無いけどね。何だかだでお前さんの身体にかゝつてゐる金もふえる一方だしさ。
香代 ――そりや、あれだけの物が溜つてゐるのに他所へ鞍替へもさせないでかうして此処に置いて下さるのは、私、ありがたいと思つてゐるんです。しかし、急に、それを――。
磯 いえ、今返してくれと言つてんぢや無いけどね……。此の倉三さん三円八十銭は?
香代 内金二円で、後は月末にしてくれつて言ふんです。……えゝ、ですから、かうして掛取りなんかも私、やらして貰つて――。
磯 そりや、辛いだらうさ。お前にばかりこんな事させて、私も済まないと思つてゐますよ。……会社の近藤さんの話にしたつてね、私あ何も兎やかく――。
香代 え? ……(はじめてお磯がからんで来る訳がわかつて、相手の顔をマトモに見る)……それを、お神さん――。
志水 より公、俺にうどんを一つくれよ。
香代 ……あの、これ――(と帯の間から紙幣束を出して、磯の膝の前のバラ銭の中に置く)
磯 なにさ? ふーん、これぢや勘定が合はないよ。誰れの払ひ?
香代 いえ、そりやお神さんの手にあげて置きます。
磯 だからさ、こんな沢山のお金を、どうして――?
香代 近藤さんが無理やりに私に握らしたんですよ。
磯 (顔を上げて香代を見て)……さう?…しかし、そりや結構ぢやないか。
香代 そんな風にお神さんから、言はれるのはいやですよ、私あ。私が近藤さんから金を貰ふ筋合ひは無いぢやありませんか。
磯 そりや、私の知つた事ぢや無いやね。(勘定の分だけの銭を財布に入れて)どれ、私あチヨツト……(土間に降りる)お店を頼んだよ。(客に)ごゆつくり。
より お神さん、どちらへ?
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