に立って発想していないからだと思います。つまり「自分のことはタナの上において」いるからです。もちろん、清水がズルイためや悪意があってそうしているのではないと、私は思います。ただ「痛い」からだろうと思う。自分を人なかにさらし、クシザシにするのは、だれにしても痛い。これは清水だけでなく、その他の抵抗論者のほとんどがそうでしょう。
 しかし私は、私自身のために、いま行われているような抵抗論では不安だし、満足できません。だから、自分だけの考えを語りひろげてみるのですが、それにはまず、よかれあしかれ、自分をタナの上から引きずりおろし、人なかにさらし、クシザシにし――一言にいって、自分がまず少しばかり痛い思をしてみることが第一歩だと思ったのです。それで前節のような、グチばなしに似た自身の内輪話をすることによって痛い思いをしはじめたわけです。もうすこし、それをつづけます。

        3

 前記のとおり私の生活は苦しく、仕事をしていくのはかなり困難です。しかもこのさき楽になったり容易になったりする見通しはまずありません。ですから時によると、自分は全体どんなわけで選《よ》りに選ってこんな仕事をするようになったのだろうと思って、それをのろうような気分になったりすることもあることを白状します。心がつかれ弱りはてたときなど、中学生のように、ヒョッと死んでしまいたくなることさえあります。しかもこのような自分を唯一の頼りにして生きている家族の者たちや、またとない尊い杖とたのんで、生きている親しい者たちがいます。それを思うと、暗い不覚の涙が流れることさえあります。
 さて、そういう姿で暮し戯曲を書きながら、私は悲鳴をあげているか? 悲鳴のはてに私は戯曲を書くことをやめてしまうことがあるであろうか? また、そのはてに原民喜と似たような姿で死ぬことがあるであろうか? いえ、私は悲鳴をあげていない。戯曲を書くのをやめることはない。原民喜と似たようには死にません。私は快活に笑うことができるし、客観的な情況がそれを絶対に不可能にしてしまうまでゆうゆうとして戯曲を書くし、人か物かが私をとらえて打ち殺してしまうまで死なないでしょう。冷たい確信をもって私はそう言えます。
 それは私が自分をとりまいている諸条件を楽観しているからではありません。むしろ悲観しきっているからです。望みを持っていないからです。いわばほとんど絶望しているからです。ソフィストリィを弄しているのではありません。素直に考えてそうなのです。それはつぎのように私に思えるからです。
 現在の自分の状態は、いかにも困った状態である。しかし、なんとかかんとかやっていける。やっていけるあいだは、これでやっていく。いよいよやっていけなくなったら、私は自分の作品をプリントにするか筆写して一部を百円で売ろう。全国に私の読者が一万人はいる。たぶん、そのなかの千人か五百人は買ってくれる。すると五万円から十万円が私の手にはいる。それだけの金があれば私と家族は三カ月暮せる。その三カ月でつぎの作品を書いて、また売る。そういうこともやっておれなくなったら、私は私にもできる軽い労働をさがす。それもなければ紙芝居屋になる。紙芝居なら私にもかなり巧みにやれる自信がある。そして休みの日や夜間に戯曲を書く。さて、そういうこともやっておれなくなったら、仕方がない、乞食になる。そして時間とエネルギーの余裕だけを戯曲を書くことに使う。
 君は読みながら、たぶん笑っていられるでしょう。なるほど、こんなことまで考えるのは感傷的すぎ、神経質すぎるかもしれません。しかし私において、これは笑いごとでもなければ、感傷でもなければ、過敏でもありません。ごくあたりまえの冷たい思量なのです。現前の自己の条件を一つのハッキリした限界情況として受けとったうえで、それとつなげた形として私の持ちうる具体的実践的なパースペクティヴであって、ほしいままな、または逃避的な想定ではないのです。ですから私は事態がそうなったときにはそうするであろう決心をもっています。
 そう決心をつけたら私は落ちつけました。不安はあります。不安はどこまでいっても、ついてまわるでしょう。しかし根本的なところで安心しました。つまり自分の生活および仕事と、起りうる困難な事態との関係では、私は水中を下へ下へと沈んでいったすえに、私の足は水底の地面にやっととどいたのです。それは貧弱きわまる、一尺四方ぐらいの地面ですが、しっかりした岩でできた地面で、私がその上に立つことはできます。
 立つことができるならば、そこで、もし他からくわえられる力に抵抗しなければならないとならば、抵抗することができるのです。私の足が私を支える力を失ってしまうまで抵抗することができます。
 いまのジャーナリズムや大学などは、生活や仕事の地盤としては泥沼とおなじです。底はあるだろうが、その底は確かめられた形ではつかまれていません。ジャーナリズムや大学に依存して、そして依存するだけで安心して抵抗論を展開している文筆家や大学教授たちは、泥沼が自分の脚を没し胸を没し手を没し頭を没し去ったときが、自分の抵抗のおわるとき、つまり自分の抵抗の限界であることを知っているのでしょうか? つまり問題は、人が「どこでネをあげるか」ということなんだ。
 戦争中、情報局からおどかされただけでは転向しなかった進歩主義者で、軍からおどかされるとひとたまりもなく転向した人がかなり多かったことを思いだしてほしい。それのよい悪いを言いたいのではない。軍に抵抗することができないのならば、またそのような抵抗をするだけのよりどころに立っているのでないのならば、情報局にも抵抗しない方がよかろう。少なくともそれは無意味だ。というようなことが言えたと思うのです。
 現在ジャーナリズムや大学その他に依存しつつ抵抗論をやっている人たちは、もしその抵抗の結果か、または他の理由からジャーナリズムや大学その他から締め出しをくったばあいには、どこに自分の足を置いて抵抗していくのですか? さらに、現在それらの抵抗論者たちは、アメリカがわれわれにくれている軍事力と生活必需物資の、軍事力はイヤだからことわるが物だけはもらうという形で抵抗論をやっているが、これが軍事力がイヤなら物もやらないぞという形になるか、または軍事力をわれわれに与えることが、軍事力をもって強制されるという段階になったら、どうする気なのでしょうか? 私にはわからない。たぶんそれはご当人たちにはわかっていることで、ただ語らないものだから私にわからないまでだろうと思います。しかし、はたしてそうなのか? はたしてそうだと思ってしまうにしては、あまりに共通してわからなさすぎます。
 この人たちは、これほど一致して自分たちの考えていることを、これほど人からかくすことができるのだろうか? ふしぎでなりません。だからもしかすると、この人たちはそういうところまでは考えていないのではないか、だからこの人たちの抵抗論は今後起りうる悪い事態を予想して、それにむかって警戒照明弾をぶっぱなしておくといった式のものか、または観念的な――観念的のみでありうる境での、犬の遠吠え式のものではなかろうかと思ったりするわけです。
 さて、この点でも人さまのことは、さしあたりどうでもよい。まず私は私の足もとを照らしてみなければならない。これらのことにつき私は考えました。私の考えたことは例のとおり浅薄素朴なものかもしれないが、私にわかっています。それをのべてみます。

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 正直のところ、私はなにものにたいしても、どんな種類の抵抗もしたくありません。抵抗などむりなことをしないで、自分の貧しい生活と仕事だけにいそしんでいたい。しかし、いろいろの圧力はいろいろの方向からくわえられる。逃げても逃げても結局は逃げおうせることはできない。ならば、それを受けいれなければならぬ。受けいれることがイヤならば抵抗しなければならぬ。せざるをえない。だからといって、しかし、いくら貧しくとも自分の生活と仕事にいそしむという、私にとって第一義的に意味のあること、人間としての最低の基本的な要求をわきに打ち捨てて、それとは別のものである抵抗――または、それとは別のものとして抵抗をとりあげたくはない。もしできるならば、自身の生活と仕事にいそしんでいる私の仕事そのものが、そっくりそのままで角度をかえてみれば抵抗の姿そのものであったというふうにありたい。――そんなふうに私は言おうとしているのです。
 これは虫のよい考えです。人間は、しかし、すべて虫のよい動物です。私もそうです。問題はそれが可能であるかどうかだ。私は可能だと思う。すくなくとも、ある程度までは可能だと思う。
 こうして物を書いている私の窓の前に、一本の老いたる桃の木が立っています。雨がふればぬれるし風がふけば揺れうごきます。子どもがよじ登っても鉄砲虫が幹をかじっても、はらい落すことはできません。目に見える抵抗は一つもしません。しかし桃の木は生きていて、時がくれば花をさかせ実をつけます。すでに幹も枝も朽ちかけているが、まだ倒れそうにない。
 一個の自然物だから、これをいま話している抵抗にひっかけて考えるのは、無意味かもしれませんが、いつだったかの大嵐の日に、この桃の木が枝々をもぎとられそうに振りみだし、幹も根もとのところからユサユサとゆすぶりたてられている姿を見ていて私はこの木がこうして立っている姿を、ソックリそのまま抵抗の姿だと見られないこともないと思ったことがあるのです。
 もしそう見ることができるならば、この桃の木の姿は、前述の私がこうありたいとのぞむ抵抗の姿勢にいちばん近いわけです。つまり、目的と手段とをそれ自体のなかに同時に統一的に完結させており、他のものをどういう意味ででも圧迫したり搾取したりしないで独立しており、そのように独立した姿がそのままで、時あってくわえられる他からの圧力にむかっての抵抗そのものであるという姿勢です。もっともよく抵抗するために、まったく抵抗しないという姿勢をとることです。
 もちろん人間は桃の木にはなれない。しかしそれから学ぶことはできます。自分の姿勢を桃の木のそれに近づけ似せることはできます。私どもが、私どもの生活と仕事とを目的と手段とに切りはなさず、目的が手段であり手段が目的であるといったようにまたそのようでありうる生活と仕事とを持つことは私どものクフウしだいで、ある程度までできます。
 それには何よりもまず、私ども自身がシンから好きな仕事、自分がホントにやりがいがあると思える仕事をとりあげ、それ以外の仕事はなるべく早く、なるべく完全に捨ててしまうことが必要でしょう。よく言う「死にきれる仕事」をすることです。それ以外の自分にとってどうでもよい仕事はなるべく捨てさる。そのために、かりに金の勘定がメチャメチャになったり、役所に役人がいなくなったり、商店がガラアキになったりしても、そんなことはどうでもよいではありませんか。
 人間はどんなに長生きしても、たかだか百歳ぐらいまでしか生きてはいない。あれをして、これをしてから、それをしようなどと思っているうちに死んでしまいます。生きているうちに人は知らなければならぬことがある。味わわなければならぬことがある。その余のことは早く捨ててしまえ。
 それから、できるだけ他を圧迫したり搾取したりしません。ここで圧迫や搾取というのは、哲学的な意味をふくみません。
 ひとつの室内に二人の人間がいれば、たがいに何もしなくても一人が他を圧迫していることになるだの、人が野菜を買って食っていれば、それは農民を搾取していることになるだのといったような、発生してからたかだか三千年ぐらいにしかならぬ「未開な」人間の知恵がうんだ理屈からきたヴォキャブラリイによるのではない。もっと直接的な物理的な圧迫や搾取のことです。それをしないこと。すくなくともできるだけ避けること。これはそれほどむずかしいことではありません。ふつうの真人間には他人を圧迫したり搾取したりする
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