抵抗のよりどころ
三好十郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)原民喜《はらたみき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)劇団|民芸《みんげい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ここに[#「ここに」はママ]
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1
私は妙なところからはじめます。
いま私はすこし長い戯曲にとりかかっていますがそれを書きあげても発表する場所の目あてがないので困っています。以前からそうですが、敗戦後はじつに徹底的に、日本の諸雑誌は戯曲作品をのせることを毛ぎらいします。理由は、編集者たちの好みや偏見からくる小説偏重の習慣もあるだろうし、ページ数をとりすぎるという点もあろうし、戯曲作家たちが良い作品をあまり書きえないこともあるだろうし、読者が戯曲形式をよろこばないと思われている等々のようです。
どの理由も反ばくしようと思えばできるが、しかし反ばくしても仕方のない、また完全には反ばくできない理由ばかりです。なかでも最後の、読者がよろこばぬという理由がいちばん痛い。
現在の読者は、一冊の雑誌に小間物屋の店さきのように、流行小説家の名がズラリと並んでいないと買わないそうで、その並んでいる作品のなかみは比較的どうでもよいそうです。じつにばからしい話でその点では、現にそんな雑誌の編集者自体が、そのような読者を軽蔑しきっています。私などもハッキリ言うとそんな読者を軽蔑します。しかしそのような読者が雑誌を買ってくれないと、販売競争に負けて落伍する。そういう仕事をして食っているのが編集者であり、また、そういう雑誌に原稿を売って食っているのが著作家なのだから、実際上はそんな読者を軽蔑できるだんではないのです。アブラムシに依存しているアリが、アブラムシを軽蔑すると言ってみても意味はない。さしあたりは、それにむかってどうしようもないところの壁のようなものです。
そんなわけで、私のところに小説を書けとか随筆や評論を書けという注文は、ときどきくるが、戯曲を書けとの注文は、ほとんどきません。こちらから頼めば戯曲をのせてくれる雑誌は一二あるにはありますが、あまりたびたびだと迷惑をかけそうで気やすくは頼めません。
現在書きかけている作品の発表のあてがないのもそのためです。そして、私はごぞんじのとおり小説や評論は、まれにしか書かないし、枚数もすこしなので、それからの収入はごく僅かです。財産も貯蓄もありません。毎月の生活を原稿料でまかなっていく以外に手段はない。まったく手から口への生活である。
私はたいがい戯曲を一編書きあげるのに三カ月を要しますが、書きだすときに生活費がチャンとあったためしがないので、たいがい他から借金します。毎月いくらかずつ借金して三カ月後に作品を書きあげ、それをどこかに売って金をもらい、それで借金をかえすとたいがい、なんにもなくなるか、ごく僅かが残るだけです。もし作品が売れないばあいは、借金は全部ひっかぶらなければなりません。
今まで、ありがたいことに、だいたい売れてきたが、しかし売れないばあいのことを想像すると、書いているあいだも背筋がさむくなります。ヘタをすると家族全部が飢えなければならないのです。飢えた家族たち、および自分の姿を、机のむこうがわにマザマザと見ながら、青ざめた顔をして戯曲を書いているのです。そういう場で私は仕事をしています。
ところで、そういう私という劇作家は全体なんだろう? そうです、二十年あまり戯曲を書いてきている。あまりすぐれた作品は書いていないが、現在日本の劇作家の中から代表的な十人をえらべばその中の一人になろう。それがこんな状態で仕事をしている。ウラメシイと言うのではない。不当だとも思わぬ。事実を語っているまでです。そして、しかし、この私などはまだ幸運ではないかと思います。とにかく劇作の仕事をつづけられるほどの状態ではあるのですから。
現在の劇作家は、劇作の仕事だけでは、まったく食っていけないのがふつうなのです。それは前記のとおりジャーナル一般が戯曲を疎外しているためもあるが、一方、演劇が経済的になりたっていないためでもあります。
いろいろの種類の演劇が現に存在しているのに、それらが経済的になりたっていないというのは、変な言いかただが、事実だからしかたがない。演劇興行だけの収入で人件費その他全部の費用をまかなって自立している劇団は、今ひとつもないといっても言いすぎではない。ほとんどが映画や放送に依存しているか、または、ひどく変則に赤字をころがして歩きながら芝居をしている状態です。他の人のことをいうと迷惑をかけるから自分を例にひきます。
最近、劇団|民芸《みんげい》が私の作品を二三回上演したが、その全部がヒットで、百パーセント以上の入りでした。ところで、その収入から製作費いっさいを支払ってみると純益はほとんど残らぬか、足が出て赤字になっています。劇団全員の月給など、そこからはまったく出てきません。月給は、劇団員たちが映画やラジオに出演した金を劇団に入れて積みたてたものから出るのです。作者への上演料はもちろん出ますが、そういう状態のため、ごく少額にならざるをえない。だいたい現在日本の一本立ちのシナリオライタアが、シナリオ一本書いて映画会社からもらっている金の五分の一か八分の一程度でしょう。しかも、もちろん上演したとき一回きりで、ふだんの作者の生活はまったく保証されていないし、保証するだけの力は劇団がわにもありません。したがって、われわれ劇作家は劇団を当てにして生活し仕事していくこともできないのです。
ザッと右のような実情に、私はあります。
2
小説家や評論家たちは、これほどではないのかもしれません。しかしよく考えてみると、それは程度の差だけで、ごく少数の流行児をのぞいて、小説家なども本質的には似たような情況にさらされていると私は思うが、どうでしょうか? その日ぐらしの不安を抱かないで仕事をしている文学者が今の日本にいくにんいるでしょうか? しばらくまえに自殺した原民喜《はらたみき》の懐中に、十円サツが一枚残っていたとかいう新聞記事を、私は忘れることができないのです。
なるほど流行児以外の文学者が経済的にめぐまれないということは、今にはじまったことではありません。昔からそうだし、世界中どこでもそうだ。しかし、そんなことは今の慰めにはならぬし、かつ現在の日本のこの状態は極端すぎる。
つまり、文学者は――その文学者が真に文学者と呼ばれるにふさわしい文学であればあるほど、ルンペン化の一歩手まえまで追いつめられているのです。そして私は、「文学者というものは、だれから頼まれたわけでもないのに、自分から好んで、だれに必要でもないものを作りだそうとしている人間だから、貧乏し飢えるのもしかたがない」といったようなセンチメンタルな考えには賛成できないのです。人がそう考えることも、自分がそう考えることも、私は許しません。
文学者は、社会全体からの暗黙の付託によって生まれ、それへの責任をせおって立っているものです。これは、私の主張や希望ではなく、客観的にそうなのです。飢えてはならぬし、飢えるべきではない。
このばあい、「社会のなかに多数の飢えたものがいる。それを無視できないだけの誠実さがあるならば、文学者はペンを捨てて社会全体の救済におもむくべきだ。またそのペンを社会救済の仕事にむけるべきだ」といったような考えも、私には甘く見えます。ペンを持たない「文学者」などありうるはずはないし、文学が他の目的の「用具」になりうるなどの考えは、傲慢であると同時に、卑屈な妄想であります。
文学者は虫のせいやカンのせいで文学者になったのではない。また趣味や慈善のために文学者になったのでもない。のっぴきならず、しょうことなしにつまり石が水に沈むように文学者になってしまったのだ。頬がえしがつくものか。もはや、かくある現前のザインの地べたを踏んまえてテンゼンとして立ち、発言する以外にないのです。
そこで、飢えてはならない。ところが現実はまさに飢えんとする一歩まえにあります。しかも全体としては完全な自由競争に打ちすてられながらです。日雇人夫さえ組合をもっている時代に、頭脳労働者はチャンとした組合ひとつ持たないでいます。(著作家組合はあるにはあるが、今のところユニオンよりもソサエティに近い。もちろん、それでもあった方がよいにはよい。)
それが持てないほど、われわれの職業意識はひくく、現実にたいする感覚は分散的で、集中力を欠いているといえるでしょう。原民喜のような人が、あと百人ばかり現われれば、あるいはこうでなくなるかもしれません。さしあたりは仕方がない。一人びとりが自分だけを頼りにして自由競争の波をしのいでいくほかに方法はありません。実情においては原民喜と本質的に同じ状態――懐中に十円サツを一枚もっただけで、そして電車にひき殺されないようにして、われわれは歩いていかなければならないのです。なさけなかろうと、あろうと、これがわれわれの置かれている情況です。
さて、かかる情況のなかで抵抗が論じられています。他からくわえられる、またはくわえられるであろう政治的な力や軍事的な力や文化的な力にたいするレジスタンスが論じられているのは、かかる情況のなかにおいてです。論じられるのはよい。どんな情況のなかででも、重大な問題ならば論じられる方がよいのです。ただそれが、われわれが現実的に置かれている情況と切りはなされた形や場で、ただ一般的に、そして一般的にだけ論じられているとするならば、私にはおもしろくないだろうと思う。そして、おもしろくない抵抗論が多すぎるように、私には見えます。
一つのことを考え、押し出し、論ずるのに、それをする人の全生活や全生命を底の方まで貫いてなされるのでなければ、論そのものが、無意味であると同時に無力でありましょう。腹のタシにならないのです。それは空論です。肥え太ったブルジョアがソファによりかかりながら、飢餓についてする空論はコッケイです。しかし現に飢えている人間が、自分が飢えているという事実を抜きにして、それとは無縁のこととして、飢餓について空論を弄することだってあるのです。これは二重にコッケイだし、ミジメです。その二重のコッケイな、ミジメなことをわれわれの抵抗論者たちは、やりすぎているのではないでしょうか?
その証拠に――証拠というのもちょっと変ですが――多くの抵抗論者の論文を読んでも、その論者の主体のあり場所がわからないことが多い。また、論の主旨は理解できても、それを一つの知恵として実践しようとすると、われわれはどうしてよいか、わからなくなる。
一例をあげます。勇敢でしつような抵抗論者としての清水幾太郎《しみずいくたろう》を、私はかねて尊重しているが、正直のところ、この人はただ単なるアップ・ツウ・デイトなジャーナリストにすぎないのではないかと思うことが、ときどきある。しかし、そう思いきれもしないで、やっぱり一人の進歩的な愛国者だろうと思ったり。そして、彼の力説する再軍備反対、戦争反対、アメリカ軍事基地化反対などにこちらが賛成して、では、じっさいに、どうすればよいかと考えると、さっぱりわからなくなる。少なくとも、口さきで反対をとなえる以上のことは、何をしてよいかわからない。
しかも、清水の抵抗論にこちらがいくら賛成していても、たとえば、自分が失業したときにアメリカ軍需品工場に雇われるのが、よいか悪いかを判断するよりどころにはならないだんではない、たとえばアメリカがくれた小麦粉でつくったパンを、食えばよいか食わないがよいか、食うとすればどう思って食えばよいか、などの態度を生みだしてくる頼りにさえもなりにくい。
それは結局は、清水が自分の主体をさらけ出し、その主体を根こそぎクシザシにした形で、自分は具体的にこのように抵抗するのだといった形で論をおしだしていないからだと思います。少なくともそのような地盤
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