するならば、私にはおもしろくないだろうと思う。そして、おもしろくない抵抗論が多すぎるように、私には見えます。
一つのことを考え、押し出し、論ずるのに、それをする人の全生活や全生命を底の方まで貫いてなされるのでなければ、論そのものが、無意味であると同時に無力でありましょう。腹のタシにならないのです。それは空論です。肥え太ったブルジョアがソファによりかかりながら、飢餓についてする空論はコッケイです。しかし現に飢えている人間が、自分が飢えているという事実を抜きにして、それとは無縁のこととして、飢餓について空論を弄することだってあるのです。これは二重にコッケイだし、ミジメです。その二重のコッケイな、ミジメなことをわれわれの抵抗論者たちは、やりすぎているのではないでしょうか?
その証拠に――証拠というのもちょっと変ですが――多くの抵抗論者の論文を読んでも、その論者の主体のあり場所がわからないことが多い。また、論の主旨は理解できても、それを一つの知恵として実践しようとすると、われわれはどうしてよいか、わからなくなる。
一例をあげます。勇敢でしつような抵抗論者としての清水幾太郎《しみずいくたろう》を、私はかねて尊重しているが、正直のところ、この人はただ単なるアップ・ツウ・デイトなジャーナリストにすぎないのではないかと思うことが、ときどきある。しかし、そう思いきれもしないで、やっぱり一人の進歩的な愛国者だろうと思ったり。そして、彼の力説する再軍備反対、戦争反対、アメリカ軍事基地化反対などにこちらが賛成して、では、じっさいに、どうすればよいかと考えると、さっぱりわからなくなる。少なくとも、口さきで反対をとなえる以上のことは、何をしてよいかわからない。
しかも、清水の抵抗論にこちらがいくら賛成していても、たとえば、自分が失業したときにアメリカ軍需品工場に雇われるのが、よいか悪いかを判断するよりどころにはならないだんではない、たとえばアメリカがくれた小麦粉でつくったパンを、食えばよいか食わないがよいか、食うとすればどう思って食えばよいか、などの態度を生みだしてくる頼りにさえもなりにくい。
それは結局は、清水が自分の主体をさらけ出し、その主体を根こそぎクシザシにした形で、自分は具体的にこのように抵抗するのだといった形で論をおしだしていないからだと思います。少なくともそのような地盤
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