らぬし、飢えるべきではない。
このばあい、「社会のなかに多数の飢えたものがいる。それを無視できないだけの誠実さがあるならば、文学者はペンを捨てて社会全体の救済におもむくべきだ。またそのペンを社会救済の仕事にむけるべきだ」といったような考えも、私には甘く見えます。ペンを持たない「文学者」などありうるはずはないし、文学が他の目的の「用具」になりうるなどの考えは、傲慢であると同時に、卑屈な妄想であります。
文学者は虫のせいやカンのせいで文学者になったのではない。また趣味や慈善のために文学者になったのでもない。のっぴきならず、しょうことなしにつまり石が水に沈むように文学者になってしまったのだ。頬がえしがつくものか。もはや、かくある現前のザインの地べたを踏んまえてテンゼンとして立ち、発言する以外にないのです。
そこで、飢えてはならない。ところが現実はまさに飢えんとする一歩まえにあります。しかも全体としては完全な自由競争に打ちすてられながらです。日雇人夫さえ組合をもっている時代に、頭脳労働者はチャンとした組合ひとつ持たないでいます。(著作家組合はあるにはあるが、今のところユニオンよりもソサエティに近い。もちろん、それでもあった方がよいにはよい。)
それが持てないほど、われわれの職業意識はひくく、現実にたいする感覚は分散的で、集中力を欠いているといえるでしょう。原民喜のような人が、あと百人ばかり現われれば、あるいはこうでなくなるかもしれません。さしあたりは仕方がない。一人びとりが自分だけを頼りにして自由競争の波をしのいでいくほかに方法はありません。実情においては原民喜と本質的に同じ状態――懐中に十円サツを一枚もっただけで、そして電車にひき殺されないようにして、われわれは歩いていかなければならないのです。なさけなかろうと、あろうと、これがわれわれの置かれている情況です。
さて、かかる情況のなかで抵抗が論じられています。他からくわえられる、またはくわえられるであろう政治的な力や軍事的な力や文化的な力にたいするレジスタンスが論じられているのは、かかる情況のなかにおいてです。論じられるのはよい。どんな情況のなかででも、重大な問題ならば論じられる方がよいのです。ただそれが、われわれが現実的に置かれている情況と切りはなされた形や場で、ただ一般的に、そして一般的にだけ論じられていると
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