」すぎると、抵抗という課題自体のもっている重大な現実的意味が、国民のあいだに定着しないで、頭の上を通りすぎていく危険があるということだ。
 第四の理由は、「抵抗屋」も、あるところまではたぶん抵抗するだろうが、それがある限度をこえると、たぶん、よそへ逃げ出す、つまり亡命するといったようなことになるだろうし、またそうすることができる。しかし私どもは、この土地でなさなければならぬ本業があるから、よそへ逃げだすわけにはいかぬし、逃げだすことを欲しない。そのような抵抗論者の考えた抵抗論と、そのような私どもの考えなければならぬ抵抗とは、そもそものはじめから違ったものでなければならぬと、私が思うためである。
 そこで、私どもが自然にある姿が、私どもの抵抗のもっともよい姿勢ではなかろうか、そうできるかできないかはまだハッキリ言えないが、やりようしだいでは、ある程度までできるような気がする――というところまで話をこぎつけました。つぎに移ります。
 そのまえに、私が戦争中にその目撃者からきいた国民党政権下の中共軍パルチザン部隊の老兵士の話を思いだしてみます。
 彼はそのとき、すでに十年もパルチザン戦に参加してきたそうで、痩せた身体の強じんで柔軟なことはムチのようで、風雨にさらされた頬にはコケのようなものが生え、一頭の馬にまたがり、戦闘と生活に必要なものは全部馬につけており、その姿はまるで安心しきった乞食の引っこしのようで、さらに、つねに少量の酒をたやさず、そして馬のくらつぼのところには古いコキュウを一ちょうさげている。どんなところでどんな敵にあってもよく戦い、つねに機嫌がよく、どこででも眠り、戦闘が暇《ひま》になると銃把から手をはなしてコキュウをひいて歌ってたのしむそうです。
 それゆえ、彼は自分のしているパルチザンの抵抗戦に、とくに一時的に興奮したり興味を感じたりはしないが、いつでも、そしていつまでもそれに飽きないらしく見うけられたそうです。彼にとって戦いは、すでに戦いではなくて生活それ自体だからでしょう。抵抗はすでに抵抗ではなくて自分が生きているということ自体だからでしょう。
 戦争はイヤです。戦闘もごめんだ。だからそういう意味のパルチザンなどにはなりたくない。しかしもっと深い意味での戦い――自分を自分であらしめるための、自分たちの国であらしめるための、そして自分と自分の国がどんな
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