ことがあっても欠くことのできない根源的な「自由」を確保するための、武器によらざる戦いに私どもが参与しなければならないのならば、そのときの私の姿は右の老兵のような姿でありたいと思うのです。そして老兵の姿は、桃の木の姿に似ています。
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私自身の抵抗論そのものは、じつに簡単素朴なもので、十行ぐらいに個条書きにすることができます。しかしそのまえに、ちょっと言っておきたいことがあります。それは前節中で「あとに書きます。」と言ったことです。
私という人間は、どううぬぼれてみても、それほど偉くありません。また、それほど強くない。ごくふつうの知情意をもっているにすぎず、弱い。ところが、現在あちこちで行われている抵抗論はみんなかなり偉い強い人間でなければ実行できないようなものが多いのです。これまでにあった優れた抵抗論もほとんどすべて、かなり偉い強い人間――理想的人間を目安においてなされています。
たとえば、ガンジイの無抵抗の教義など、じつにりっぱな抵抗論であり、私などそれから無限の教訓と勇気づけとを受けとることができるが、いかにせん、これを実行するにあたっては、人格的に最高にちかい、そしてひじょうに強く完全な、宗教的信念に立脚した人間が予想されています。そのような人びとにしてはじめて可能な抵抗が押し出されています。うらやましいとは思うが、ふつうの人間には実行不可能なことが多いのです。
私は偉くなく、不完全で弱虫で、宗教的信念ももたず、将来とても、だいたいそうだろうと思います。だから多少とも理想的人間を予想した抵抗論をやる資格と、そして、じつは興味ももちません。私は私じしんに実行可能な抵抗しか考えられないのです。
つぎに、私がたいへんな臆病者であるということです。卑怯者ではありたくないと思い努力していますが、そしてこれはいくらかなおせるが、臆病である本性はなおせない。自分の身と心を危険にさらしそうなことのいっさいが私に怖い。生れつきの過敏という素因もあります。時によって、それは病的にまで昂進して恐怖症の状態にまでなることがある。私の日々の暮しと仕事は大きい恐れや小さい恐れの連続だといってもさしつかえありません。まして異常な破壊力や暴力などの発現は、上は原子爆弾から下は市井《しせい》の喧嘩ざたまでシンから怖い。生活の不安にたいしても、じつに気が小さいのです
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