それが悪だと一見してわかるような種類の暴力――にむかってなされたもので、それだけに困難で危険だったといえるが、相手の暴力には、知らず知らずのうちにこちら側にしみ通ってきて、こちらを腐蝕してしまう力は、さまでなかったと思う。
ところが、いまの日本は戦争中ではなく、日本にくわえられている、または今後くわえられるであろう諸種の圧力は、直接の軍事力というよりも、もっと間接の政治・経済・思想・文化・生活様式などの、それ自体としては暴力などとはいえない、広くゆるやかなもので、直接に目に見える困難や危険はないが、それだけに、ひじょうに強くかつ長い浸透性と腐蝕力を持ったものだ。だからこれにたいする抵抗は、フランス文化人の経験したものとはかなり質のちがうもので、ある意味では、より困難で危険で、百倍もの持久力を必要とするものだと言えよう。この特性がつかまれたうえで、現在の抵抗論が展開されているようには私には見えないからである。
第二の理由は、それらの抵抗論の姿の多くが、前のめりになりすぎているように私に見えるからである。ということは、抵抗すべき目標物が一目標にかぎられすぎ、それにむかって論者の目が「すわり」すぎて、他を見まわす余裕が失われているということと、論の力点が前の方へ傾きすぎて、後からヒョイとこづかれれば、前方へひっくりかえる態勢にあるということだ。その実例はいくらでもあげうるが、いまは略しておく。そのため、前から走ってくる自動車にひかれまいと思ってあまりに夢中になっている人が、後から来た馬車にひかれてしまう危険とおなじような危険が感じられるからである。目は四方にはなたれる必要がある。身体は安定に、八方へ可動に、ということはそれ自体としての自然に立つ必要がある。
第三の理由は、抵抗論のほとんどが評論家によって展開されるだけで、他の専門の仕事をもっている人にとってはほとんどなされていないことだ。もちろん評論家は評論が本職なのだから、抵抗論を書いたり講演してよいし、それでメシを食って悪いわけはあるまい。しかし労働者が労働をとおして、農民が農作をとおして、その他あらゆる業種の者が、自分の専門の勤労をとおして具体的にしている「日々の抵抗」を、評論家たちはどれだけしているか? 重大な点は、日本においてこれまでいろいろのことがそうであったように、問題を筆や口のさきであまりに「ヘナブリ
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