。
さて、この点でも人さまのことは、さしあたりどうでもよい。まず私は私の足もとを照らしてみなければならない。これらのことにつき私は考えました。私の考えたことは例のとおり浅薄素朴なものかもしれないが、私にわかっています。それをのべてみます。
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正直のところ、私はなにものにたいしても、どんな種類の抵抗もしたくありません。抵抗などむりなことをしないで、自分の貧しい生活と仕事だけにいそしんでいたい。しかし、いろいろの圧力はいろいろの方向からくわえられる。逃げても逃げても結局は逃げおうせることはできない。ならば、それを受けいれなければならぬ。受けいれることがイヤならば抵抗しなければならぬ。せざるをえない。だからといって、しかし、いくら貧しくとも自分の生活と仕事にいそしむという、私にとって第一義的に意味のあること、人間としての最低の基本的な要求をわきに打ち捨てて、それとは別のものである抵抗――または、それとは別のものとして抵抗をとりあげたくはない。もしできるならば、自身の生活と仕事にいそしんでいる私の仕事そのものが、そっくりそのままで角度をかえてみれば抵抗の姿そのものであったというふうにありたい。――そんなふうに私は言おうとしているのです。
これは虫のよい考えです。人間は、しかし、すべて虫のよい動物です。私もそうです。問題はそれが可能であるかどうかだ。私は可能だと思う。すくなくとも、ある程度までは可能だと思う。
こうして物を書いている私の窓の前に、一本の老いたる桃の木が立っています。雨がふればぬれるし風がふけば揺れうごきます。子どもがよじ登っても鉄砲虫が幹をかじっても、はらい落すことはできません。目に見える抵抗は一つもしません。しかし桃の木は生きていて、時がくれば花をさかせ実をつけます。すでに幹も枝も朽ちかけているが、まだ倒れそうにない。
一個の自然物だから、これをいま話している抵抗にひっかけて考えるのは、無意味かもしれませんが、いつだったかの大嵐の日に、この桃の木が枝々をもぎとられそうに振りみだし、幹も根もとのところからユサユサとゆすぶりたてられている姿を見ていて私はこの木がこうして立っている姿を、ソックリそのまま抵抗の姿だと見られないこともないと思ったことがあるのです。
もしそう見ることができるならば、この桃の木の姿は、前述の私がこうありた
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