仕事の地盤としては泥沼とおなじです。底はあるだろうが、その底は確かめられた形ではつかまれていません。ジャーナリズムや大学に依存して、そして依存するだけで安心して抵抗論を展開している文筆家や大学教授たちは、泥沼が自分の脚を没し胸を没し手を没し頭を没し去ったときが、自分の抵抗のおわるとき、つまり自分の抵抗の限界であることを知っているのでしょうか? つまり問題は、人が「どこでネをあげるか」ということなんだ。
戦争中、情報局からおどかされただけでは転向しなかった進歩主義者で、軍からおどかされるとひとたまりもなく転向した人がかなり多かったことを思いだしてほしい。それのよい悪いを言いたいのではない。軍に抵抗することができないのならば、またそのような抵抗をするだけのよりどころに立っているのでないのならば、情報局にも抵抗しない方がよかろう。少なくともそれは無意味だ。というようなことが言えたと思うのです。
現在ジャーナリズムや大学その他に依存しつつ抵抗論をやっている人たちは、もしその抵抗の結果か、または他の理由からジャーナリズムや大学その他から締め出しをくったばあいには、どこに自分の足を置いて抵抗していくのですか? さらに、現在それらの抵抗論者たちは、アメリカがわれわれにくれている軍事力と生活必需物資の、軍事力はイヤだからことわるが物だけはもらうという形で抵抗論をやっているが、これが軍事力がイヤなら物もやらないぞという形になるか、または軍事力をわれわれに与えることが、軍事力をもって強制されるという段階になったら、どうする気なのでしょうか? 私にはわからない。たぶんそれはご当人たちにはわかっていることで、ただ語らないものだから私にわからないまでだろうと思います。しかし、はたしてそうなのか? はたしてそうだと思ってしまうにしては、あまりに共通してわからなさすぎます。
この人たちは、これほど一致して自分たちの考えていることを、これほど人からかくすことができるのだろうか? ふしぎでなりません。だからもしかすると、この人たちはそういうところまでは考えていないのではないか、だからこの人たちの抵抗論は今後起りうる悪い事態を予想して、それにむかって警戒照明弾をぶっぱなしておくといった式のものか、または観念的な――観念的のみでありうる境での、犬の遠吠え式のものではなかろうかと思ったりするわけです
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