いわばほとんど絶望しているからです。ソフィストリィを弄しているのではありません。素直に考えてそうなのです。それはつぎのように私に思えるからです。
現在の自分の状態は、いかにも困った状態である。しかし、なんとかかんとかやっていける。やっていけるあいだは、これでやっていく。いよいよやっていけなくなったら、私は自分の作品をプリントにするか筆写して一部を百円で売ろう。全国に私の読者が一万人はいる。たぶん、そのなかの千人か五百人は買ってくれる。すると五万円から十万円が私の手にはいる。それだけの金があれば私と家族は三カ月暮せる。その三カ月でつぎの作品を書いて、また売る。そういうこともやっておれなくなったら、私は私にもできる軽い労働をさがす。それもなければ紙芝居屋になる。紙芝居なら私にもかなり巧みにやれる自信がある。そして休みの日や夜間に戯曲を書く。さて、そういうこともやっておれなくなったら、仕方がない、乞食になる。そして時間とエネルギーの余裕だけを戯曲を書くことに使う。
君は読みながら、たぶん笑っていられるでしょう。なるほど、こんなことまで考えるのは感傷的すぎ、神経質すぎるかもしれません。しかし私において、これは笑いごとでもなければ、感傷でもなければ、過敏でもありません。ごくあたりまえの冷たい思量なのです。現前の自己の条件を一つのハッキリした限界情況として受けとったうえで、それとつなげた形として私の持ちうる具体的実践的なパースペクティヴであって、ほしいままな、または逃避的な想定ではないのです。ですから私は事態がそうなったときにはそうするであろう決心をもっています。
そう決心をつけたら私は落ちつけました。不安はあります。不安はどこまでいっても、ついてまわるでしょう。しかし根本的なところで安心しました。つまり自分の生活および仕事と、起りうる困難な事態との関係では、私は水中を下へ下へと沈んでいったすえに、私の足は水底の地面にやっととどいたのです。それは貧弱きわまる、一尺四方ぐらいの地面ですが、しっかりした岩でできた地面で、私がその上に立つことはできます。
立つことができるならば、そこで、もし他からくわえられる力に抵抗しなければならないとならば、抵抗することができるのです。私の足が私を支える力を失ってしまうまで抵抗することができます。
いまのジャーナリズムや大学などは、生活や
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